あこぎ、てんてこ舞いする
●中納言一家が石山寺詣でから帰る
翌朝、帯刀は寝過ごします。
というわけで、少将道頼も寝過ごしてしまいます。夜が明けきったころに、ようやく起きだします。
あこぎは慌てます。この日、中納言一家と供人たちが、石山寺詣でから帰ってくるのです。
近ツーが用意した旅程表をコピーしておくのを忘れたので、一家の正確な帰宅時刻がわかりません。
焦りながら、朝の粥や手水の支度にかけずりまわります。
道頼は、つゆに頼んで、帯刀を格子の外まで呼び寄せます。
「迎えの車を取りに人を遣ってくれ。こっそり抜け出さないと」
雨のなかを二人だけで徒歩で来てしまったので、自邸に人を遣って、迎えの牛車をこちらへ呼んでくる必要があるのです。
けれど、こういうときは、うまくいかないもの。
中門のあたりが何やら騒がしくなってきました。
中納言一家が帰宅したのです。
「あ、車は用無しだな、もう」
道頼は笑います。落窪の間から出るに出られず、ええいままよ、ゆっくりしていこう、と腹をくくったのです。
●あこぎ、てんてこ舞いする
「あこぎ! どこにいるの!」
あこぎは、落窪の間で洗面や朝食のお世話をしたいのに、北の方が大声で呼びます。
「ああ、もうっ!」
泣きたい気分で、北の方のところへ駆けつけます。
「どうして車宿りまで出迎えにこなかったのかえ? 役立たずだね、まったく。落窪付きに戻してしまおうかね」
これは嬉しいこと! あこぎは思わずにんまりしそうになりましたが、なんとかこらえて、恐縮しているそぶりを見せます。
「すみません」
「手を洗う水を早く持っておいで!」
「はいっ」
そのあとしばらく邸内は、荷ほどきやら何やら、精進落としのお食事が運ばれるやら何やらで、慌ただしくなります。
隙を見て、あこぎは御厨子(台所)へ入っていき、顔なじみの水仕女に声をかけます。
「ねえ、ちょっと――」
あこぎは叔母さんが送ってくれた精白米と、おいしそうな精進落としの料理とを交換してもらうと、落窪の間へ運んでしまいます。
「これをお召し上がりくださいませ」
お料理をちゃんとお膳に載せ、少将道頼と姫君の前に据えます。
「おや?」
「まあ……」
道頼と姫君は、またしても不思議なこと、と顔を見合わせるのでした。
あこぎが気を遣って用意した朝食ですが、ほとんど手つかずのままになってしまいます。道頼と姫君は、どうやらお疲れモードのようです。
ころあいを見計らって、あこぎはお膳を下げます。
「うふふ。おいしそう」
万事、用意のいいあこぎです。御厨子から借りてきた器にお膳の料理をすっかり移し替え、自室へ運びます。帯刀が待っているのです。
「どう? 豪華なブレックファストよ」
「へえ。こんなお下がりにありつけるとは、やはり僕のご主人さまがこちらにおいでだからだね」
「そうよ。だから、これからも、大雨が降ろうが嵐が来ようが、あなたはご主人さまをここへお連れもうしあげるの。いい?」
「嵐の晩も、か。えらいことになったなぁ」
あこぎと帯刀は、おいしい料理をつつきながら、笑い合うのでした。
●道頼、几帳の陰に隠れる
落窪の間で、道頼はすっかりくつろいでいます。
北の方に見つかったら? と、気もそぞろながら、あこぎは姫君のそばに控えています。
すると、案の定――
「ここを開けなさい」
北の方=継母の声がするではありませんか!
あこぎは姫君と顔を見合わせます。
万事休す!
継母は、落窪の間の母屋に近い襖障子を開けて、入ってこようとしているのでした。
けれども、襖はすんなりとは開きません。
こんなこともあろうかと、あこぎが内側から掛け金をかけておいたのです。
「ちょいと! ここ、開けなさい。何をぐずぐずしているの?」
道頼はのんびりと構えていて、
「衾(掛布団)を引っ被って横になっていれば、見つかりゃしないさ」
と言って、几帳の陰に隠れます。
姫君は、几帳の前に身をにじらせてから、あこぎに小声で合図します。
「いいわ。障子をお開けなさい」
あこぎが掛け金を外すと、荒々しく障子が引き開けられます。
「おや……?」
継母は不審そうにあたりを見回します。
どうして几帳があるのかしら?
どうして落窪は見慣れない衣を着ているの?
継母は片眉をつりあげます。
「ひょっとして、あたくしの留守中に何かあったんじゃないのかえ?」
バレバレよね……当然よね……。
あこぎは冷や汗をかきます。
姫君は真っ赤になって答えます。
「何もございません」
そう答えるほか、ないわけで。
さて、道頼は、几帳の帷子の隙間から、継母界の大横綱の尊顔を拝したてまつります。
ふーん……。
平べったい顔だけど、口もとは色っぽいな。まあ、美人かな。眉間のあたりはちょっと皺が刻まれていて、老けてる感じだ。意地の悪さが滲み出てるな。
こと女性の容姿となると、こんな場合でもしっかり観察する道頼なのでした。
●継母が姫君の鏡箱を持ち去る
「何もなかったようには見えないけど、まあ、いいわ。ところで――」
と継母は姫君の鏡箱に目をやります。
「あたくしね、すばらしい鏡を買ったのよ。あなたの鏡箱にちょうど入りそうなの。しばらく貸してもらえないかしら」
「喜んでお貸しいたします」
「まあ、聞き分けがいいこと。よい心がけね」
言うが早いか、継母は、姫君の鏡箱を手元に引き寄せます。姫君の鏡を取りだしてしまい、自分の新しい鏡を中へ入れます。新しい鏡はぴたりと箱に収まります。
「買ったばかりのこの鏡もすばらしいけれど、この箱の蒔絵も見事なものね。きょうび、これほどの品はなかなか得難いものよねぇ」
鏡箱を撫でまわす継母。
あこぎは悔しくてなりません。
冗談じゃないわ!
「北の方さま。姫君のお鏡をお入れする箱がないのは、困りものです」
「別のを捜してあげるわ」
そう言って継母は立ち去りかけるのですが、妙に余裕の笑みを見せて、
「その几帳はどこにあったものかしら? ずいぶんしゃれてるじゃないの。ほかにも見慣れないものがあるわね。やはり、何かあったようね」
たじろいだようすを見せてなるものか。あこぎは自分を落ち着かせて、言います。
「姫君のお部屋なのに、几帳一つ無いのでは、何かと不都合です。なので、私の身内のところから取り寄せました」
「そうなのかい。おまえは女童のくせに、気を利かせすぎじゃないかえ?」