沈んだ夜明けの日
行き過ぎた科学。
可能性と義務に板挟みになり、日は地面めがけて昇る。真っ暗な夜明けは、一体誰のためなのだろうか。
眩しかった光と、流れる時の話です。
全4話です。
時間が無駄にゆっくり過ぎていく。
物々しい堤防、砕ける波濤を眺める私は一人だった。
今まで何度も被験者を実験に送り出して来たが、それでセンチメンタルになるのは初めてのことだ。最後まで待ってくれなかった時間とただ非情な運命が哀しい。
空は黄昏。ゆっくり歩いていたつもりが堤防の端から端を来てしまったようで、私は少し迷ってから施設へと爪先を向けた。
凪ぐ天に心は嵐。我ながららしくない、とは思いつつも、その爪先は湿気を孕んで重かった。
コンクリートを踏む音。私はすぐに施設に辿り着いた。自然と、癖のままエレベーターの前へと移動する。
装置を少し操作すると、間もなく鈴の音が小さく響いた。昇降機の到着だ。ゆっくり開く扉に入って、ボタンを押す。
地下へと下っていく感覚。
私たち管理者は、担当の被験者を送り出すたびに二日の休暇が与えられる。昨日を一日無為に過ごしてしまったので、今日は何かしなければとの焦燥に駆られていた。
というのも、この休暇で実際に休んだのは初めてのことなのだ。これまでは、誰がどう実験に使われどう処分されようと気にも留めなかったし、心底どうでもよかったからだ。それが今回はそうはいかず、上から休むようにとのお達しを受けてもいる。
ありがたいことではあるが、今は両手に余る時間が辛い。できれば何も考えず、何かに一生懸命になりたかった。
扉が開く。エレベーターを降りると、見慣れた地下だ。私は足の向くままに、ある部屋まで歩いた。
もう番号のプレートが外された、しかし見慣れた部屋。簡単な認証でドアが開く。
部屋はがらんと寒々しい。床には何もなく、棚には数冊のノートがあるのみだった。毛布が部屋の隅に畳まれていて、ライが元から居なかったかのように、見事に整理されきっている。
机の上に、ボールペンと、ノートを1ページ切ったと思われる紙があった。それを覗き込む。
ありがとうございました。遅くなりましたが、お返しいたします。
ただそれだけの、短い几帳面な字。彼女は確かにここに居たのだ。悲しみが胸を突く。
悲しいほどに何もなく、整理されきっている。
ああ、終わってしまったんだな。
本棚にぽつんと置いてあるノートが目に入った。何とはなしにそれを手に取る。
――日付不明
ペンとノートが支給されたので、日記を書くことができます。大事なことを忘れないように、色々なことをこれに書いておきましょう。
今日を1日目、以後管理者さんが来る度に一日ずつ経ったものとします。
――2日目
私の名前はライ。父と母が居ましたが、どちらももう居ません。
――3日目
私の名前はライ。私は鞄が好きです。思い出と楽しみをいっぱい詰めて歩ける。
経った時間さえ分からないここで、彼女が自分自身を必死に繋ぎ止めていた。
ぱら、ぱら、ページを捲る。ライという一人の少女に関するすべてが、時に静かな字で、時に乱雑に、刻み込んである。墓標のようだ。
――138日目 冬
私の名前はライ。外出許可を頂けたとのことで、管理者さんに外へ連れて行って貰いました。太陽の光を浴びたのは久しぶりで気持ちよかったですが、寒かったです。海が綺麗でした。空が真っ青でした。息を思いきり吸っても気持ち悪くなりません。
現在、冬。
名前は毎日書いているようだったが、その筆跡がやや怪しくなっている。ぞくり、背筋が冷えた。
――151日目 冬 3月7日
私の名前はライ。実験日の通達が来ました。165日目にあたります。通達にあたり、日付が分かりました。現在3月7日。
――164日目 冬 3月20日
私の名前はライ。明日が実験の日ということで、一日ずっと敷地の外へ連れて行って貰いました。店は国営のもののみが残っていて、交通手段はありませんでした。
鞄を買って貰いました。念願の、です。管理者さんが優しくてよかった。
故郷に寄ってもらうことができなかったのが心残りでした。
帰りがけに、道に草が生えていました。オオバコというそうです。緑色で綺麗でした。
これまでにない楽しい一日でした。だから、私は幸せです。
だのにどうして、涙が止まらないの。
