序章 その一
過ちを許される――刈り取られる羊毛
地球に複数ある歴史線の一つ。
二十二世紀初頭。
百十三歳の常秉は生命の終末にあった。
その時、常秉は病床に横たわっていた。
苦しげに息をしながら、窓辺の枝で脱皮中の夏蝉をじっと見つめていた。
一時間、二時間。白い蝉が少しずつ殻から這い出てくるあいだ、常秉はその過程をこの上なく静かに、忍耐強く見守っていた。
百十三年の人生で、緑に金色の混じった蝉が灰色の醜い殻から出てくる一部始終を見たのは初めてだった。
いま這い出たばかりの蝉は美しかった。
全身は淡い金色と淡い緑色。透明な羽には金緑色の脈が走り、木の葉の導管のように心を打つ。
数時間前まで殻のなかにいたときの姿は、ゴキブリと大差なかった。踏み潰したくなるほどだった。
……
徹夜して最後の動画を見終えようとしているときのように、常秉は今、苦しげに息をしながら、それでも息を引き取ろうとはしなかった。
ただ、この脱皮の過程を見届けたいと思っていた。
遥か昔を思い返せば、若い頃は時間と気力がたっぷりあった。それなのに、この過程を観察するほどの時間も取れなかった。死に際になってようやくこの一息に執着するさまは、まさに阿Qのようで、死んでも円を完璧に描こうとする頑固なロバの性格そのものだ。
二十二世紀は知能の時代である。常秉のいる部屋では、白い医療用ロボットが彼の世話をしていた。人工知能は二時間前まで常秉に臨終の慰めを述べていたが、「余計なことを言うな」と一蹴された。今ではこの白いAIロボットも、静かに常秉が息を引き取るのを待っている。
……
二十世紀九十年代に生まれた常秉。質素だった少年期、インターネットの爆発に浮かれた青年期、科学技術産業の制度が大きく変わるなかで沈潜した中年期。
還暦を迎えた頃の戦争の苦しみ、老年期の世界再生の喜び、そして宇宙技術が急速に発展した現代を経験してきた。
自らの生涯を振り返り、常秉は、自分がいつも世界と未来に期待を抱き続けてきたことに気づいた。
最期の瞬間も、老人斑の浮かんだその顔には、同じ気持ちがあった。
……
ついに蝉は静かに枝に止まった。羽化の後の束の間の休息をとっている。常秉も視線を収め、この最期の時を終えようとしていた。
寝る前にニュースを見る癖がついている。
死ぬ間際になっても、この習慣は治らないようだ。
常秉はヘルメットの脳波制御システムで、部屋のネットスクリーンを開いた。画面には今日のニュースの見出しが大きく映っていた。
脳再生技術の成功――最初の被験者は、脳細胞の再生過程で基礎意識を保つことに成功した。
この技術は今後二十年以内に大規模に応用できるという。
常秉はこのニュースを何度も見ていた。こうした技術についても、深く理解していた。だが常秉にはわかっていた。自分はこの技術とは縁がないのだ。
自分の脳はすでにひどく老化しており、現在の細胞再生の基本条件を満たせない。
二十年後には技術が解決するかもしれないが、今は危篤通知が届いていた。いつこの世を去ってもおかしくない状態だった。
無念、そして未練。常秉の濁った目は、無力感のうちに輝きを失った。
一秒、二秒、三秒。心電図が静かになっていく。
三世紀を生きた常秉は、ついに逝った。機械システムが常秉のすべての臓器を検査し終え、遺体を収容できると判断した。
……
意識が曖昧になる瞬間、常秉の前に生涯の記憶が押し寄せた。
産声を上げたときから、両親に愛されたこと、子供の頃は宿題に悩んだこと、家の金を盗んでお菓子を買い、ひどく殴られたことまで、すべてが鮮明に浮かんだ。
そして青年期にはアイドルを追いかけた。虚栄を求めた。中高年になると時代や宇宙に関心を抱き、仕事で同僚と心を通わせた日々。
そして後の戦争では、一人また一人と去っていく無念さがよみがえった。
心を開いて語り合った感動も、よみがえった。
次第に、常秉はすべての記憶をたどり終えた。
そのころには、自分自身のものではないような、ぼんやりとした記憶が混ざり始めていた。
それらの記憶のなかで、自分はこの時代の軍人であり、あるいは科学者、あるいはごく普通の労働者であった。
湧き上がってくる記憶のなかで、常秉は次第に、この人生で自分が一体何者なのか分からなくなっていった。
自分は多重の人生を持つ存在の一部であるかのようだった。
……
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