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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 或る教育係の渇望
57/114

E.C. 998.09-1


 アデルバートが「後宮」の庭園で倒れた日から、半月程が経った。

 やはりあのあとアデルバートは熱を出し、数日寝込んだ。

 その後も暑い日が続いたためか体調はまだ万全というわけではないらしい。


 そしてジャンもまた、あの日からどこかおかしい。

 アデルバートに呼び出されることもなく、本来の業務を滞りなくこなしているはずなのに、ふとしたとき、考えてしまう。思い出してしまう。願ってしまう。

 彼女のことを。彼女の姿を。もう一度、彼女に会いたいと。


 あの日初めてその姿を見た第二皇妃のことが、頭から離れない。

 今までずっと、ジャンの美しさに色めき立つ女たちのことを、ジャンのことを何も知らないのにすきだと言う女たちのことを愚かだと蔑んでいたはずなのに、彼女の美しさに一瞬で心を奪われた。


 光の中を歩くマリアンヌは、女神に思えた。


 跪いて愛を乞いたい。

 眼前にひれ伏し、すべてを捧げたい。


 彼女と目が合った瞬間、そんな衝動がジャンの中に生まれた。


 彼女のことを考えると、胸が苦しい。けれど考えずにはいられない。

 得体の知れない激情が、日増しに強くなっていく。

 今までこんなにも強く、誰かのことを想ったことなどない。

 初めての感情に、ジャンは強い戸惑いを覚えていた。




「アトリー殿。ジャン=アトリー殿はいるか?」


 書庫で書類の整理をしていると、皇帝付近侍のカーティスに呼ばれた。


「お疲れ様にございます、ディルク卿。どうかなさいましたか」

「アトリー殿、一緒に来てほしい。エリオスには許可をもらっている」

「はぁ……」


 上官の承諾済みならジャンに文句を言う理由も権利も無い。

 同期の候補生たちのもの言いたげな視線を感じながらも、ジャンはカーティスに続いて書庫を出る。


 文官候補生として城に上がってそろそろ八ヶ月が経つが、第一皇子と親しくしているせいで、ジャンは同僚たちの妬みややっかみを一身に集めていた。

 それでなくとも首席文官(エリオス)の「お気に入り」なのだ。

 表立った嫌がらせはまだされていないが、それも時間の問題かもしれない。


 などと冷静に分析できるのは、いざという時自分がうまく立ち回る自信があるから。

 そしてもしも(・・・)のとき、どうなってもかまわないと、心のどこかで思っているからなのだろう。

 そんなことを考えながら、カーティスのあとを黙ってついていく。


 皇帝付近侍であるカーティスとは、業務上の接点は無い。

 彼に呼び出されるのはアデルバート絡みのときだけだ。きっと今日もそうなのだろう。

 それにしても業務範囲外のことにまで関わらなくてはいけないなんて彼も大変だなと同情していると、つれてこられたのは「後宮」へと続く門ではなく、「宮廷」内の貴賓室だった。


