E.C. 998.02-2
前回の続きです。
何とか立ち直ったルーカスと二人でオペラハウスへと向かい、皇室専用のロイヤルボックスへと入る。
ルーカスもまた、セレスティアがオペラに行きたがっていると思ったのだろう。
優しいルーカスは、いつだってセレスティアの願いを何でも叶えてくれるから。
結婚後、「後宮」はおろか城から出るのもこれが初めてだったけれど、少しも浮かれた気分になんかならなかった。
今帝都で話題だという演目も歌姫の美しさも少しも頭に入らなくて、考えるのはマリアンヌのことばかり。
セレスティアが我儘を言ったと思ったから、マリアンヌは怒ってしまったのだろうか。
ふたりのデートの邪魔をしようとしたと思われたのだろうか。
違うのに。
セレスティアはただオペラを見たかっただけで、ふたりの間に割りこもうとしたわけではない。
むしろ正直なところ、ルーカスよりもマリアンヌと一緒に出かけたかった。
城下を二人で散策して、買い物して、このドレスがセレスに似合うわ、お姉さまはどの宝石よりも美しいわ。そんな話がしたかった。
自分の不要な発言で後悔の波に苛まれるまま行ったオペラは少しも楽しくなかった。
キャストの恋の行方よりもマリアンヌに嫌われたらどうしよう、そんなことばかり気になって仕方なかった。
「浮かない表情をしているね。オペラはあまりお気に召さなかったかい?」
帰りの馬車の中、隣に座るルーカスにハッとする。
マリアンヌと過ごせなくて残念なのはルーカスも同じ、否、むしろルーカスの方が落胆しているだろうに、気を遣わせてしまうなんて。
「そんなことございません。とっても素晴らしかったです。わたくし、オペラ、初めてで、すっごく……素敵で素晴らしかったです!」
誰が聞いても頭の悪い感想に、ルーカスは苦笑する。
優しい、けれどマリアンヌを見る目とは全然違うまなざしに、なぜだかひどく安心した。
「……ごめんなさい……」
「うん?」
「本当は陛下も……お姉さまと一緒に行きたかったですよね……。わたくしが、余計なことを言ったから……」
「そのことをずっと気にしていたのかい?」
堰を切ったように言い訳がましい言葉が溢れる。
オペラは死んだ姉と一緒に行こうと約束していたから反応してしまっただけで、ふたりの仲を邪魔しようとは少しも思っていないこと。マリアンヌのことを心から慕っていること。マリアンヌに嫌われるくらいならこの先一生どこにも出かけなくてもかまわないこと。
必死に訴えた。
「そんなに気にしなくて大丈夫だよ、セレスティア。マリアンヌも虫の居所が悪かっただけだよ」
宥めるようにルーカスは優しく言うが、しかしそれはつまり暗にセレスティアがマリアンヌを怒らせたと言っているのと同じことで、何のフォローにもなっていない。
「……やっぱり陛下も、わたくしがお姉さまを怒らせたとお思いですよね……」
「いや、そんなことはないさ。もしもマリアンヌが怒っているとしたら、それは私にだよ」
「陛下に……?」
「あの場で誘うのは配慮が足りない、とね。久しぶりに彼女と出かける時間が取れると思ったら、浮かれてしまって、つい……」
すまないね、とルーカスは謝るが、言っていることは完全に惚気だ。
「……お姉さまって、陛下にも怒ったりされるんですか……?」
セレスティアだったらとてもじゃないけれどそんなことはできない。
セレスティアにとって名ばかりの夫は伴侶であり君主であり保護者だ。
彼の言動に腹を立てるなんて畏れ多い。
たとえルーカスがそのことを咎めないとしても。
「しょっちゅうだよ。つまらないことでへそを曲げたと思ったらころっと機嫌が直っていたり、何に怒っているか自分でもわかっていないのにとにかく怒ることもね」
そういうところも可愛いよね、となぜか照れたように笑う。どうしてそこで照れるのかよくわからない。
この人がこんなだから、マリアンヌを怒らせるのではないだろうかとセレスティアは密かに思った。
「陛下はお姉さまのこと、だいすきなんですね」
「あぁ。……愛しているよ」
躊躇いも無くルーカスは言う。
そこは照れないのか。よくわからない。
ついでに馬車に同乗している皇帝の近侍も、これが仮にも夫婦の会話かとドン引きしているのだが、そのことも二人は知らない。
「……すまない。こんな話、君にすべきではないね」
「そんなことありません。お姉さまと陛下のお話、もっと聞きたいです」
セレスティアの言葉にルーカスは驚いたように目を丸くしたが、躊躇いながらも話してくれた。
