E.C.1004.09-1
泣いている子どもの声が聞こえ、ジャンは一人溜息を吐いた。
あんなにも感情を剝き出しにして疲れないのだろうか。
泣いても駄々を捏ねても思い通りにならないということが、どうしてわからないのだろう。
聡明な兄と少しも似ていないわがまま放題な弟皇子に、呆れを通り越していっそ感心すら覚えた。
洋紙の上を走らせていたペンを止め、書類を片付けて立ち上がる。
向かうのは、扉一枚でつながった隣の部屋。鍵の無い扉は、ノブを捻って引くと簡単に開いた。
「何事ですか?」
「あ……アトリー卿……」
困り果てた侍女がすがるように見つめてくる。
その瞳に滲む安堵と期待に、嫌気が差す。
それを悟られないよう、作り笑いを貼り付けてベッドの上で泣き叫ぶ幼子に近付いた。
「どうなさいました、殿下。そのように大声を出されてはせっかくの可愛らしいお声が嗄れてしまいますよ」
まるで淑女をたぶらかすような甘い声で囁くと、ベッドの上の幼子――レオンハルトはなお一層声を上げた。
この世の終わりのように泣き喚く主に、辟易する。
ジャンが第二皇子付の教育係となってそろそろ一年が経とうとしていた。
去年の春、初めてレオンハルトの姿を見たジャンは、その日のうちにカーティスへ嘆願書を書いた。
第二皇子付教育係になれるよう取り計らってほしい、と。
「約束」の期日を過ぎて半年後のことだった。
あと三日遅かったら別の者に決まっていたぞ、と相変わらずの無表情でカーティスは告げた。
そんな奇跡的なタイミングで要請が通り、「後宮」内で正式に公表されたのはそれから五ヶ月後。レオンハルトの五歳の誕生日の一月前だった。
「第一皇子のお気に入り」でありながら第二皇子付教育係への就任と言う異例の人事に、城内はざわついた。
皇子専属の教育係となれば爵位が与えられる。こうなってくるともはや、幼い皇子の気まぐれや首席文官の贔屓などでは済まされない。
「第一皇子派」から「第二皇子派」への「鞍替え」ととられても仕方ない。
公表後、父は怒り狂い、エリオスには遠回しに考え直せと詰め寄られ、レベッカには盛大に罵られた。
アデルバートだけが、何も言わなかった。
「寝返った」ジャンを責めるでも恨み言を言うでもなく、沈黙を貫いた。
罵る価値もないと見限られたのかと思ったが、そうではなかった。
『僕は兄様だから。レオンのためなら我慢しなくちゃいけないんだ』
ジャンの「異動」を聞いて、アデルバートはレベッカの膝に顔を埋めて涙の混じる声でそう言っていたらしい。
伝聞なのは、ジャンが実際にはその現場を見ていないから。
結局最後までアデルバートはジャンに何も言わなかったし、ジャンも自分の口からは何も言えなかった。
「傍にいてくれる?」というアデルバートの問い――願いに応えられなかったことが、後ろめたかったのだ。
何を言ってもいいわけにしかならないし、何を言われても決心は変わらないとわかっていたから。
アデルバートのことは本当に、それなりに大切に想っていた。心配で仕方なかったし、幸せを祈っていた。
けれどそれでも、たとえ彼の元を去ってでも、ジャンはレオンハルトの――マリアンヌの息子の傍を選んだ。
あれほど悩んでいたのに、レオンハルトを一目見た瞬間、心は決まった。
そして思い知らされた。
自分がマリアンヌのことを少しも忘れていなかったこと。
息子でも構わないから傍にいたいと願うほどに、彼女を求めていたこと。
第二皇子付教育係に就任してからは、日々は目まぐるしく過ぎていった。本当に、目が回りそうなくらい怒涛の日々だった。
アデルバートが幼い頃から大人しく聞き分けのいい子だったため知らなかったが、五歳児とは、人間ではない。
話を聞かないし、話も通じない。大人しく座っておくということができないし、黙って話を聞くこともできない。
勉強を嫌がり、マナー講座を嫌がり、ダンスのレッスンも嫌がり、隙あらば脱走を試みる。
じっとしていると死んでしまう生き物なのか、目を離しただけですぐに姿を眩まそうとする。
また危険察知能力が備わっていないのかやたらと危険なことをしたがる。
二階の窓から飛び降りようとしたときには本当に阿保なのかと思った。
そんなジャンにとっては未知の生き物であるレオンハルトだが、決して頭は悪くない。
むしろ賢いからこそ余計にたちが悪かった。
やたらと口が達者で小賢しい屁理屈で侍女たちを煙に巻いてしまう。
自分が「高位の存在」であることをしっかり認識しているのか、やたらと高圧的な態度に出ることもある。
一方でたまに言い負かされたり屁理屈が通用しなかったり、思い通りにならないときは癇癪を起こす。
クッションやら筆記具やら手当たり次第に壁に投げつけ、大声で泣き叫ぶ。
そうなってしまうともう手が付けられない。
侍女たちもお手上げで、その後始末は教育係に回ってくる。
叱っても宥めても泣き喚くレオンハルトに、ジャンの精神は日々確実に削られていた。
幼子の相手がこんなにも大変だなんて思わなかった。
天使のような外見からは想像もできない悪魔のようなレオンハルトに、教育係に着任して三日目には正直後悔し始めていた。
どうして上手くやれるなどと思い上がった勘違いをしたのだろうかと、半年前の自分をどつきたくなっていた。
もう無理だ。もう嫌だ。
何度も何度もそう思って辞意を示そうとしたけれど、涙に濡れたレオンハルトの顔を見れば思い留まってしまう。
