E.C.1019.05-4
ジャン視点の番外編です。
長くなりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。
かつての主の訃報を聞いたジャンは、自分が思いの外動揺していることに少なからず驚いていた。
主と言っても、正式に主従の契りを交わしたわけではない。
きっと、幼子の気まぐれに付き合わされただけ。彼にとっては気に入りのおもちゃを手元に置いておくようなものだったのだろう。
亜麻色の髪と銀灰色の瞳をした美しい少年。
二十五歳という若さでその生涯を終えた彼は、しかしジャンの中ではその姿は九歳のままで止まってしまっている。
彼の元を離れたことを、後悔したことはない。離れてから今日まで、懐かしんだことすらない。
けれど彼がもうこの世にいないという現実は、ジャンにかつての記憶を呼び起こさせた。
二十年近く前、ジャンは文官の候補生として城に上がった。そして当時はまだ皇太子の身分は持っていなかった第一皇子のアデルバートに出逢った。
皇帝によく似た利発そうな容貌の第一皇子は何をやらせても優秀で、読み書きも計算もそつなくこなし、長ったらしい叙事詩も一度で覚え諳んじることができた。
運動神経もよく、生まれたときから仕えていた侍女の話では、歩き始めるのも平均より早かったらしい。
しかし彼は、絶望的なほどに身体が弱かった。ことあるごとに熱を出して寝込み、五歳になるまでに何度も生死をさまよった。
ジャンと出逢った頃には既にそういった自分の体質をきちんと理解していたのか、無茶な真似をするようなこともなかった。その年頃の男児にしては大人しく、聞き分けのいい子どもだった。
外を走り回ったりするよりも部屋の中で本を読むことの方を好み、特に気に入っていたのは植物の図鑑や書物だ。
四つになる頃には図鑑に載っている花はすべて言えるようになっていたらしい。
やがて実物を見るために庭園を散歩したいと強請るようになった。
それは身体の弱い皇子のささやかな我儘だった。
そんな小さな願いすら彼から取り上げてしまうことなど、誰にもできなかった。
あの頃、今にも折れてしまいそうな細い腕で自分の身体の半分くらいありそうな本を抱えて歩き回るアデルバートのあとを、ジャンもまた付いて回った。
この花の名前は何で、この花の見頃はいつで、この花は朝にしか咲かなくて、この花は父上様が好きな花なんだ。
楽しそうに一生懸命話すアデルバートの話に耳を傾けながら、彼の散歩に付き合った。
そして、「彼女」と出逢った。
第二皇妃のマリアンヌ=ランス=ジュエリアル。
弱冠二十歳の皇妃はこの世のものとは思えぬほど美しく、一目で心を奪われた。
『皇子殿下。よろしければわたくしとお話しませんこと?』
花がほころぶように微笑む女性だと思った。
彼女の声は、どんな歌姫の声より美しかった。
まるで彼女自身が太陽のように輝いていた。
『ここにはね、殿下の弟がいるのですよ』
『おとうと……?』
『これから生まれてくるのは殿下の弟です』
『この子をたくさん愛してあげてください。……この子が寂しい想いをしなくていいよう、たくさん抱きしめてあげて』
どうして彼女がそんなことを言ったのか。
その理由をジャンが知ったのは、それから数ヶ月後。
第二皇子を産むと同時に第二皇妃はその命を落とした。おしゃべりな侍女の話では、妊娠が発覚した時点で母体が危ないということはわかっていたのだという。
助かる確率は50%。けれど彼女には産むという選択肢しかなかった。
なぜなら彼女が身籠ったのは皇帝の子。
何より尊い血を持つ神の子だったのだから。
生まれた皇子は、「後宮」の奥深くで第二皇妃の忘れ形見として大切に育てられた。
一方ジャンはと言うとその頃、文官候補生として「宮廷」に入ったはずが、なぜか「後宮」で第一皇子のお守りをしていた。
第一皇子専属の教育係は他にいたけれど、なぜか彼はジャンのことを気に入り、傍に置きたがった。
そこにジャンの意思など関係無かった。
彼が望めば、何でも叶う。
この国で最も尊い身分である彼の父は、驚くほど彼に甘かった。
とはいえジャンにとっても、アデルバートと過ごす時間は悪くなかった。
端から見れば「お守り」だったが、利発な皇子からは年相応の子どもらしさなどは感じられなかった。
大人顔負けの持論を展開し、ジャンの意見を求めた。
あと数年で皇太子となりいずれはこの国を統べるであろう幼子に頼もしさと末恐ろしさを感じながらも、彼の成長を傍で見守っていた。
けれどアデルバートが九歳になった年の初夏、ジャンの前に天使が現れた。
亡き第二皇妃と同じ金の髪と蒼い瞳を持ち、彼女にうりふたつの容貌をした幼子。
一目で見てわかった。彼が「金の皇子」の二つ名を持つ第二皇妃の忘れ形見だと。
初めて会った「兄」に抱きしめられて戸惑うレオンハルトを見ながらジャンは、第二皇妃と出逢った日のことを想い出していた。