「あの……ディルク卿……」

「アトリー殿。君はランチェスター公爵家の御三男のことを知っているか?」

「は……?えっと……ランチェスター公爵家の御三男……。騎士団の第一部隊副隊長のミゲル様のことですか?」

「そうだ。知り合いか?」

「いえ……。お噂は聞いたことありますが、面識は御座いません。何度か夜会でお見かけした程度です。ランチェスター様の方は私のことなどご存知ないと思いますが……」


 四大公爵ランチェスター家の三男、ミゲル=ランチェスターは文人の家系であるランチェスター家では珍しく、武官として城に入り、二年前から騎士団に所属している。

 入団した年の戦争では一級武功を上げ、最年少で精鋭部隊の副隊長となった英傑だ。

 しかし武官の彼と文官候補生のジャンでは接点も無く、夜会で御令嬢たちに取り囲まれているところを遠くから眺めたことがあるだけだ。


「そのミゲル殿が君に会いたいとお呼びだ」

「え……?」

「今からここで話すことについては決して口外してはならない」


 いいな、と念を押し、カーティスは貴賓室の扉に手をかける。そしてジャンの返事を待たず、その扉を開けた。


 カーティス越しに部屋の中にいた人物を見て、ジャンは目を疑った。

 目がおかしいのか、或いは頭がおかしくなったのかと思った。

 想いが募ると人は幻覚を見るようになるのかと、そんなことさえ考えた。


 部屋の中には、三人いた。


 一人はカーティスの言った通り、ミゲル=ランチェスター。

 金の髪と深緑の瞳をした二十歳ほどの青年で、武人らしくない繊細な美貌は、彼の父であるランチェスター公爵によく似ている。

 椅子に腰かけて茶を飲む姿は優雅というほかなく、カップを持つ美しい手が普段剣を握っているなどとは、とても信じられない。


 ミゲルの傍に立っているのは、侍女服をまとった女性。栗色の髪と褐色の瞳をしていて、四十歳をいくつか超えたほどに見える。


 そして最後の一人は、ミゲルによく似た、けれどミゲルをはるかに凌ぐほどの美貌を湛えた金の髪に蒼い瞳の女性。

 ミゲルと同じく優雅にティーカップに口をつけていた淑女は、ジャンたちの入室に気付くと微笑んだ。


「ごきげんよう、ディルク卿。お待ちしておりましたわ」


 お忙しいところごめんなさいね、と微笑む淑女は、ミゲル=ランチェスターの妹であり、宰相ギルベルト=ランチェスター公爵の娘であり、この国の第二皇妃であるマリアンヌ=ランス=ジュエリアルだった。


 目の前で微笑む女神の姿に、いったい何が起こっているのか理解できず、ジャンはただただ呆気にとられて立ちつくした。


「ディルク卿。そちらの方がアトリーさま?」

「左様でございます」

「はじめまして、アトリーさま。急に呼び出してごめんなさいね」

「……」

「アトリーさま?」

「アトリー殿。第二皇妃殿下の御前です。無礼ですよ」

「も……申し訳……ッ」


 カーティスに冷たく咎められ、慌てて跪く。

 そしてようやく目の前の女神が幻覚でなければこの状況が夢でもないのだと理解する。


「セレスといい貴方といい、どうして皆わたくしの顔を見たら固まるのかしら」


 失礼しちゃうわ、とマリアンヌは頬に手を当ててため息を吐く。

 部屋の中でも輝くばかりの美貌は健在だ。紡がれる声も、鈴が鳴るように美しい。


「ねぇ、ディルク卿。なぜかしら」

「妃殿下が突拍子もこ無いとばかりなさるからでしょう」

「まぁ。何が突拍子も無いって言うの?」

「第三皇妃殿下の指導係を申し出られたり、文官候補生をこうして呼び出したり。あまり勝手なことはなさらないでください」

「あー、やだやだ。口うるさい男って本当嫌よね。本当貴方って、相変わらず女心がわからないわよね」

「……」


 苦虫を噛み潰したような表情で説教するカーティスに、マリアンヌはぷいと顔を背ける。

 主従にしてはあまりに気安く、子どもじみたやりとりに、跪いたままのジャンは困惑を通り越していっそ眩暈がした。


「そんなふうに言うものではないよ、マリー。ディルク卿が可哀想だ。

 第三皇妃殿下も彼も、きっと君の愛らしさに見惚れてしまったんだろう」

「あら、お上手ね。ミゲル兄様」

「心からの言葉だよ。可愛い人(マイ・レディ)

「ふふふ」


 いったい何を見せられているのか。

 微笑み合う美しき兄妹に困惑していると、ミゲルはカップをソーサーの上に置き、ジャンに向き直った。


「仕事中に呼び出してすまないね、アトリー殿。だが今日この時間しか自由がきかなくてね」

「いえ……」


 少しも悪いと思っていなさそうなミゲルに、ジャンは曖昧に返事をする。

 きっと表情には一切出ていないが、この部屋の扉が開いた瞬間から、ジャンはずっと混乱している。


「君を呼び出したのは他でもない。折り入って頼みがあるからなんだけれどまいったな。妃殿下にお渡ししようと持って来た物をどこかに置いてきてしまった。ちょっと探してくるから、申し訳ないけれどアトリー殿。妃殿下のお相手をしていてくれるかな?」

