千を生きた君
この愛から生まれた余裕と安堵は、この身を、心を蝕んだ。
存在しない植物はいくら願っても形にならないし、存在しない効能はいくら願っても現実にはならない。過去の行いは変わらないし決定された未来も変わりはしない。
後を追おうと、首に紐をかける度に思い出す。
『人はどんな事があっても命続く限りは生きていかなければならないものです。大事な人が死んでも、それでも生き続けます。だって後なんて追ったら、それこそ亡くなった人に対する侮辱ですから。どうしても許されないと思うのなら、忘れられないほど焦がれたのなら、その人の分まで生きる事が一番だと、私は思います』
きっと永遠にこの身を縛る言葉をくれた君は、図らずも私に呪いをかけた。
この目に映る君の姿を、未来永劫留めておくにはどうすれば良いだろうか。そう何度も考えた。
ホルマリンを浴槽に張り、その中にでも溺れさせておけば、姿形は変わらずに君は存在し続けるだろう。でも、それではただの屍だ。私が望んだのものはそうではない。きっと写真に写しても、一瞬、一挙、一動を留めておく事さえ出来ないだろう。
隣にはもう誰もいない。庭を歩くその背は、どこにも見当たらない。縁側に腰掛けて見ていたはずの景色は、もうどこにも存在しなかった。
千を生きる人と名付けられたらしい。葬式の時、彼女の父に盛大に殴られて、二度と顔を見せるなと言われた後、彼女の母が教えてくれた。
「千を生きて、千、年を取るなんて無理でしょう?けれどこんな時代だったからこそ、長生きしてほしくて私が付けたんです。千年歳を取って、千に勝る思い出を携えて、自分が納得するように亡くなって欲しかった」
殴られて血が滲んだ頬を、彼女によく似た母親は濡れたハンカチを当てながら教えてくれた。
「こんな家に生まれて、夫にはアクセサリー扱いされて、私は何も言う事が出来ませんでした。けれど、貴方に出会って、あの子は変わった。貴方が千歳を変えてくれたんです、周さん」
黒い軍服が嫌だった。彼女の隣を歩くには固すぎるし、ヒーローと呼ばれるような人間ではなかったから。
「千を生きる事は出来なかったけれど、千を越える思い出を携えてあの子は逝きました。ありがとう、娘を最後まで大事に思ってくれて」
今日もまた、軍帽で目を隠すのだ。流れる涙を誤魔化すように。
「ありがとうございました」
無様に地面に座り込んだまま。一人嗚咽を飲み込もうとした。けれどそれをする事は出来なくて。彼女の母は優しく微笑んで、その場から姿を消した。
「なあ、千歳」
変われたのは自分の方だ。愛しさを知った。恋しさを知った。初めて誰かを目で追うようになって、初めて隣を歩いていたいと思った。
初めて共に食卓を囲む喜びを知って、初めて弱い所を見せる事が出来た。初めて帰りたいと思えるようになって、初めて死にたくないと思えた。君が死んで初めて死にたいと思えるようになった。
初めて、何もない日々が、何もない庭が、あの縁側が、光輝いて見えた。
手記に挟んだ写真を握りしめる。もうここにはいない。思い出の中の彼女は、もっと綺麗に笑っていた。こんな澄ました人間じゃなくて、すぐに怒って拗ねて、子供の様に笑って。けれど時折、こちらが顔負けするくらいの出来た考えを持っていて。
本を選ぶ指先。本棚の上の方、届かないと言って背伸びをしていた姿。真剣に文字を追う視線。
庭先で鯉と戯れる姿。笑い声。小さな橙の花が似合う人。小さな紫の花が似合う人。
縁側で眺める私を見つけた時、一瞬不服そうにする顔。それでも瞳を捉えて離さない赤。最後には花が咲いたように笑う君。
ポケットの中、彼女が読んでいた本を取り出した。
それは小さな植物図鑑だった。読み物なら何でも構わないと言わんばかりに、多種多様なジャンルを読んでいた彼女が、唯一持ち歩いていた本。そして、これは我が家にずっと眠っていたものだった。
ペラペラとそれをめくった時、何故だか折れているページに目が行った。人の家の物なのに、勝手に折るなんて良い度胸していると思う。けれど、叱るつもりは毛頭なかった。
そこにはあの小さな紫の花があった。爆蘭。別名星月草。午後三時に咲いて、三時間だけ姿を現す花。
アルラウネのようだとメモ書きが遺されていた。そして、その花言葉に手が止まった。
「止めてくれよ千歳」
抱きかかえたまま、再び頬を流れ始める涙に気にする事も無く。
「お前、俺に何個呪いをかければ済むんだ」
生きている限り、永遠に忘れられない呪いを。彼女は何個も残していった。
「なあ」
永遠に貴方のもの。そう書かれた文字を指でなぞる。
「好きだ」
言えなかった後悔を。言わせてくれなかった後悔を。
「愛してる」
今、どうしようもないくらいに。
「憂鬱だよ、千歳」




