E.C. 998.08-2
セレスティアが皇妃になって数ヶ月経った頃、マリアンヌの懐妊がわかった。
第一皇子の誕生から四年ぶりのめでたい報せに、国中が湧いた。
まだ腹の目立たない頃からマリアンヌの身体をいたわるルーカスも、喜びを隠しきれないようだった。
もちろん、セレスティアも嬉しかった。
「お姉さまと陛下の御子は、どんな御子が生まれるのかしら。お姉さまにそっくりな、愛らしい子がいいわ」。
うきうきと弾む気持ちのままマリアンヌに言うと、マリアンヌは驚いたように目を丸くし、微笑んだ。
そして無事に生まれたら抱いてあげてね、約束よ、と言ってくれた。
浮かれるセレスティアと対照的に、セレスティアの侍女たちはそれが面白くなかったようだが。
「お嬢様は人が良すぎます」
セレスティアが実家から連れてきた侍女のニコラは、お茶を入れながらふてくされたように唇を尖らせる。
「え?何が?」
「皇帝陛下ですわ!結婚式の夜以降一度もお嬢様のところへお渡りにならないで、第二皇妃殿下の元へお通いになるなんて!あまつさえ御子をおつくりになるなど、馬鹿にするにもほどがあります!」
「え、わたし馬鹿にされているの?」
あらやだ気付かなかったわ、とニコラの淹れてくれたお茶を飲む。
甘さ控えめのアプリコットティーのスッキリとした酸味が口の中に広がった。
「いいえ、馬鹿になどされていません!こんなにも愛らしくて健気なお嬢様、馬鹿にする者などいるはずありません!」
「どちらなの……」
言っていることが支離滅裂な侍女に呆れる。
とは言え、ニコラが何に怒っているのか、わからなくもない。
結婚して半年以上経っても、皇帝の夜のお渡りはなかった。
ここまでくると、さすがにセレスティアも気付く。セレスティアはもはや妻としては用済みなのだと。
皇帝が複数の妃を娶るのは、権力が一つの家に集中することを防ぐため。そして何より世継ぎのためだ。
現在ルーカスの子は正妃との間に皇子が一人いるだけだ。おそらくはその子が皇太子となるのだろうが、問題はその第一皇子の身体が弱い―――弱すぎるということだ。
今年で四歳になった皇子は生まれつき何らかの疾患があるらしく、しょっちゅう死線をさまよっている、らしい。
セレスティアが「後宮」に入ってからも既に二回、皇子の部屋に城中の医師が集められていた。
元々皇族の人間には病弱な者が生まれやすく、先帝もそうだっただと聞いている。
もちろんこれから成長すれば体質も改善される可能性もあるだろうが、臣下たちは早めに手を打つことにした。
もしものときの保険として、第二皇妃を迎えることにしたのだ。
正妃がもう一人産んでも、また第一皇子と同じような身体の弱い子が生まれるかもしれない。念には念を、と言うところだろう。
新しい皇妃を、皇帝はことのほか気に入ったようだった。
彼女が「後宮」に入って半年もする頃には、皇帝はほとんどの夜を彼女の部屋で過ごすようになった。
皇帝の寵愛が第二皇妃へと移ったことは、もはや疑いようがなかった。
けれど皇帝と第二皇妃との間には、結婚して数年経っても子はできなかった。
毎晩のように通い皇帝の寵愛を受けていながら一向に身籠る気配のない第二皇妃に、臣下たちは早々に見切りをつけた。
変わり映えのない短絡的な思考に呆れるが、再び妃を迎えることにしたのだ。
今度こそ、子を産ませるために。
ここまでが、セレスティアが侍女たちから聞いた噂話。
まだ若い、おしゃべり好きな新人侍女たちは、ちょっと珍しいお菓子をちらつかせるだけで何でも話してくれた。
若いと言ってもセレスティアより幾つかは年上の彼女たちは、話していいことと悪いことの区別もつかないのだろうかと呆れた。
城の侍女はいずれも貴族の御令嬢で、そのうちのほとんどは行儀見習いのためや、自らの経歴に箔を付けるための腰掛けだ。
自分の仕事に責任も誇りも何も持っていないから付け入りやすい。
何にせよ、子を産ませるために迎えたのに、実際に嫁いできたのがフィオナではなく成人もデビュタントもまだのセレスティアで、大臣たちはさぞ落胆したことだろう。
それでも四大公爵家のブラッドリー家の機嫌を損ねないよう無理を通さざるを得なかったのだろう。
セレスティアの生家は、それほどの力を持っている。
とは言え十四歳でも子を産めないことはない。
妃として嫁いできたのだ。何をされてもセレスティアに文句は言えない。
実際、無知な生娘ながらもそれなりの覚悟はしていた。
無理やりに身体を開かされるか、或いはふざけるなと罵倒されるか。