「は?」

「久しぶりに会えたのにすまないね、マリー。いい子で待っていておくれ」

「まぁ、ミゲル兄様ったら。子どもじゃないんですから、お留守番くらいできますわ」


 突然始まった茶番劇にジャンが呆気にとられていると、ミゲルは軽やかな足取りで部屋を出て行った。


「もう、兄様ったら。

 ごめんなさいね、落ち着きのない方で。せっかくだからお座りになって、アトリーさま。兄様が戻って来られるまでお話しましょう」


 どうぞ、と微笑まれ、断れる人間などいるだろうか。

 少なくとも、ジャンは無理だ。


 隣に立つカーティスを伺うと無言で頷かれたため、それを了承とみなし、マリアンヌに促されるまま示された椅子に座る。

 侍女が慣れた手際で新しい茶を出してくれたが、恐れ多くて手など付けられない。


「アトリーさまは兄様と古いご友人なんですってね」

「は?」

「兄様がわたくしに会いに来てくださるついでにアトリーさまのお顔を見たいとおっしゃるなんて、とても仲がよろしいのね。驚いたわ」

「……」


 ジャンはずっと、自分が頭のいい人間だと思っていた。

 けれど今、マリアンヌの言っていることは少しも理解できない。

 かといって下手なことも言えない。

 八方塞がりのジャンは、否定も肯定もせず、無言のままマリアンヌの次の言葉を待つ。


「ねぇ、アトリーさま。突然こんなことを言ってはしたないとお思いにならないでね。わたくしも兄様と仲よし(・・・・・・)の貴方に、お願いがあるの」

「お願い……ですか……?」

「えぇ。聞いてくださるかしら」


 質問であって質問ではない。皇妃の願いをまさか断ったりしないわよね、と笑顔に謎の(プレッシャー)を感じる。


 そしてようやく、本当にジャンを呼び出したのが――本当にジャンに用があったのが、ミゲルではなくマリアンヌだということを悟る。


 おそらくミゲルは、単なる隠れ蓑だ。

 皇妃であるマリアンヌが接点の無い臣下を呼び出すことなどありえない。

 ましてやそのために「後宮」を出るなど、皇帝が許すはずがない。

 だが「実兄に会うため」に「宮廷」に出向くことは不自然ではない。

 産み月が近い今、兄が初産で不安になっている妹を労わるためと言えば大義名分にもなる。


 皇妃と臣ではなく兄と妹として昔話に花を咲かせていると、急にミゲルが「宮廷」で働く古い「友人」の存在を思い出す。

 大変仲の良い友人を妹にも会わせたいからとその友人を呼びつける。

 呼びつけたところでミゲルが所用を思い出し席を外さざるを得なくなるが、部屋には皇妃付侍女も皇帝付近侍も同席しているので間違いは起こりようもない、というのが彼らの作り上げた筋書きだろう。


