第1話 雨降る夜、妹が泣いていた
※1話~3話は基本的に短編と同じ内容になります。
短編をお読みいただいた方は読み飛ばしていただいても大丈夫です。
それは朝から激しい雨が降り続いた日の夜だった。
夕食を終えて自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、帰ってきたばかりのシルエナと鉢合わせた。
今日は婚約者のレグルスと記念日を共に過ごす予定だったはず。
それなのに、淡い銀色の髪は雨に濡れてひどく乱れ、雨の日に似つかわしくない白いドレスのフリルは泥で汚れている。
その姿を見て私が最初に抱いた感情は同情でも心配でもなく、ひどく冷めた呆れに近いものだった。
——やっぱり、こうなったのね。
あの男を選んだときから、いつかはこうなると思っていた。
とはいえ、姉としてひとつくらいは慰めの言葉を掛けるべきだろうか。
立ち止まって悩んでいると、こちらに気付いたシルエナが俯いたまま私よりも先に冷たい声を投げてきた。
「放っておいて……ヴェローナお姉様……」
私だって、嫌がる妹を無理に慰めてあげるほど優しい姉ではない。
拒絶されたのなら素直に従うことにする。
「そう、わかったわ」
それ以上の言葉は残さず、自室へ戻ることにした。
廊下を歩いていると、窓を叩く雨音に混じってもうひとつの声が聞こえてきた。
私にしか聞こえない精霊の声だ。
「またあなたたちね……」
雨が降る日は水の精霊たちが活発になる。
だから今日はいつもより賑やかで、聞いてもいないことを随分と楽しそうに教えてきた。
最初はいつものことだと聞き流していた。
けれど、話を聞いているうちに自然と足取りが遅くなっていった。そして最後まで聞き終えたところで、とうとう足を止めてしまう。
「……そう」
小さくため息を吐いた。
窓の向こうに見える庭が激しい雨で白く霞んでいる。
精霊の声を聞いてしまったからには放っておくこともできない。白い庭を少し眺めたあと、私はシルエナの部屋へと向かうことにした。
「入るわね」
「いや……入らないで」
許可なんてもらう気は最初からなく、シルエナの制止を無視して私は部屋へ踏み入った。
この部屋に入るのも何年ぶりだろうか。
「入ってほしくないなら部屋の鍵は掛けておくべきね」
「……ヴェローナお姉様のそういうところが嫌いなのよ」
何を言われようと、今さら傷つきもしない。
そもそもシルエナは私に慰めてもらうことを望んでいないのだから。
「残念だったわね」
「残念だなんて……思ってもないことを言わないで」
「思ってもないこと? あなたは私の妹なのよ。本心に決まっているでしょう」
「……嘘ばっかり。顔に『だから言ったでしょ?』って書いてるじゃない」
涙を雑に拭って、シルエナは怒りを込めながら話した。
ずっと泣いていたせいか声は若干枯れて、時折見える目元には涙の跡が目立った。
「その言葉はわざわざ私が言わなくても、あなたはすでに理解しているはずよ」
「だからって、今さら姉としての言葉なんていらないから」
昔から私たちは仲のいい姉妹ではなかった。
顔を合わせればこうして嫌味の一つや二つは飛んでくるし、私も言われたらすぐに言い返した。
精霊の声を聞けば、相手が隠している気持ちや思考まで分かってしまう。
シルエナはそんな力を持つ私が幼い頃から嫌いだった。
部屋を見回すと、寝台の隣にある机の上に小さな箱があることに気付いた。
雨に濡れたのだろう。
綺麗に結ばれていたはずのリボンは萎れ、端の方は汚れて色が変わっている。
私はその箱を手に取った。
開けなくとも中身は知っている。
「レグルスの瞳の色に合わせて選んだ首飾りね……綺麗なアメジストが勿体ないわ」
レグルス・メイデル。
それがシルエナの婚約者だった。
王国でも指折りの財力を持つメイデル伯爵家の嫡男でありながら、整った容姿と人当たりの良さから社交界では以前から女性人気の高い男だ。
軽薄な笑みを浮かべて、誰にでも言ってそうな当たり障りのない褒め言葉をシルエナに向けていた。
精霊の声を聞かなくても、誠実な人間じゃないことは出会ってすぐにわかった。
「なっ……なぜお姉様が首飾りのことを知って——」
シルエナは驚いたように私を見た。
けれど、それもほんの一瞬だった。
「また精霊様から話を聞いたのね」
すぐに察したらしく、呆れた顔で窓の外へ視線を向けた。
「……また余計なことを聞いて」
