ボクは脅した
ボクの興奮は収まらなかった。電話帳に新たに登録された相葉という人。どこにでもいそうな普通の名前だけど、この人は今日一日中大騒ぎさせた殺人犯だなんてボクしか知らない。他に人は知らないこと。
それがものすごく危険なことで命だって危ない。こんな人生で一度や二度経験できるものじゃない。それをボクは経験している。こんな同じことを毎日のように繰り返している日常とは大きくかけ離れたことをしている今の自分に興奮が収まりきらない。
「しかも、その殺人犯はボクに逆らえない。最高じゃないか」
時間はすでに朝の4時を回っていて新聞配達のバイクの音が静かに鳴り響くこの時間帯になっても興奮が押さえきれないせいで眠れない。これから何をしていこうか。友達でも恋人でもない殺人犯さんとの新たな生活、日常。
「よろしくね、相葉さん」
それからボクは布団の中で丸くなってひと眠りする。これからあの殺人犯と何をしようか考えるだけでぞくぞくが止まらなくて幸せだった。夢の中でも再生されるあのぞくぞくと経験したことのない緊張感。馬乗りにされてカッターナイフを突きつけられるボク。犯されるのか殺されるのか。どうなるのか想像しただけで興奮して震えた。逆にボクが殺人犯さんに刃を突きつけて脅した時は楽しかった。殺してみたい。それを必死に抑えて恐怖に恐怖を重ねて彼を脅しまくった。彼はそれに折れて自分の名前をボクに教えてくれた。相葉さん。ボクが刃物を証拠を持っている以上、あの人は逆らえない。ボクがこの世に生きている以上、あの人はボクの言いなり。ボクの奴隷。相葉さん。今日、学校に行ったら明日は土曜日。休みだ。そしたら、相葉さんとデートでもしよう。近くのショッピングセンターで。殺人犯として身を隠している相葉さんとその弱みを握り支配するボクが他の人に紛れて遊ぶ。みんなと違う。全然違う。その違いを見せつける。きっと、相葉さんは嫌がるだろう。でも、彼には拒否権はない。そんな嫌がる相葉さんにあの刃物を見せつけ、突きつけて脅しながらデートしよう。きっと、ぞくぞくと興奮して楽しいんだろうな。
そんな夢の中で流れていたボクのこれから送ろうとしている非日常の世界を壊すように目覚まし時計の音に起こされる。一気にボクの理想の世界から現実に引き戻された気分で嫌気がさした。とにかく、目覚ましの音を止めて体を起す。
あれから2時間くらいしか寝ていない。寝不足のせいで体が重い。
「ああ、弁当と朝ごはん作らないと」
嫌だな~。やりたくないな~。でも、この家で家事をやる人がボク以外にいない。ボクがやることが当たり前で兄たちはなんとも思っていない。ボクがどれだけ好きなことを制限して自由を制限してきたと思っているんだよ。「そういえば、お前に友達なんかいたっけ?」っという高校生の一番下の兄の発した言葉が頭の中で再生される。腹が立つ。誰のせいでボクがこのボクが!