 強引極まりないが、一応筋は通る。というか万が一露見した場合もそれで押し通すつもりなのだろう。


 そうまでしてジャンにいったい何の用があるというのか。

 嫌な予感に助けを求めてカーティスに視線を送るも、今度は諦めたようにため息を吐かれた。

 皇帝の側近も匙を投げるような状況、ジャンにどうにかできるわけない。

 葛藤の末、「私でお力になれることでしたら」と応える。


「ありがとう、アトリーさま。お願いって言うのはね、えぇと……。何から話しましょうね。とりあえず、今わたくしが陛下の御子を身籠っていることはご存知?」

「はい……」

「まぁ見ればわかるわよね。

 お願いと言うのはね、この子が無事に生まれた暁には貴方に教育係になってほしいの」

「私に……ですか……?」


 意外すぎるお願いに、ジャンは思わず尋ね返す。

 どんな無茶な願いを吹っかけられるのかと思ったが、よく考えてみれば十分無茶だし、間違いなく厄介事だ。


「……恐れながら、妃殿下」

「なぁに?」

「私では力不足と存じます。私はただの文官候補生です。爵位ももたず、継ぐ家もありません。そんな私が、陛下の御子君をなど……」

「あら。教育係が必要になるのはこの子が五つになる頃よ。それまでに頑張って出世して頂戴」

「えぇ……」

「それに教育係の選任は後見人に一任されているのだから、後見人さえ押さえていけば大丈夫よ」

「えぇぇ……」


 気軽に無茶な要求を笑顔でかましてくるマリアンヌに、ジャンは言葉を失う。

 彼女の傍に控えているカーティスも心なしかげっそり見える。

 おそらくこの話をジャンに持ってくる前に二人の間で一悶着あったのだろう。


 マリアンヌが言ったように、皇子や皇女の教育係の選定は生母、或いは後見人に一任されている。

 それは生母が正妃でも側妃でも変わりはない。この件に関してカーティスがいくら否を唱えても、彼の権限ではマリアンヌの決定を覆すことはできない。


 聖女然とした外見とは裏腹に、マリアンヌはかなりマイペースな性格をしているようだ。

 先日はそんなこと思う余裕も無かったが、今思い返してみるとアデルバートと対峙していたときもその片鱗はあった気がする。

 先日も今日も、マリアンヌはどこまでも優雅で強引だ。


「それとも貴方は第一皇子殿下の教育係になるおつもり?」

「え……?」

「随分懇意にしていらっしゃるんですってね?皇子殿下のお散歩の護衛まで任されていらっしゃると伺ったわ」


 頭を、何かで殴られたような気がした。


 彼女は、何も覚えていない。

 半月前、庭園でジャンに会ったこと。

 あそこにいた護衛がジャンだと気付いていないのか、そこに誰か立っていたこと自体忘れているのかはわからないが、少なくとも、彼女にとってはこれが「初めまして」なのだ。


 何を、思い上がっていたのだろう。

 マリアンヌと目が合ったなんて、彼女の瞳に映っただなんて、勘違いも甚だしい。

 羞恥でどこかに消えてしまいたくなった。


「……滅相も御座いません」


 答える声が震えていないか、思い上がりを気付かれやしないか。

 そんなことを気にする自分がひどくちっぽけな人間に思えて仕方なかった。


「だったらいいじゃない。貴方にとっても悪い話ではないと思うけれど」


 ジャンの葛藤など気付くわけもなく、マリアンヌは朗らかに言う。


 確かに皇族の教育係になれば爵位と同時に様々な特権が与えられる。

 そして何より、幼い頃から傍にいる教育係に、皇子らは全幅の信頼を寄せるようになる。

 二心ある者がその任に就けば、将来、皇族を意のままに操ることも可能だろう。

 だからこそ、教育係の選定には能力、価格、思想、人柄、容姿、あらゆる面を考慮して熟考に熟考が重ねられる。

 最終的な決定権は生母にあるとしても、独断が許されるわけではない。


「……恐れながら妃殿下。なぜ私にそのような大役を任せてくださるのですか」

「ここ数年の文官の中で、貴方が一番賢くて優秀で計算高いと聞いたからよ」

「……」


 どこでどう聞いたのかはわからないけれど、おそらくその評価は間違っていないだろう。


 ジャンがアデルバートに気に入られていることに対しよく思わない人間が少なからずいる一方で、誰も表立っては嫌がらせしてこないのは、皆気付いているからだ。

 誰よりジャンが優れていると。

 またさほどの家格ではないからこそ、逆にジャンの出世によってアトリー伯爵家が引き立てられることたもなく、城での権力構図が変わることはない。

 その点においては、マリアンヌの人選は間違っていない。


 しかしそれにしても、五年も先の話を今からするのは、どこか不自然にも思えた。

 彼女には他に何か別の理由があるような気がしてならない。

 ジャンには言えない、他の理由が。


「……もう一つ、お伺いしてもよろしいですか」

「どうぞ?」

「妃殿下はお生まれになった御子君が男児であった場合、帝位を望まれるおつもりなのですか」


 彼女の生家の家格と皇帝からの寵愛、アデルバートの身体の弱さを考えれば、決して不可能ではないだろう。

 けれど容易くもない。

 アデルバートをないがしろにして帝位を求めるのなら、正妃の生家、サルヴァドーリ皇爵家も黙っていないだろう。

 彼女が本当にそれを望むのなら、「後宮」は血の海になる可能性だってある。

 そんな面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。


 しかし返ってきた彼女の答えは、ジャンの予想だにしないものだった。


「どちらでもかまわないわ」

「え……」

「この子が望むのならそうすればいいし、臣として皇子殿下を支える道を選ぶというのならそれでもかまいません。生まれてくるのが皇子でも姫でも、この子の好きにすればいいと思っていてよ」

「そんな……」

「わたくしがこの子を皇帝にしたいと言ったところでこの子に力がなければそれまでですもの。わたくしが陛下にこの子を皇太子にするよう強請ったからといって、側妃可愛さに力無き皇帝を生み出すような、愚かな皇帝ではなくってよ、陛下は」


 すべてはこの子次第です、と告げるマリアンヌの本心は、ジャンにはわからない。

 心からの言葉なのか、第三者に対する建前なのか。

 それを判断するには、ジャンは彼女のことを知らなすぎる。


「……では、妃殿下は私に何を望まれるのです」

「この子が、望む人生を選べるようにしてほしいの」


 そう言ってマリアンヌは自らの腹に手を当てる。

 半月前にその姿を見たときよりも彼女の腹は更に膨らんでいた。


「わたくし個人の望みを口にするなら、帝位なんて要りません。ただ健やかに生きてくれればいい。人を愛し、人に愛され、穏やかな人生を歩んでほしい。ただそれだけでいいの。

 けれど、この子にとっては、ただそれだけのことがどうしようもなく難しいことなの。望む人生を生きるためには勝ち続けなければいけない。無知では何も守れない。無理を強いられ、搾取され、蹂躙される。わたくしは、この子がそんな人生を送るなんて耐えられません」