昨日の日付まで目を通して、私は息を吐いた。胸に空いた穴がどんどん広がっていく感触が、どうしようもなくつらい。何気なく、ページを捲った。
――165日目 冬 3月21日
目を瞠った。あの日、私が実験に連れて行くより前に書いたのだろうか。
私の名前はライ。きっとこれを読んでくださる、優しい管理者さまへ。
何かとよくしてくださり、お願いを聞いてくださり、ありがとうございました。
あなたのお陰で、不安に苦しくなる夜も絶望に苛まれる昼も乗り越えられました。
あなたの名前を知ることができなかったことだけが、私の心残りです。
さようなら、やさしいひと。
お世話になりました。
「やめてくれ……」
とびきり丁寧な字だが、それゆえ、震えや乱れがあまりに痛々しい。
それ以降の記述はない。私はノートをぱたんと閉じて、持ったまま部屋を出る。
昇降機に乗って移動している間も、彼女のことを思わずには居られなかった。
自分からこの施設に来た彼女。
後から語られたことだ。空襲で家ごと全てを失った彼女は、自暴自棄気味にこんな所へ自分から来たという。どういう場所なのか分かった上なのだろうから、相当参っていたのだろう。
来てすぐの時から従順だった彼女。
見るからに他の被験者とは違った。暴行をせず、自傷もせず、それどころか挨拶をしてくれる被験者は殆ど居ない。だからこそ、人としての扱いをせずとも心が痛まなかったのかもしれない。
話すようになり、外に出るようになった彼女。
挨拶の後の短い会話が楽しみになり、彼女からペンを申請されたことをきっかけとして話すことが増えた。思えば彼女の外出許可を申請したこともあった。地獄のような場所に来てなお強く清くある彼女に何か褒美をあげたかったのかもしれないし、私が彼女と話していたかっただけかもしれなかった。
……そして、真っ暗な車内で一瞬、ほんの一瞬だけ見せた本音。
彼女の最後の一日。外を車で一緒に走り、その帰り道でふと零れた本音。星明りに照らされた涙の横顔と鮮烈なオオバコの緑は、痛いほど記憶に新しい。
与えられた仕事をこなすことは、正しいことだと思って居た。自分がどれほどのことをやってきたか、その罪の重さと向かい合おうともせずに。これまでずっと、何度も、何人も。
悲しさ、情けなさ、ごちゃごちゃに混ざった真っ黒い感情の中、エレベーターのベルが鳴る。
日が明けた。
施設を出る。恨めしいくらいの、馬鹿みたいな晴れだ。私は自分の車に乗り、助手席にノートとペンを置いた。キーを捻っていると、窓ガラスが叩かれる。窓を開けると、同業者と目があった。
「やあ、おはよう。今日から復帰じゃなかったか?」
「その予定だった」
「予定だった、って」
首を傾げる管理者に、私は笑いかける。
「長い休暇を貰ったよ」
「ばっか、これから忙しいって時になんてことを」
彼はおどけてみせた。
「……まあ、あんだけ面倒見てた被験者5016が終わったんだもんな。お前もひと段落か」
顔を顰める。
「5016、なんのことだ」
「忘れたいのか」
やれやれ、彼は首を振った。
「無理だよ。奴ら、忘れた頃になってから夢に出てくるぜ」
「そういう話じゃない。俺がお世話になったのは、被験者5016ではなくライという人間だったというだけだ」
「……お前」
彼も触れたくないことだったのだろう。被験者を人間として見ては、管理者は務まらない。私は笑ってみせた。
「死んだ奴のことは忘れられないし、忘れないぐらいしか償いができない。それぐらいは分かってるさ、思い知った」
「そうか、強いんだな」
「まあ、な」
彼は居心地が悪そうに、腕時計を見る。
「そろそろ俺は仕事が始まる。達者でな」
「おう、頑張れ」
彼が背を向け、私はギアをドライブに入れた。
と。
「そういえば、お前どれぐらい休むんだ」
少し離れた彼から声がかかる。私はどう答えるか、少し迷った。
「……来世かその来世か、或いはもっと先か。そんな所だ」
「お前、管理者やめるのか」
「話が早くて助かる」
お前が勝手に遅くしてるだけだろう、ごちながら彼が再び近寄って来る。
「もう上との話はしてきたのか」
「ああ。別にいいってよ」
私は目を瞑った。
昨日、ライの部屋を出た後で私は管理者の管理者とでも言うべき人に会いに行った。