「……私は初めて彼女に会ったとき、彼女に酷いことを言ったんだ」
「酷い……こと?」
「君を愛するつもりはない、と。皇妃としての尊厳は尊重するけれど、妻として愛することはできないと」
「まぁ……」
「そしたら彼女、何て言ったと思う?」
「……何とおっしゃたのですか?」
「『それは困ります』だってさ」
「まぁ!」
ルーカスの話に今度はセレスティアが目を丸くする番だ。
これから妻になる相手にそんな宣言するルーカスもどうかと思うが、マリアンヌもマリアンヌだ。
「嫌だ」ではなく「困る」とは、正直すぎる。
「マリアンヌは最初からずっと、私には思いもよらないことばかりしでかして、本当に驚かされてばかりいるよ」
けれどきっと、それが少しも苦ではないのだろう。
愛さないと告げたルーカスがどうしてマリアンヌを愛するようになったのか、オペラのキャストの恋の行方よりも、ふたりの愛の物語の方がセレスティアにとっては興味をそそられた。
「……私は、マリアに救われたんだ」
マリアンヌのことを語るルーカスの瞳に、切ない色が混じる。その色が何を意味しているのか、セレスティアにはわからない。
ふたりにはふたりにしか知らない、ふたりだけの物語があることを美しいと思うし、寂しいとも思う。
嫉妬ではない。
ただほんの少しだけ寂しい。
「……わたくしもです」
ルーカスの左腕に、自らの頭を寄せる。
それは夫婦として寄り添ったのではなく、妹が兄に甘えるようなもの。或いは、小さな仔猫が温もりを求めて身を寄せ合っているだけ。
ルーカスも同じように思っているのか、ごく自然に、セレスティアの頭を撫でた。
「わたくしも、お姉さまのことが大好きです。……でもお姉さまは、わたくしのことをどう思ってらっしゃるのでしょう……」
夫に他の女がいることを快く思う妻はいないだろう。
正妃のアンジェリカは仕方ないとしても、あとから現れたセレスティアのことをマリアンヌが邪魔に思うのは当然のことだ。
どうしてそのことに少しも思い至らなかったのだろう。
ちなみに自分の考えに落ち込むセレスティアに、カーティスは「え、今更?」と思っていたが、やはりその思いは二人には届かない。
「マリアンヌは君のことをよく気にかけているよ」
「え……」
「君の皇妃教育を任せてほしいと言いだしたのはマリアンヌだ。素直で健気で頑張り屋だと褒めていたよ」
「本当ですか!?」
「あぁ。私は嘘は言わないよ」
「よかったー」
ルーカスの言葉に一気に浮上する。
ちなみにルーカスは一言もマリアンヌがセレスティアのことを「好き」だとは言っていないのだが、そのことにセレスティアは気付いていない。
見た目が美しい人は心も美しいのだと素直に安堵していた。
「私がいないとき、マリアンヌとはいつも何をして過ごしているんだい?」
「えっと……お茶を飲んだり、刺繍をしたり……。あ、この間は絵を描いてさしあげました!」
「絵を?」
「はい。お姉さまの美しさはなかなか表現できませんけれど……」
小さな頃から絵を描いたり、芸術に触れることは好きだった。
父に何の役にも立たないとすぐに辞めさせられたけれど、アカデミーでは友人たちをモデルにこっそり描いていた。
「あとは……チェスのやり方を教えていただきました」
側妃であるセレスティアとマリアンヌは許可無く「後宮」を出ることはできない。そのため日々できることは限られている。
元々貴族の令嬢は暇をもてあましていることが多いが、それでも実家にいた頃はアカデミーの友人たちと茶会を催したり街に繰り出したりしていた。
そう言えば、突然の結婚だったため級友たちに別れの挨拶も満足にできなかったけれど、皆元気にしているのだろうか。
「マリアンヌはチェスが強いだろう」
「はい。ハンデを頂いても一度も勝てませんでした。……わたくしなんか、とても敵いませんね」
「そんなことないさ。まだ始めたばかりだろう。すぐに上達するさ」
「いえ。……わたくし、あまり賢くないので」
困ったように笑うと、なぜかルーカスはもっと困ったような表情をした。
「自分のことをそんなふうに言うものではないよ」
「……」
「マリアンヌも言っていたけれど、君は自分を卑下することがあるね。彼女は、君はとても努力家で飲み込みも早いと褒めていたよ。もっと自信をもてばいい」
「……そんなことないです。わたしなんか、全然駄目なんです」
頑ななセレスティアに、ルーカスはますます困惑した表情を見せる。
こんなこと、話すつもりも無かったのに。