けれどルーカスは、そのどちらもしなかった。
無理を通したブラッドリー公爵家のセレスティアを責めることなく、気遣い、頭を下げた。幼すぎる妻に無体はしないと約束してくれた。
単に年端もいかない少女に食指が動かなかっただけかもしれないが、「役立たずの妃」を大切にしてくれた。
それは「役立たずの妃」が「不要の妃」になっても変わらなかった。
マリアンヌが子を産めるとわかった今、きっと第三皇妃は必要無い。
セレスティアが十五歳になっても二人の間に夜の営みが無いことがその証拠だ。
きっとルーカスはマリアンヌに義理立てしているのだろう。或いはルーカス自身、愛するひと以外には触れたくないと思っているのかもしれない。
それは一国の主としては決して褒められることではない。
けれどセレスティアは彼を責めるつもりはない。
マリアンヌへの愛を貫くことが彼の意思だというのなら、それでいい。
それでマリアンヌが幸せなら。
セレスティアが城に上がってもうすぐ一年が経とうとしていた。
もう何も知らない無垢で愚かな小娘ではない。
「後宮」で渦巻く様々な思惑も権力争いも己の身の振り方も、自分なりに学び、理解した。いつまでも幼いままではいられないということも。
けれどルーカスの考えていることだけはどうしてもわからない。
不要な側妃などいっそ「後宮」の奥に閉じ込めておけばいいのに、ルーカスは変わらず、セレスティアに優しい。
夫婦の営みは求めないくせに、セレスティアを大切に扱ってくれる。慈しんでくれる。
この先ルーカスとの関係がどうなるかはわからない。お飾りの側妃として一生を終えるのか、ブラッドリー公爵家の顔を立てて子の一人くらいは産まされるのか。
どちらにしろ、セレスティアは従うだけだ。
「後宮」に入ったときから、セレスティアに選択権などは無いのだから。
(……こういうところが『自分を大切にしていない』と思われるのかしら)
けれどどうしても、セレスティアには「自分を大切にする」ということがどういうことなのかわからない。
セレスティアは今まで我慢などほとんどしたことないし、好きなように生きてきた。わがままを言ったり駄々をこねたりして、何度も姉を困らせてきた。
生まれたときから欲しい物は何でも手に入った。温かい食事や美味しいお菓子、綺麗なドレスや宝石を与えられて、何不自由なく暮らしてきた。
そんな自分の人生に、取り立てた不満は無い。
もはやほとんど会うことのなくなった両親からの愛情も今更欲しいとも思わないし、陰口を叩くアカデミーでの同輩と関わる必要もない。
哀しいことつらいことは確かにあったはずだけれど、セレスティアの心に何一つ残らなかった。
セレスティアは大切なもの以外に関してはわりとどうでもいいし、大切だと思うものがそもそも少ない。
フィオナがいない今、セレスティアにとって一番大切なものはマリアンヌ。そしてその次がルーカス。
セレスティアの心を救ってくれたマリアンヌと、セレスティアの心を大切にしてくれたルーカが何より大事だ。
だからこそ、ふたりのために何かしたい。二人が喜んでくれるなら何でもできる。
マリアンヌがルーカスを支えろと言うのならそのために頑張るし、ルーカスが喜ぶことは何でもしてあげたい。
大好きなふたりが幸せそうにしているところを見るのが、セレスティアの幸せだった。
それなのに、セレスティアの幸せはどうしてだか周りに理解されない。
「今だって第二皇妃殿下の代わりの御公務をどうしてお嬢様がされないといけないのですか……っ」
「もう、ニコラったら。何度も言ってるでしょ。これは別にお姉さまの代わりにしてるんじゃないって。側妃としての仕事なんだから、わたしもして当然なの」
何度説明しても同じように怒るニコラも、きっとわかってはいるのだろう。けれどルーカスの寵愛がマリアンヌにあることが悔しくて、わざと彼女を悪し様に言うのだ。
セレスティアのことを思ってくれる気持ちは有り難いが、侍女としては失格だ。
セレスティアが「後宮」に入る前、ニコラはブラッドリー公爵家でメイドとして仕えていた。
そのため彼女はいついかなるときもセレスティアのことを第一に考える。ブラッドリー公爵家に忠誠を尽くす。
けれど今の彼女はメイドではなく「後宮」の侍女。そのことをきちんと自覚してもらわなければ困る。
未だにセレスティアのことを「お嬢様」と呼ぶことからも、その意識の低さがうかがえる。
セレスティアも今や「ブラッドリー公爵家の御令嬢」ではなく皇妃なのだ。
