第7話
――やっぱりやめた方がいいかな。
修行と題して父親からの特訓が昨日から始まったわけだが、早くも俺は音を上げそうになっている。剣道をやめてしまった今でも運動神経にはある程度の自信があったはずなんだが、身体全体が悲鳴を上げていて授業に集中出来ないのは初めてだった。修行がハードすぎるせいかも知れない。
初めての修行は父親は見ているだけで、絵里姉と俺が手合わせするというだけのものだった。いつもなんとなくほわほわしている絵里姉だが、いざ剣を手に取ると人が変わったように恐ろしくなる。あれを見るのは小さい頃以来だ。剣術も本物で、命を取られてしまうんじゃないかと本気で心配してしまうくらい強気に斬りかかって来る。竹刀ではなく真剣だったら既に満身創痍なくらい、俺は打ち負かされていた。
絵里姉との打ち合いの中で、目の肥えた親父はあれこれと俺にいちゃもんをつけてくる。脇が甘いだとか、視線の位置がどうだとか。剣道をたしなんでいるときにもさんざん言われ続けてきたことだが、昨日のはそのときよりも遥かに厳しかったような気がした。
それだけならまだ心地良い疲れだと割り切ることが出来たかもしれない。問題は、俺の修行開始から何時間後に、残業で遅れたといって母親が帰ってきた後だ。最初は俺が剣道を再開するのだと思ったらしく喜んでいたが、事情を知るや否やそれが一変、俺と絵里姉そっちのけで長時間夫婦喧嘩を繰り広げていた。時折母親の火矢を思わせる激怒のお言葉が俺にも飛来してきていた。たまったものではなかった。
どうやら、心優しいお袋様は屍鬼やら晦やらのことをずっと俺に黙っておきたかったらしい。俺が件の女神様に夢の中ではとはいえ会っているということを知ると、渋々ではあるが納得していたようだった。しかし歓迎をしているようには見えなかったし、今でも俺が戦いの場に身を置くことには大反対なのだろう。
以上、身の疲れと些細ではあるが精神の疲れ。その二つが相乗効果をもたらし、今のグロッキーな俺を作り出している。授業にあまり集中していないことは四度ほどやってきた教科担任には誰にも突っ込まれなかった。その中に母親がいなかったことには感謝しなければならない。神様か誰かに。
「大丈夫か、水無月?」
気づけばもう昼休みだ。弁当も食わず机に突っ伏している俺のことを見かねたのだろう、寛貴の声が横から聞こえてきた。俺は顔を上げないまま、「正直辛い」と返すのがやっとだった。
「最近どうしちゃったのよ。奇声を上げたり保健室に駆け込んだり。今までの優也からは、どれもこれも考えられない行動なんだけど」
どうやら瑞季も同伴しているらしい。相変わらずお節介な学級委員長だ。声からは俺のことを心配していることに嘘くささは感じないが、何か違和感のありそうな行動を取るといつもこうなので、たまには放っておいて欲しいと思ったりする。そこまで不快、というわけでもないけれど。
「もともと俺はそうなんだよ。メンタルが弱い。今までは無理して頑張ってただけだ」
事実を伝え、俺の中で何がもやもやとしているのかは二人には伝えまいとした。二人は確かに理解者ではあるのだが、「俺は非現実を求めていて」なんて言いたくなるわけがない。絵里姉には諦めさせるために言っただけで。それが結果的に、非現実が手に入ることに繋がったわけだが。
「由々(ゆゆ)しき事態ね」
「どないしよ。せや、今日三人で『ジョニー』行かへん? 神無月と睦月ちゃんの見舞いにも行きたい思ってたところやったし」
「すまないが――」
この一週間は寄り道せずにまっすぐ帰って来いと父親に言われている。父親も剣道部の管理を副顧問に任せて重要な用事という名目で帰宅するそうなので、従わなければならない。神無月達の見舞いの後に喫茶店で気晴らしするのは楽しそうだが、そうするわけにはいかなかった。
事情は二人に説明せず、ただ用事があるからと言って断ると、妙な間が生まれた。突っ伏した姿勢のまま頭だけ動かして二人に目を向けると、いぶかしげな表情で見合っている。それもそうか。いつもの俺ならテンション高くして快諾していたところだろうからな。案の定、一体何があったのかと深い事情を訊ねられる。
「詳しくは言えない。ただ……周りに言うなよ。剣道再開したんだ」
「……なんやて? 水無月、あれほど剣道部嫌がってたやん?」
「部活じゃない。親父の個人レッスンみたいなもんかね」
身体がなまっていた俺の体たらくを見かねてな、とそれっぽい嘘でごまかしておいた。二人はそれで納得したらしく、一日中授業に集中せずあまつさえ寝こけていた俺の状態のことが腑に落ちたようだった。
「それならいいんだけど」瑞季の人差し指が俺の額に当てられた。「でもね。何か不安に感じていることだとか、嫌なことだとかあったら私達に相談しなさいよ。優也は私達の大事なお友達なんだからね」
「ははは、ありがとな」
瑞季のお節介はたまにわずらわしくなることもあるが、真心からの想いなのは間違いない。本当のことをはっきり言わないせいだろう、胸のあたりがズキッとなる感覚を覚えながらも、俺は腕に力を入れて体勢を戻し、二人の方を向き直して笑顔を作った。
「そういえば言い忘れてたんやけどな」
「……何だ?」
「購買部で新作のパン、出とったで。販売開始一分以内に売り切れてもうたけど」
毎日弁当があるとはいえ、新発売のパンは食べたい。そんなわけで新しいパンが出る情報を仕入れると昼休みと同時に購買部に一番乗りして、購入第一号記録を更新し続けていたが、あっさりと記録更新が終了してしまっていたようだ。その記録が何なんだという感じではあるのだが、八つ当たりに寛貴の顔を軽く小突いておいた。
そんなこんなで今日の授業は終わりだ。だが、俺の一日はこれから始まると言っても過言ではない。まだ筋肉痛と疲れが残っているが、剣を振り回すのに十分すぎる。特訓に付き合ってくれている絵里姉にどう一太刀を浴びせるか策を練りながら、若干赤みを帯びた校舎を背に、まっすぐ家に帰ろうとする。
「水無月君」
女の声に呼び止められる。最近強く記憶に残った声だなと感想を抱きながら振り返ると、予想通りの白髪赤目少女が、俺を無表情のまま見据えていた。夕陽に照らされた特徴的な髪色が心奪われるほど美しかった。