雨に向かって小さく零した言葉を、私は聞き逃さなかった。
「そうね、できることなら私も聞きたくなかったわよ」
それについては、私もシルエナとまったく同じ気持ちだった。
私、ヴェローナ・アルヴェリオは生まれながらに『精霊の加護』を持っていた。
精霊の声が聞こえた私は、幼い頃から毎日のように精霊と会話した。
けれど、精霊の言葉は幼い子供には酷だった。
両親が私に隠していたことも、親しいと思っていた友人が笑顔の裏で考えていたことも、かつて好意を寄せた相手が私の知らないところで何をしていたのかも。
精霊の声で私はすべてを知ってしまった。
おかげで私は人間をあまり信用できなくなった。
愛している、なんて言葉ほど信じられないものはこの世にない。
それを幼い頃から知ってしまったのだから、こんな性格になるのも仕方ないことだった。
シルエナだけじゃない。
こんな私を避けるのは周りの人間も同じだった。
「……雨の日は水の精霊が元気なのよ」
「なら、今日のことは全部知ってるでしょ。なおさら放っておいてよ」
シルエナは私を睨んだ。
私も関わりたくない。けれど、精霊の声を聞いてしまったからには無視するわけにはいかなかった。
姉妹仲が悪いとはいえ、妹であるシルエナをこんなにも悲しませるあの男が憎いとさえ思った。
「そうね。全部聞いたわ。記念日なのに急用があると断られて、それでも首飾りだけは渡そうと会いに行ったら——」
「やめて!」
シルエナの声が、激しい雨音に重なった。
「……わかったわ」
私はそれ以上口にするのをやめて、小箱を元の場所へ戻した。
わざわざ本人の口から聞く必要もない。
何があったのかは精霊が全部教えてくれた。
「あなたはどうしたいの?」
「どうしたいって……お父様のためにも、婚約を続けるしかないでしょ。レグルス様が他の女性と親しくしていても、結婚するのは私なんだから」
「愛されていなくてもいいの?」
「政略結婚に愛を求めた私が間違っていただけよ」
ずいぶん聞き分けのいいことを言う。
誇り高い公爵令嬢の言葉ではない。
「それもレグルスの言葉でしょう」
「それって? 事実でしょ」
「ええ、普通の貴族はそうね。でも私たちは公爵家の娘よ。あなたがレグルスから言われた言葉は、まるで……立場を理解してないように聞こえるわ」
つい先程、精霊が教えてくれたのは今朝レグルスがシルエナに放った言葉だった。
『メイデル伯爵家との婚姻はアルヴェリオにも利益がある。だから騒いで困るのは君の家だ』
「……でも、事実でしょ。お父様も、メイデル家から莫大な資金を支援してもらってる。私が婚約するのはそのお金のためよ……」
俯きながら、シルエナはそう言った。
「あなたもまだまだ子供ね」
「お姉様はいつもそう! 精霊の力を借りて、自分ばかり知った気になって人を見下してる」
涙を堪えながら、シルエナは唇を噛んだ。
「シルエナの言う通りよ。精霊は私が拒もうと真実を教えてくる。けれど、私は私が知りたいことを知る努力もしているわ」
精霊の言葉が自分にとって得があるとは限らない。
それどころか、精霊は知りたくないことばかり教えてくる。
だからこそ私は自分の目と頭を使って情報を得る。
精霊が責任を取ってくれるわけでも、後始末をしてくれるわけではないから。
「先程も言ったでしょ。シルエナが私のことをどれほど嫌っていても、あなたは妹で私は姉なの。そのことに変わりはないのよ」
「……今さら何よ」
「あなたの本心を私に聞かせなさい」
シルエナはすぐには答えなかった。
私を頼るのが癪なのだろう。
それでも、一人でどうにかできるほどの余裕は今のシルエナにはない。
シルエナは少し悩んでから答えた。
「結婚したくない……あんな男と結婚するくらいならお父様を失望させた方が幾分かマシよ」
「言えるじゃない」
「そうやって、知っていることをわざわざ相手の口から言わせるのは面倒くさいでしょ」
「それが私のできる努力よ」
「……そう」
シルエナは小さく頷いた。
「あとは任せなさい。後始末は私がしてあげるわ」
「え? 後始末って何をするつもりなの? まさか乗り込むつもり!?」
「そんなわけないでしょう」
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
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