涙の行方・後編
庭園の花々が色とりどりに咲き揃う午後のひと時、王妃付きの侍女に王妃である母上が私をお呼びだと伝えられた。
偶々午後の予定がキャンセルになっていた私はすぐに王妃の私室に向かった。
廊下の先に母上の部屋が見えてきた頃、丁度部屋から出てきた婦人がいた。
先客だったようで、母上の侍女に伴われ退室する処だった。何の飾りも着けずに柔らかく結われた栗色の髪に、華美でない、一国の王妃の元を訪ねるには質素と言える慎ましやかなドレス。けれど遠目に見てもその婦人が品のある大層美しい人であろう事がその佇まいから窺えた。
母上の側に仕える王宮でも一流の侍女達に負けず劣らず優雅にドレスの裾をそっと揺らしながら歩くその姿に、はて、あのご婦人はどこの誰だろうと、疑問に思った。
残念ながらその婦人は私がいるのとは反対の方向へと行ってしまったので、はっきりと顔を合わせる事は叶わなかったが、身分の然程高くない、けれど落ち着いた雰囲気の美しいご婦人など、母上の周りにいただろうか?
そんな事を軽く疑問に思いながら母上の部屋の前に辿り着いた時、ふわりと香水の残り香がした。その香りに何故だか懐かしい心持ちになった。
気を取り直して私は扉脇に控える護衛に視線をやり入室許可を促す。
部屋に入ると母上はソファに腰掛けていた。
侍女が先客のお茶を片付け終えたばかりらしく、私は暫く佇んで待つ。
だがしかし、母上は来客に少し疲れが出たのか、私とは反対の方向の窓の外へと顔を向けて何か考え込んでいる様子で、私の訪いに反応を示さない。どうしたものか?
「母上? お呼びと伺い、急ぎ参りましたが」
私の呼びかけも聞こえているのやらいないのやら、母上の視線は外の景色へと飛んだままだ。
私は壁側に控えている侍女へ肩を竦めてみせる。
やがて母上は独り何度か頷くとようやっとこちらに向き直った。
「待たせたわね。少し考えを纏めていたものだから。
よく来ました。急に呼んで悪かったわね。
最近、変わりはなくて?」
「お気遣いありがとうございます。日々私に課せられた執務を熟す事に邁進しております。父上や母上の期待に添えていると良いのですが」
椅子を勧めるでもなく話し始めた母上に、私は当たり障りのない返事をした。
私の返答を聞いた母上は微かに眉を顰める。
「期待に添う…ね。成る程。王太子としてのあなたの振る舞いには今の所、及第点をあげてもいいと思っています」
そう言って母上はにっこりと絵に描いたような笑みを見せた。
「王太子としてはね」
おうふ。
まずい。ひじょーーにまずい。その証拠に母上の手にある扇子が微かに震えている。
「けれど一人の男としてはどうかしら」
器用に片眉を上げ私を睨め付ける表情は、とてもではないが、息子に向けるものとは思えない。母上、あなた本当に私の母親ですか?
「先日、デラシア嬢と庭園を散歩したそうね」
私は先日、我が婚約者殿を誘い蔓薔薇の見事な庭園を散策した日の記憶を急ぎ掘り起こした。ええ、思い出しましたとも。
「はい、母上に薦められた蔓薔薇を二人で鑑賞致しました。大変見事に咲いており、美しい景色を堪能致しました。ご推奨頂きありがとうございました」
「景色ね…、あなた、その折にデラシア嬢とは何の話をしたの?」
話? はて、何だったかな。あの日は特にこれといった用事があるでなく、確か互いの近況報告程度の、無難な話だったはず。
「その日、彼女はどんな装いでした?髪型は?アクセサリーは着けていて?イヤリングは?していたならばどんな物を?香水は?いつもと同じ物?違う物?何の話に興味を持って、どの花が一番気に入っていましたか?」
矢継ぎ早に質問を投げつける母上の話の意図は何なのか、私は目を白黒させて狼狽えた。
「え…、ええ?母上? 装い? 昼間でしたので、宮廷参内に相応しい昼用ドレスだったと思いますが…若しくはもう少しくだけたものでしたか? アクセサリーは当然身に着けていたはずですが、イヤリングですか?どうだったかな…。あの、全て答えねばなりませんか?」
私の言葉を受けて、母上は顎をそらし気味に上げ私に冷やかな視線を向ける。
「答えられるのならばね。答えてごらんなさい」
「………」
しかし、急な衝撃の為か、あの日の彼女の姿が浮かばない。花?どの花って…見たのは蔓薔薇だ、ならば蔓薔薇以外にないではないか。
いつもならば相手の追求にここまで狼狽える事などあり得ない。常日頃から会話の内容を先読みし一手二手と先手を打つなど造作も無いはずだった。
しかし今は相手が母上であった為か、うっかり気が緩んだまま相対してしまったのだろう、残念ながら母上の問いに私に答えられるものは無かった。
母上はふぅっと小さく溜息を吐くと緩く首を振り、手に持った扇子をトントンと軽く掌に打ち付けながら話しを続けた。
「小耳に挟んだのだけれど、あなた、デラシア嬢の前で他の女性の話をしていたのですって?」
んん?何の事だ?
「その日、二人で庭園を散歩しながらした話の半分以上が、ある女生徒を讃美する話だったそうではありませんか」
私はそこではっとした。なんと、私には思い当たる節がある。そうだ、あの日は。だが、あれは…
母上は私の顔を半目で見据えながら呆れを滲ませた声を出した。
「人の行いを評価するのは構いません。王太子という立場からして正しい事でしょう。しかし何事も時と場合と相手によります。そんな初歩の初歩ですら出来ていないとは。しかも、この場合、一番重要な事は」
ここで一段と母上の手元に力が入ったのが、身体から滲む力み具合で分かった。私はぐっと息を詰める。
「その事で己の婚約者を悲しませたという事です!」
遂に手の中の扇子がバキンッという断末魔を上げ、その短い生涯を終えた。
「私が何を言いたいか、分かっているの?ラインハルト。
自分の反省すべき点を全て、あげてみなさい」
凄みを増す母上の目の前で、私にどう抗う術があるだろうか。いや、無い。全く持って無い。
私はこういう時の母上がどれ程恐ろしいか知っている。今だって恐ろしすぎて目も合わせられない位だ。
言っておくが母上は大変美人だ。その昔、父上の元に輿入れする前は王都の祭りの女神役に選ばれる程に美しい。
なんでもその時の祭りには他にも一人、大層美しい花娘がいたとかで、その年のパレードは今でも語り種になっている。
美人が怒ると迫力が違う。出来る事ならば逃げ出したい。しかしそんな事をしてもどの道近いうちに捕まり、逃げ出した分、余計に激昂するのがわかり切っている。
ここは辛抱、出来ぬ辛抱、するが辛抱!!
その後延々と母上の御高説は続き、日を改めて"女性に対する心得その他マナーと注意事項"なる授業を一日五時間、三日に渡り賜る事になり、私は己の迂闊さを呪った。私の細やかな抵抗は「大丈夫です。貴方の父上もこれと同じ授業を受けた後には"受けて良かった"と泣きながら心から感謝していましたから」という母上の言葉によって流された。
父上も受けたんですね…
父上は何をしたんだろう……
そんな風に明後日の方向に意識を飛ばしていた私は、ああ、そう言えば先ほど入室する前に嗅いだ香りは幼い頃に母上からした香りと同じだなと、どうでもいい事を思い出していた。
お読みいただきありがとうございました。