反論する気はない。
体を起して洗面所まで行って冷水で眠気で動かない体に鞭を打つ。山盛りに洗濯かごに入れられた服。これを洗うのはボク。いつものようにドラム式の洗濯機に洗濯物を入れて洗剤を入れてスイッチを入れる。量的にはもう一度洗濯機を回す必要がある。余った時間は寝る・・・・・ことは許されず朝ごはんを作るために台所へ。
「おはよう~」
大あくびをしながら一番上の兄が起きてきた。
「ねみ~。ダリ~」
誰が一番眠くてだるいと思っているんだよ。
眠気のせいで募るイライラが台所の現状を見てさらに大きくなる。
流し台に乱雑に重ねられた皿とコップ。コンロにはこぼれたカレーがそのままになっている。しかも、水につけておけってメモに書いておいたのにやっていない。そのまま放置されたカレーの皿はしっかり当たり前のごとく汚れている。ここを片づけない限り朝ごはんも弁当も作れない。
「ち~す」
大学生の2番目の兄が起きてきた。
「うわぁ。ひで~。ちゃんときれいにしておけよ」
それだけを言うと2番目の兄がスナックパンをかじって居間の方に行ってしまった。
きれいにしておけだ?ボクはこの後の作業がきれいに進むように指示をメモしたのにそれを無視してこんなにひどくしたのは誰だよ。
「起きてるか!今日は早いから朝飯と弁当早くしてくれよ!」
中卒で働いている3番目の兄が起きてきてボクを催促させる。
誰のせいで朝ごはんと弁当を作る時間が遅れていると思っているんだよ。
これがボクの住んでいる山田家の現状だ。兄らはボクとは違い好き勝手に生きている。対してボクは家の家事をやるという流れに逆らえず自由を捨ててしまっている。なのにあいつらは何も思わない。何も感じない。それが普通だからだ。
「朝ごはんまだ~」
4番目の兄も起きてきて朝ごはんを催促する。
だったら、手伝えよ!
という心の叫びは口からは出てこない。
「ごめん。ちょっと用意できそうにないから適当な菓子パンで我慢して」
「りょーかい。兄ちゃんたち。今日は菓子パンだって~」
すると居間の方で不満の声が聞こえた。なんだよ。昨日、遊んでたせいだろ。気抜くなよなとか聞こえるけど聞かなかったことにして昨晩の残った洗い物を洗う。
出てきそうな涙をこらえながら黙々と皿を洗う。
「弁当は?」
1番上の兄がピシッとしたスーツ姿でボクに聞いてくる。
気付けば、もう仕事のある1番目と3番目の兄は出る時間になっていた。
「ごめん。まだ、何もできてないから今日は各自で買った来て」
「分かった。じゃあ、行ってくる。弁当はないそうだ!」
「はぁ!ちゃんと用意しておけよな!コンビニ弁当タケーんだぞ」
3番目の兄がそうボクに聞こえるように陰口をたたいて家を飛び出していった。
「じゃあ、俺も行くから」
「行ってきま~す」
残った兄たちも出て行った。そして、比較的に学校の近いボクだけが家の中に取り残された。洗面所から聞こえるのは洗濯機が洗濯が終わったのを告げる音と水が蛇口から流れる音だけが残った。
なんだよ、これ。
せっかく手に入れてぞくぞくもすべてを壊す現実。絶望した。それに抗えない自分に嫌悪した。
ダイニングテーブルにほど近いところにかけられている鏡に映る自分の姿を見て思った。そこに映ったのは細くて立場の弱い現実の自分の姿だった。
「見るなよ」
鏡に向かって呟く。見るなよって言ってもそこに映るのは自分。弱々しい女の普通の自分。その姿を見ているといら立ちが募りに募り、そして・・・・・・。
「見るんじゃない!」
持っていた皿を鏡に向かって投げつけた。数メートル距離のある絡みに到達するまでにお皿の水は切れてそのまま鏡にぶつかると同時にがしゃんという派手な音が家中に響き渡る。お皿は鏡にぶつかって割れて床に落ちてさらに粉々になる。鏡はぶつかったところを中心にひびが入ってしまった。ひびの入った鏡の隙間から見られるボクの瞳が見えた。それはまるで奇妙な鬼のような眼だった。
「ハハハ。良い眼をしてるじゃん」
その目の映っていた鏡の部分が木製の枠から剥がれ落ちて粉々になる。それを見て思ったのだ。
「そうだ。簡単な話じゃないか。こんな現実から逃れる方法が簡単な方法が。ありがとう。教えてくれて。やっぱり、奴隷としてじゃなくて普通にデートしてあげるとしようかな」
ボクは冷静になって割れてしまった皿と鏡の後始末をするためにほうきを手に取る。
「ボクを自由にする方法を教えてくれてありがとう、相葉さん」
ボクはその日、学校をさぼった。後始末をして洗濯物をすべて終わらせてから昼まで寝た。