あのときの胸の熱い鼓動がよみがえるのを感じた。
それからしばらしくて、あと数ヶ月でレオンハルトが五歳になるという頃、第二皇子の教育係に自ら志願した。
このままいけば皇太子付の侍従になれただろうにどうして第二皇子付に、と父は怒り狂ったが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、彼の傍にいたいと思った。
初恋の君とうりふたつの容貌をもつ彼女の息子の傍に。
たとえアデルバートの元を去ることになっても。
「聞いているのか、ジャン」
険を含んだ声に名を呼ばれ、我に返る。いつの間にか物思いに耽ってしまっていた。
目の前に座る兄はまるで話を聞いていなかった弟を睨んでいる。
五つ年の離れた兄は、以前はもっと穏やかな人だった。ジャンにも優しくしてくれた。
それが今や、兄の笑った顔などもう何年も見ていない。
きっとこうしてジャンと顔を合わせることさえ我慢ならないだろう。
それでも父の言いつけに逆らえず会いに来るのだから、アトリー伯爵家の当主が聞いて呆れる。
「えぇと……すみません。何のお話でしたっけ」
悪びれもせず言うジャンを、兄、ケビン=アトリーは更に睨みつける。
幼い頃は仲の良い兄弟だったが、今のジャンは兄にとって憎悪の対象でしかない。
兄弟で争い合うことは哀しいといつか誰かが言っていたけれど、兄弟でも―――血を分けた兄と弟だからこそ、憎み合うことがあるということを、ジャンは知っている。
「だから、アデルバート皇太子殿下が身罷られた今、次の皇太子は第二皇子殿下だ。今からでも遅くない。城に戻り、皇子殿下をお支えするんだ」
「何かと思えばまたその話ですか……。遅くないわけないでしょう。私が殿下の教育係を辞してから何年経つと思っているんですか。今更戻るところなんてありませんよ」
第二皇子のレオンハルトが十三歳になったその日、ジャンは彼の教育係の任を終え、そのまま城仕えを辞めた。
あのまま第二皇子の侍従となりゆくゆくは近侍に、という話もあったが、断った。
最後の日、別れを告げたときの第二皇子の顔は今でも覚えている。
ジャンのことを嫌っていたくせに、捨てられた仔犬のような瞳を向けてきた。
ジャンを手放したくないのにそうとは言えず葛藤する皇子の様子がたまらなかった。
最後の最後までジャンを楽しませてくれた皇子には、感謝しかない。
勤めを退いたあとは実家には戻らず市井に下り、悠々自適の隠居生活を満喫している。
退職金代わりに向こう数十年困らないだけの資産も手に入ったし、趣味で作家の真似事を始めると出した本が平民の間で爆発的にヒットし、今も定期的に印税が入ってきている。
実家との縁も切れ、貴族のしがらみからも解放された今は、城仕えにも貴族社会にも未練など少しも無い。
だがケビン―――アトリー伯爵家にとってはそうではないらしく。
「―――どうしてお前はいつもそうなんだ!!」
ケビンが拳をテーブルに叩きつける。
衝撃でティーカップとソーサーが耳障りな音を奏でたが、ジャンは表情一つ変えない。
それが更にケビンの癇に障る。
「皇太子殿下の側仕えから第二皇子殿下の教育係に替わったときも城仕えを辞めたときもそうだ!あのままいけば近侍にもなれたというのにその名誉をやすやすと手放したばかりかこうして市井に下るなど……ッ。貴族に生まれながらこのような低俗な仕事に就くことを恥と思わないのか!!」
「……貴族の令嬢に生まれながら夫以外の男に股を開くような恥知らずを妻に迎えた兄上よりマシですよ」
「貴様……ッ」
怒りに顔を赤く染めて立ち上がる兄を、無感情に見つめる。
ケビンは再び拳を振り上げる。けれどそれは机を殴ることも、ジャンに向けられることもない。
震える手は行き場を失くしたまま強く握りしめられる。
どれほど怒りを覚えても、ケビンが手を出してくることはないだろう。
結局、気の弱い、優しい男なのだ。
そういうところが物足りないと彼の妻は言っていたけれど、ジャンは兄の、そういうところが好きだった。
だから一層、哀しかった。
「……これ以上話すことは御座いません。お引き取りを」
「……あのときのことは水に流すと言ってもか」
「は?」
「お前を許す。だからどうか、もう一度皇子殿下の元に……」
「無理ですよ」
「……ッ」
血を吐くように絞り出した声を一蹴する。
この期に及んで何を言いだすのかと思えば、愚かな兄に笑みすら出ない。
ジャンとケビンは、仲のいい兄弟だった。
少なくとも、ジャンは兄を慕っていた。好きだった。
何もかもが平凡で、けれど誰よりも優しい兄のことが、何より大事だった。
けれど、だからこそ。
「だって私は一生、決して兄上を許せない」
冷たく言い放つ。
兄と少しも似ていないと言われた美貌は、鉄色の瞳に息づく昏さをより一層引き立てる。
かつて敬愛に満ちた瞳を向けていた弟に無感情に見つめられ、兄はそれ以上何も言わなかった。