たとえ形ばかりの妻だとしても、むしろだからこそ、「皇妃」として大事にしてくれるルーカスの恩に報いたい。
お茶をしたりチェスをしたり、暇をもてあましているかのように思える「皇妃」だが、実は暇だったのはセレスティアだけで、正妃も第二皇妃もそこそこに忙しい。
正妃は城で開かれる夜会の準備や諸外国から訪れる賓客のもてなし、皇帝の不在時の執政の代行などその公務は多岐に渡る。
側妃も側妃で、「後宮」内を取り仕切ったり貴婦人たちをサロンに招いて行う茶会を催したりと忙しい。
正妃は皇帝の「公」を支え、側妃は「私」を支える。「後宮」でのほほんと遊んでいればいいわけではない。
以前はマリアンヌとアンジェリカの二人でこなしていたようだが、セレスティアが「後宮」に入って三ヶ月した頃から、セレスティアもマリアンヌのサポートという形で彼女を手伝い始めた。
というのも、それくらいの頃に懐妊がわかったマリアンヌはつわりに苦しみ、寝込むことが多くなったためだ。
起き上がれないマリアンヌに代わって彼女の侍女頭を通して少しずつ業務を引き継いだ。
今はつわりも収まって安定期に入ったが、あと二ヶ月もすれば出産し、その後子育てに入るのだからとそのまま引き受け、今では側妃の仕事の大半をセレスティアがこなしている。
押し付けたみたいで悪いわ、とマリアンヌは蒼い顔で申し訳なさそうにしていたが、マリアンヌの力になれること―――この「後宮」でできることがあることが、セレスティアは嬉しかった。
「さ、これで今日の分は終わり。お散歩でも行こうかしら」
「でしたら今は薔薇園の方が綺麗ですよ」
ペンを置き、アプリコットティーを飲み干す。立ち上がって「んー」と背伸びすると、はしたないと叱られた。
始まったニコラの小言を受け流し、散歩の支度をする。敷地内をちょっと歩くだけなのに着替えたり髪を整えたりめんどくさいなぁ、なんて思いながら。
「後宮」は城内で一番敷地面積は狭いが、庭は一番広い。
季節ごとに様々な花を咲かせる花園と、一年中薔薇の花を咲かせている温室の薔薇園があった。
以前どうして薔薇園だけ一年中咲いているのかマリアンヌに問うと、陛下は薔薇がお好きなのよ、と教えてくれた。
ニコラは部屋に残し別の侍女を連れて「後宮」内の庭園を歩いていると、ガゼボ内のベンチに座るマリアンヌの姿を見つけた。
「お姉さま!」
久しぶりに会うマリアンヌにうきうきと名を呼び、足早に駆け寄る。
ニコラがいればまた「はしたない」と叱られてしまうのだろうが、一週間ぶりに会うマリアンヌに弾む心を押さえきれない。
お互い最近何だかんだと忙しく、以前のように毎日会うことはできなくなった。
皇帝付の近侍からも「今が一番大事な時期だから」とやんわり釘を刺された。
セレスティアがマリアンヌ何かすると思われているのだろうかと哀しくなったが、出産は一大事。セレスティアにとって未知の世界だ。
おとなしく年長者の意見に従うべきかとマリアンヌへの訪問は控えていた。
そんなさなかの偶然の邂逅。嬉しくないわけがない。
「セレス」
セレスティアの姿を見つけてマリアンヌは微笑む。
その隣には三、四歳ほどの幼い男の子が座っていた。
体の半分くらいありそうな大きくて分厚い本を膝の上で広げていた男の子は、セレスティアを見て驚いたように身を竦ませた。
初めて見る、知らない子。けれどセレスティアは、彼の顔によく似た顔は知っている。
「その方……」
思わず口に出したけれど、誰かだなんて訊かなくてもわかった。間違えようもない。
日陰の中濃い銀に見える亜麻色の髪と、銀灰色の瞳、この国の君主たるルーカスによく似た容貌を持つ男児など、一人しかいない。
アデルバート=セイルヴ=ジュエリアル。
正妃アンジェリカが産んだルーカスの長子にしてこの国の第一皇子だ。
「お控えください、第三皇妃殿下」
アデルバートの後ろに控えていた侍女と思しき女が毅然として告げる。
皇妃に対し強気な態度だが、この場において無礼なのはセレスティアの方だ。
まだ帝位継承権はもっていないとはいえ、側妃であるセレスティアよりも彼の方が立場は上だ。
小さな皇子に慌てて礼をとる。
「失礼いたしました、皇子殿下。第三皇妃セレスティア=ブレイド=ジュエリアルと申します。以後お見知りおきを」
十歳近く下の幼子に首を垂れることを、屈辱とは思わない。それがここのしきたりであり、必要なことなのだから。
「はじめまして。アデルバート=セイルヴ=ジュエリアルともうします」
たどたどしい口調ながら名乗るアデルバードに密かに驚く。自分が誰でどういった価値があるのかもわかっていないような童と思っていたのに、立派な口上だった