マリアンヌと同じ色の瞳に見つめられれば、それだけで苦労も苦悩もどうでもよくなってしまうのだ。
彼女の息子であるというだけでレオンハルトに執着する自分は、なんて愚かな男なのだろう。
「殿下。泣いてばかりではわかりませんよ。ジャンにもわかるようにお話しください」
大号泣がすすり泣きに変わる頃、再び声をかけるとレオンハルトはようやく顔を上げた。
蒼い瞳には涙が溢れ、柔らかな頬も涙でべしょべしょだ。
それなのに、天使のように美しい。
ジャンは自分が美男子だという自覚はあったが、レオンハルトの前ではそう思うことすら恥ずかしくなってしまう。
それほどまでに皇族とは人心をとらえて離さない特別な存在なのだ。
「……何があったんですか」
扉の傍でおろおろしていた若い侍女に尋ねる。
おそらくは癇癪を起こしたレオンハルトの世話を押し付けられたのだろう。
「皇太子殿下がお住まいを離宮に移されるとお聞きになったみたいです。
『兄様は僕のことが嫌いだから遠くに行っちゃうんだ』って泣き始められて。
そんなことないですよって何回説明しても泣きやんでくださらなくて……」
侍女はうんざりした様子を隠さずに答えた。
そんな不満をぶつけられてもジャンも困るのだが。
レオンハルトが異母兄であるアデルバートと初めて会ったのは、昨年の春のことだった。
逃げ出したペットの鸚哥を追いかけて花園に迷い込んだレオンハルトは、散歩中のアデルバートに遭遇した。
同じ父を持つ異母兄弟であり同じ「後宮」で暮らしていながら、二人はそれまで顔を合わせたことはなかった。
母の異なる兄弟である二人が不用意に接近しないよう、配慮がなされていたのだ。
皇帝の寵愛を巡って皇妃が争い合うこと、兄弟で帝位を奪い合うことは、決して珍しくはないためだ。
しかし初めて会った日以来、二人は急速に仲を深めていった。
父親とよく似た面立ちの兄に、レオンハルトはよく懐いた。
アデルバートも、幼い弟を可愛がった。
周囲の心配をよそに、二人は仲睦まじく過ごしていた。
アデルバートと共にいるときは、レオンハルトも癇癪を起こすことはなかった。
けれど先日、アデルバートがセイレーヌの街にある離宮に移ることが決まった。
今年の冬十歳になり帝位継承権を賜ったアデルバートは皇太子となり、同時にセイレーヌの統治権を与えられた。
代々皇太子領でもあるセイレーヌは帝都よりも気候が穏やかで、統治も兼ねてそこで療養するため、一月後には帝都を発つことになっていた。
そのことを知ったレオンハルトが、このように盛大に泣き始めた、ということらしい。
「ぼくが、わるいこだから、にいさまは、とおくにいっちゃうの……?」
泣きすぎてもはや呼吸もままならないのか、しゃくりあげながらレオンハルトがジャンに問う。
涙に濡れた蒼い瞳の美しさに見惚れそうになる。
マリアンヌと同じ色をした瞳がジャンを見ている。
その事実に、ゾクリとした。
「そうですよ」
「……ッ」
「アトリー卿!?」
「殿下がお勉強を嫌がったりお稽古から逃げ出したり侍女殿のエプロンに蛙を仕込んだりジャンのペンを勝手に持ち出してシエラの止まり木にしたりする悪い子だから、皇太子殿下は殿下のことを嫌いになってしまわれたのかもしれませんね」
「あ……あぁ゛ー……」
「ほら、そうやって泣くとますます嫌われてしまうかもしれませんよ。いいんですか?」
「う゛ー……」
追い打ちをかけるジャンの言葉に、レオンハルトは必死に泣くのをこらえる。
今までレオンハルトが何かを我慢しようとするところなど見たことがない。
それほどまでにレオンハルトにとってアデルバートの存在が大きいのだろう。
「殿下。皇太子殿下にまたお会いしたいでしょう?嫌われたくないですよね?」
「……うん……」
「でしたらもっと『いい子』になりましょう」
「『いい子』……?」
「えぇ。ちゃんとお勉強をしてお稽古して、いたずらをやめて、好き嫌いせず何でも食べて、妹君に優しくしてください。そうすればきっと、皇太子殿下も殿下のことを好きになって、また一緒に遊んでくださいますよ」
五歳児とは、人間ではない。何を考えているのか、何をしでかすのか全く予想が付かない。
けれど時折驚くほど単純で、扱いやすい。
ジャンの「甘言」を信じたレオンハルトは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま「わかった」と頷いた。
べつに「いい子」になどならなくても、アデルバートは定期的に帝都に帰って来るだろう。
そしてレオンハルトが「いい子」だろうと「悪い子」だろうとアデルバートは変わらずレオンハルトのことを可愛がるだろう。
こんな幼子を騙すのかと言わんばかりに侍女にはものすごい表情で見られたが、心は少しも痛まなかった。
その日から、レオンハルトは生まれ変わったように「いい子」になったのだから。
しばらくして嘘がばれ、ジャンはレオンハルトの信頼をすべて失ってしまったけれど、このときのジャンにとってはそれが苦肉の最善策だった。
レオンハルトは少年時代の自分のこと「優秀な第二皇子」と言ってますが、幼少期はまぁまぁの結構なやんちゃ坊主で癇癪持ちでした。
ロビンの短気さは確実にレオン譲りです。
そしてちなみにジャンはこの件で完全にレオンに嫌われました。