ごうん、駆動音。
管理者の居住区より上は、私たちでも滅多に行かない領域だ。緊張に喉が渇く。
身だしなみを検め、端末を操作し、手順を確認しきるより前に、ものの十数秒で昇降機が止まりドアが開く。真紅の絨毯が敷かれた、如何にも豪奢な廊下が姿を見せていた。戦時中だというのにこの装飾過多はいかがなものか。
気後れを感じないでもないが、私は進んだ。迷いと困惑と、酔いが醒めたかの冷え切った心、ただそれだけがブーツの硬い足音を刻んでいた。
突き当り、両開きの扉を開け放つ。
「失礼します」
「入れ」
深く一礼。軍服に身を包んだ壮年の男が、大きな机の向こうに座っている。この施設の主、軍部のお偉いさんだ。二人の軍人を侍らせていて、彼らもまたある程度位が高いのだろう、制服についた勲章がちらちらと笑っている。
「お前は管理者か。いつもご苦労」
「勿体ないお言葉でございます」
「……言いたいことがあって来たか?」
「はい、僭越ながら」
圧力を感じた。ぞわっと立つ鳥肌をなんとか宥め、息を大きく吸う。
「お休みをいただけませんか」
「なんだと」
怒鳴り声。
「お国の為に働くが嫌と申すか!」
「そういう訳ではありません!」
軍人は短絡的だ。それを圧倒するべく、私は声を張る。
「私は業務に大きなミスを出してしまいます」
「なに」
「私にはもう、被験者が人間に見えてしまうのです」
実際には人間なのだが。意味を汲んだ軍人が深く息を吐いた。
「ならば、もう復帰は絶望的だな」
「……申し訳ありません」
「まったくだ」
彼はやや考えるようなしぐさをした後、私に退出するよう手で合図した。
「もうよい、お前は解雇だ。お前自身が被験者となる前に、どこへとも消えるがいい」
私ははっとする。自分で言うのもなんだが、これほどうまくいくとは思っていなかったのだ。
「……何を驚いている」
「いえ、お優しいな、と思いまして」
「む」
軍人は露骨に顔を顰めた。慌てて謝ろうとすると、それを彼自身の言葉が遮る。
「……気持ちは、わからんでもないさ」
「えっ」
「俺もこんな所で事務仕事に就いているには訳があってな」
彼は語り出した。
過酷な軍の過酷な日。
船の乗組員だった彼は、ある日、敵の船と衝突したという。沈む両者、しかし、その乗組員たちは互いに殺し合うことをやめず、そのほとんどが無駄に海の藻屑となった。
「……それ以来、銃と船の音がどうも駄目でな。つまらない昔話だが」
「ありがとうございます。……失礼しました」
軍人に管理者に。この時世、生きることに不自由しないというだけで有難い話ではあるが、やはり誰の背にも絶望の影は忍び寄っているのだった。
「お前が辞めてしまうとなると、困るんだよなあ。お前が一番担当者が多かったから」
「そこは私には関係ない話だ、他の管理者たちと相談するといい」
「もう今更止められないよなあ」
「当然だ。私は行くぞ」
彼は頭を掻きながら、溜息を吐く。
「わかったよ、行ってくるといい。施設と管理者と徴兵には気をつけろよ」
「言われるまでもないさ」
手をあげ、アクセルを踏む。急加速に体が引っ張られた。
ハンドルを操作して、いつの日か通った道を走る。ミラーに映る施設がぐんぐん小さく遠ざかっていった。
未だ残る闇を進む。
少し行くと、記憶に強く残った場所へと辿り着く。私はなんとなくそこで車を止めて降りた。外の空気はやや寒い。
アスファルトの感触が足を打つ。
「やっぱり、ここだったか」
すぐそこで道路の亀裂にぽつり、一つの緑が根を伸ばしている。朝日に照らされ、いつか来た時よりなお目立っていた。
しゃがみ込んで、よく見てみる。色合いを湛えた瑞々しい葉に、あの夜の彼女の横顔が重なった。
素直になりかけて、やめて、為すがままに為されるがままに転がり落ちた運命。もうこの草をありがたがる純粋な瞳はどこにもなく、私は独りだった。失った物の大きさが胸を刺して刺して、たまらず私は草を抜いた。
オオバコは根が強い。少しだけ苦労して、しかし、呆気なく緑の命は果てる。私は立ち上がり、車に戻った。
行く先は誰も知らない。チェンジレバーを握る手から、オオバコが落ちる。
手に握った草はもうくちゃくちゃで、灰色に色褪せていた。
読んでいただき、ありがとうございました。