 マリアンヌの言葉を大袈裟だと笑うことはできない。


 ジャンが今ここにいるのは、負けたから。

 兄の愛を失ったから。

 狡猾で利己的な女に負け、追いやられた。

 兄はジャンよりも、あの女を、アトリー伯爵家を選んだのだ。


 あのときの絶望は、今でも忘れられない。

 父に殴られ、母に罵られ、兄に見放された。伯父には「もっとうまくやれ」と嘲笑われた。


 彼女の子の場合、きっとそんなものでは済まないだろう。

 すべてを失うことが、死を意味することもある。


「アトリーさま。もちろん無理強いするつもりは御座いませんわ。貴方が第一皇子殿下の御傍を選ぶというのならそれでも結構です。貴方の意思を尊重いたします。

 けれどきっと、貴方はこの子を選ぶわ」

「……なぜ、そう思われるのです」

「だって貴方、わたくしに恋しているしょう」

「は……?」


 ごく当たり前のように、カーティスの言葉を借りるなら「突拍子も無いこと」を言い出すマリアンヌに、ジャンは言葉を失う。

 これまでの帝位云々の緊迫した話の流れをぶった切る、浮かれた小娘のような台詞だ。

 けれどその言葉は、ジャンの中にすとんと収まった。

 当然で、自然で、真実のように思えた。


 先日、庭園でマリアンヌの姿を一目見た瞬間、ジャンは恋に落ちた。

 彼女と目が合った瞬間芽生えたものは、ジャンの胸を貫いた衝撃は、紛れもなく恋情。

 女神のように美しいこの女に、ジャンは恋をした。

 気付けば彼女のことを考えてしまうのも、こうして話しているだけで胸が高鳴るのも、彼女に触れたいと思ってしまうのも、すべてが恋だった。


 けれど到底、そんなこと認められるわけもない。

 だって彼女はこの国で最も尊い男の妃なのだから。


 それにジャンにだって、男としての矜持がある。

 出逢いの瞬間を覚えていないような女に恋心を言い当てられ弄ばれるような辱め、受け入れられるはずがない。


「……男が皆、御自分に惚れていると思っておいでなのですか」


 それは精一杯の、苦し紛れの抵抗だった。

 普段のジャンならば決して口にしない挑発的な言葉。

 ジャンにとって淑女とは愛でるものであり、微笑みかけ、甘い言葉を囁き、時に焦らし、恋の駆け引きを楽しんできた。

 容姿の麗しさを存分に利用し、理想どおりに振る舞ってやれば、彼女たちはたちまちジャンの虜になった。

 けれどかつて「社交界の花」と謳われ一国の主の心さえも射止めた美貌の皇妃には、ジャンの画策など通用しない。


「まさか。そこにいるディルク卿なんかはわたくしのことお嫌いよ。ねぇ?」

「……お答えいたしかねます」


 渋面の近侍と、ほらね、と肩を竦める第二皇妃。

 否定しないということはイコール肯定ということだ。

 嫌われていると自覚していながらカーティスに密会の片棒を担がせるマリアンヌは、いったい何を考えているのだろう。

 そしてどうしてカーティスもこの陰謀に加担したのだろう。


「ねぇ、アトリー殿。貴方をわたくしの傍に置くことはできないの。けれどこの子の側にならいられる」


 貴方にとっても悪い話じゃないでしょう、と誘うように告げるマリアンヌは、傲慢甚だしい。

 彼女のために尽くすことがジャンの幸せだと、本気で考えているのだろう。


 恐ろしい女だと思った。

 けれどそんな女に、どうしようもなく惹かれていた。


「……考えさせてください」

「えぇ、もちろん。あと五年……は無理ね。四年くらいは考えてくださって結構よ。その気になったらディルク卿におっしゃってちょうだい」

「……」


 どうせ引き受けるんでしょう、と言わんばかりの表情に見えたのは、ジャンの被害妄想だろうか。

 マリアンヌの前では、何もかもがうまくいかない。

 彼女の意のままに操られているようで、居心地が悪い。


「今日はミゲル兄様(・・・・・)が急に呼び出してごめんなさいね。けれどお話できてよかったわ、アトリーさま」

「……そう思われるなら私の願いをひとつ聞いてくださいますか」

「アトリー殿……」


 咎めようとするカーティスを、マリアンヌが手で制する。


「何かしら?アトリーさま」

「……一度だけ、名を呼んでいただけますか」


 ジャンの言葉に、マリアンヌは目を見開く。

 自分の願いが何を意味しているのか、わからないわけはない。

 けれど、それでも。


「……お会いできて嬉しかったわ。ありがとう、ジャン」


 この瞬間、ジャンは確かに幸せだった。



ランチェスター家は四人兄妹で、マリアンヌは末っ子長女です。

今回更新分の時点で長男ユリウス(27)次男アレックス(25)三男ミゲル(21)マリアンヌ(20)です。



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