第10話
私の首を、抉るには至らなかった。
あと数ミリと言ったところで、か細い手に阻まれた。顔をくしゃくしゃに歪めた、私の勇者様がそこにはいた。無理にでもナイフを首に刺そうとした私だが、どこからそんな力が出ているのだろう、カルキ君によってがっちりと腕をつかまれて動かすことが出来ない。
互いに大暴れした後、私はカルキ君に押し倒される体勢となる。これが巷で流行っているような恋愛小説であれば、ここで恋愛値が上昇するような何かがあったのかも知れないけれど、そんなのんきな状況なんかじゃなかった。私はとっとと死にたかった。早く死なせてよ。錯乱しながら、右手に掴んだナイフを再度自分に突き立てようとする。
だが、口元に落ちてきた生暖かい雫によって今の私を作り上げていた強烈な自殺衝動はすっと引いてしまった。
「ごめんなさい」
震えた声だった。ここに来るまでに何度も彼から聞いた言葉だ。謝るとき彼は常に申し訳なさそうだったけれど、全身を震わせて、感情の渦を止められない様子で言われるのは初めての経験だった。私を押さえ込んでいた彼の手の力が、次第に弱まっていく。
「僕は運命に抗えない」
カルキ君はまだ投げていなかった最後の一本にちょっとだけ目を移して、それを力強く握り締めてから私を見下ろした。いつものような笑顔ではなくて、きっと今の私と同じ顔だった。私の顔は私は見えないけれど、そう思う。間もなくして意を決したように、彼はナイフを振り上げた。
確かに、私のナイフには迷いがあった。本気で死のうと考えていたのならば、もっと早く首に刺すことだって出来たはずだ。それが叶わなかったのは、きっと心の奥底にある生きることへの渇望を完全に捨て去ることが出来なかったからだ。それは久しぶりに再会できるはずの幼き日の彼への憧れか。それとも。
「でも」
私の迷いを、彼が断ち切ってくれるなら。彼の手で死ねるのなら。それはそれで幸せかも知れないな、私はそう思った。現世に未練にないといえば確かにウソになる。だけれど、運命を受け入れなければならないのなら。私は甘んじて受け入れようと、そう考えた。
しかし、私の思考を否定するかのように、彼は静かに首を横に振る。
「遥さんは違う」
「……え?」
「後で晦に願ってください。ここから出して欲しいと」
晦。私と彼の一部始終を見ている水色の髪の少女であることは、なんとなく理解出来た。願う。どういうことだろう。死神とか神とか、そんなことを言っていたけれどそれが事実だとでもいうのか。確かに彼女は超能力みたいなものを軽々と使っていたし、何よりもここに突然現れた。非現実的ではあるけれど、そう考えた方が矛盾はない。
ここから出して欲しい。彼女が神だとして何でも出来るのだと仮定すれば、それも可能だということか。でもつまりそれは、水色の少女にお願いをしなければ出られない場所に閉じ込められたということになる。そういえば神野も、脱出はどうするのかとカルキ君に聞いていたような気がする。それじゃあ……。
突如、彼は声を張り上げた。ナイフを握る手が動く。私は目をつむることが出来なかった。カルキ君の言葉で混乱していたからか。それとも、予想出来てしまっていたからか。
――そのナイフの行き先を。
「やめてっ!!」
私から血の気が引いていく。彼は今から私を殺すのだと、だからナイフを振り上げたのだと、覚悟を決めていたのに。そのはずだったのに。止めなければ。なんとしてでも。しかし、私の腕は金縛りにあったかのように動かない。せめて、私の直感が外れてくれることを願った。もしくは、彼が気を変えて切っ先を私に向け直してくれることに賭けた。
しかし、そんな私の悲痛な願いは。カルキ君の口から流れてきた真紅によって、むなしくもかき消されてしまった。にっこりと、いつも見せていた、優しい笑顔をしながら、静かに、倒れこんできた。
――ああ、ああ。
私は叫ぶことすら出来なかった。腕はなんとか動くようになったけれど、もう遅い。身体の震えが止まらない。苦しそうに、辛うじてまだ息のある彼を抱きしめて、どうすればいいのかわからなかった。そんな状況でも、彼の顔は笑みを作っていた。どうして。苦しいはずなのに。どうしてそんな顔をするの。
「初めから、こうすればよかったん、で、すよ」
良くなんてない。私は搾り出すように出た彼の言葉を、頭を振り回して否定した。私ももうほとんど声で出てこなかった。彼は、ちょっと困ったような顔をしていた。
「これで、遥さんは自由の身です。死神の手の中にいますが、それでも――」
「やだやだ! カルキ君も一緒に出るって約束したじゃん! 一緒に出ようよ! なんで、なんで! カルキ君がこんなことする必要あったの!」
どこにそんなにわめける力が残っていたのかは、私にもわからなかったけれど、無意識のうちに大声で叫んでいた。これは本当は自分がやろうとしていたことだ。今のカルキ君がそのまま私であれば、こうやって狂乱していたのは彼だっただろう。自分のことを棚上げしてなんて自分勝手なんだろう。冷静な脳内の私は、自分自身のことをそうバッシングした。
最後の力を振り絞って、彼は語ってくれた。神月市を『座標』として、大きな災厄が間もなく訪れるのだということを。彼の背後にある大きな組織は、いくつかの大きな何かと手を組んで数々の事件の裏で暗躍しているということを。彼の記憶が一部分だけ残っていたのも、大組織の指針であるということを。
彼は、語れる範囲で全てを話そうと考えてくれていたのだろう。しかし、お腹に刺さったままの銀色のそれが、抉られてしまった臓器が、その時間を最低限までに絞り、大きな余裕など与えてはくれなかった。
カルキ君の目が、優しく私を見つめる目が、静かに閉じてゆく。「幸せに、長く生きられることを」彼は言った。言って、目を閉じて、彼はそのまま全身から力をなくした。こんなときまで、彼の顔は変わらなかった。監禁生活の中で見慣れたものだった。
ひっ、と私の喉が鳴った。ただそれだけだった。こうなってしまったけれど、私にとって彼はとても大切な人だった。そのはずだ。そのはずなのに、大泣き出来ない。疲労した身体が妨げているのか。違う。違うのだ。身体が現実を見据えることを拒否している。だから、ドラマのようにわんわんと泣いて、なんて出来なかった。身体が、心がさせてくれなかった。
安らかな表情を浮かべ、口から赤色を流す彼の顔を見て、私の精神は逃避する先を求めた。彼の全身を見る。辺りを、見回す。私の後方には、勇者様が死神と形容していた、美しい水色と青と紫の女の子が、鎌を持って無表情で見下ろしていた。
「カルキ君を生き返らせてよ!! 神様なんでしょ!!」
その大声を上げたときには既にカルキ君を手放し、右手にあったナイフはもったまま、勢い良く立ち上がって、晦という名前の神の襟首を左手で掴み上げるというプロセスを終えていた。
私の命と引き換えでもいいから。嗚咽を漏らし、力なくへたり込んでいく私のことを、彼女はどのような目で見ていたのだろう。私にはわからなかった。
しばらくの間は、絶望を意味するのであろう深い闇と沈黙が私の精神を握りつぶそうとしていた。