「皇子殿下、わたくしたちこれで失礼いたしますわ。楽しい時間をありがとうございました」
侍女の手を借り、マリアンヌはベンチから立ち上がる。
「え……もっとおはなししたいです……」
マリアンヌを追いかけるようにアデルバートは上を仰ぐ。
眉が下がった哀しげな表情は、困ったときのルーカスによく似ていた。
「光栄ですわ、皇子殿下。でも皇子殿下はそろそろお部屋に戻られた方がよろしいわ。エイミス嬢も心配なさっているようですし。またいつか、お会いできたらお話しましょう」
約束ですよ、と白い小指を一本だけ立ててアデルバートの前に差し出す。
そして不思議そうにしているアデルバートの手をもう片方の手で取り、小さな小指と自らのそれを絡ませた。
同じ城に住んでいるのに再会の約束がそう容易く果たされないことを、彼はいつか知るのだろうか。
参りましょう、と促され、アデルバートに一礼してマリアンヌに続く。
立ち去るときに一人の男とすれ違った。セレスティアよりも一つか二つほど年上に見える、少年と青年の間くらいの男。
褐色の髪と鉄色の瞳をした綺麗な顔立ちの少年だが、見覚えはなかった。新しい侍従見習いだろう。
「……初めて見ました。皇子殿下」
「『拝見しました』よ、セレス」
「あ……はぁい。
噂には聞いてましたけど、本当に陛下にそっくりですね。でも女の子みたいに可愛らしい」
「……」
来年の冬に五歳になるアデルバードは、国民への「お披露目」はまだのため、二つ名しか公表されていない。
その他に彼についてセレスティアが知っていることは、名前と生まれつき身体が弱いという噂と、ルーカスにそっくりだという噂だけ。
ルーカスから息子の話を聞いたこともないし、特段興味も無かった。
皇子の二つ名である「銀の皇子」とは皇子時代のルーカスのものと同じだが、実物を見て納得した。
顔も髪の色も瞳の色も、ルーカスとまるで同じだ。
「お姉さまはよく皇子殿下とお会いになるんですか?」
「いいえ。今日が初めてよ」
「何を話してらしたんですか?」
「……大したことではないわ。ただ、皇子殿下はお花が好きとおっしゃるから、持っていた図鑑を見せていただいたの」
「あぁ、あの本図鑑なんですか。図鑑だと絵も多いし、子どもでも楽しいでしょうね」
「……皇子殿下、既に字をお読みになるわ。それにあの図鑑の内容はすべて覚えてらっしゃるんですって」
「え……まさか……」
それはいくら何でも言い過ぎだろう。マリアンヌの気を引きたくて嘘を吐いたとしか思えない。
あんな幼子の心まで掴んでしまうなんてさすがお姉さま。そう誇らしく思っていると、前を歩くマリアンヌは立ち止まる。
「あの方が、この子の兄上になるのね」
「……お姉さま……?」
ようやく膨らみが目立ち始めた腹にマリアンヌは手をやる。
気付けば産み月まであと二ヶ月になっていた。
「セレスティア」
「はい……?」
珍しく愛称ではなく本名で呼ばれたことに戸惑っていると、ゆっくりとマリアンヌが振り返る。
マリアンヌがどんな顔でセレスティアを呼んだのか、逆光で見えない。
太陽の光を背負うマリアンヌは、どこか神々しくさえ見えた。
まるで彼女自身が輝くかのように美しい第二皇妃のことを、民はいつしか「太陽の女神」と呼ぶようになった。
皇帝を陰から支える側妃の立場でありながら。
「セレスティアは、陛下のことすき?」
マリアンヌの問いに即答できなかったのは、きっと思いがけない質問だったから。
それ以外に理由なんて無い。
答えに窮するセレスティアを、マリアンヌはそっと抱きしめた。
「おねえ……」
「きっとこの先、貴女も陛下の御子を産むでしょう。けれどどうか、どんなときも、陛下を一番に愛して。あの御方を決して一人にしないで」
ー・-・-・-・-・-
そのときのマリアンヌの言葉の意味を知るのは、それから二月後。
真っ赤な紅葉が森の木々を色づけた秋、金の髪と蒼い瞳を持つ第二皇子を産んだマリアンヌは、そのまま帰らぬ人となった。
【本編では触れなかった設定⑯】
帝国での地位は皇帝→正妃→皇太子→次期皇太子→皇子・皇女(帝位継承権有)→側妃→皇子・皇女(帝位継承権無)の順です。
側妃内での順位は便宜上ないとされていますが、生家(後見人)の力や皇帝からの寵愛、子の有無などで何となくみんな空気を読みます。
皇子時代のレオンはセレスティアより高位ですが、セレス様が後見人であり養母でもあるので敬意を払ってますし頭も上がりません。