セレスティアは、美しかった。
自分で言うのも何だが、姉の何倍も可愛らしかった。
幼い頃から周囲の大人にもてはやされ、可愛がられた。
「セレスティア嬢は可愛らしい」。「花の妖精みたいだ」。「きっと将来国一番の美女になる」。
そう言ってセレスティアを無責任に褒めそやす大人たちは、その様子を黙って見ていたフィオナに気付くとギクリとした。
フィオナは決して美しくわけではない。むしろ一般的な貴族の令嬢と比べれば十分美少女の部類に入る。
ただセレスティアに比べるとどうしても華やかさに欠けた。
同じ碧の瞳を持っていても、鮮やかな焔に似た緋色の髪をしたセレスティアに対し、フィオナの髪は凡庸な褐色。ありふれた色だった。
人は、より優れている方しか認めない。比べることでしか価値を見出せない。
少なくとも、セレスティアの周りの大人はそうだった。
だから大人たちはフィオナがセレスティアよりも優れているところを必死に探し、とってつけたように彼女を褒めた。
「フィオナ嬢はひかえめでお淑やかで賢くて上品で、淑女の鑑ね」。
「アカデミーに首席で入学したんですって?ご両親も鼻が高いでしょう」。
そう言って褒められるたび、フィオナが少し困ったような微笑みを見せていたことには気付いていた。
けれど幼い頃のセレスティアには、その理由がわからなかった。
貴族の娘にとって、賢さなど何の意味ももたない。
淑女であることなど当然で、男性より優れている女はむしろ敬遠される。
令嬢に求められることは美しくあること。見目麗しく物知らずで男性に従順な女性が愛される。
そういう女が選ばれる。
フィオナはそのことがわかっていた。
賢いフィオナよりも、美しいセレスティアの方が女として価値がある、と。
けれどフィオナは決してセレスティアを妬んだりはしなかった。
むしろ誰よりもセレスティアのことを可愛いと褒めてくれた。大好きよ、自慢の妹よ、と言ってくれた。
幼いセレスティアには姉の憂い顔の理由はわからなかったけれど、幼さゆえに、姉が大好きと言ってくれるならそれでよかった。
可愛い可愛いセレスティアは、すくすくと育った。
姉妹の立場が逆転し始めたのは、セレスティアがアカデミーに入学した頃。
大人たちにとって価値のあるものが、同世代の子どもたちにとっても必ずしもそうだとは限らない。
否、大人と同様価値がわかっている分、「評価される」立場である子どもは残酷だった。
「お姉様はあんなに優秀だからセレスティアさまもそうだと思ったのに、違うのね」。
「いいわね、セレスティアさまは。それだけ可愛ければ何でも許されるのだから。可愛く生まれてよかったわね」。
同世代の少女たちは、同じ「選ばれる側」であり自分よりも「優れた者」であるセレスティアに脅威を覚えたのだろう。
決して聞かれないように、けれどきちんと聞こえるように、密やかに囁き合うことでセレスティアを貶めようとした。
「おてんばで奔放で天真爛漫な可愛いセレスティア」は、いつの間にか「落ち着きがなく気まぐれで物知らずで可愛いだけのセレスティア」になっていた。
セレスティアは決して劣等生ではなかった。
ただ比較対象のフィオナが優秀すぎただけだ。
成績優秀で品行方正な姉にはどう頑張っても敵わない。敵う必要など無いのに、周囲は好き勝手に中傷する。
そんな潮騒のような悪意に晒されながら、しかしセレスティアは安堵していた。
セレスティアが貶されれば、フィオナが褒められる、と。
姉に気を使っていたわけでも、憐れんでいたわけでもない。
ただセレスティアにとって一番大切なことは、フィオナが笑っていてくれることだった。
そのためなら、とるに足らない人たちに何を言われても何とも思わなかった。姉が傷付くよりもよっぽどよかった。
けれどそのことを、ルーカスにどう説明すればいいのかわからない。
フィオナがセレスティアを見下していたわけでも、セレスティアが自己犠牲に酔っていたわけでもないということを、ルーカスにわかってもらえる自信が無かった。
言葉に詰まるセレスティアの手に、ルーカスは自らの手をそっと重ねた。
「……話したくないことなら、無理に話さなくてかまわない」
「陛下……」
「ただ、私にとって君は大切な民であり、妃だ。だから約束してほしい。自分のことを大切にすると」
「……」
「自分を卑下したり、貶めたりしなくていいんだよ」
ルーカスの優しい言葉に、何と返せばいいのかわからなかった。
わからないことが、申し訳ないと思った。




