E.C. 998.02-1
「何もしない」というルーカスの宣言通り、婚礼式の夜、二人の間には何もなかった。
それどころか、初夜以来ルーカスがセレスティアの部屋を訪ねてくることはなかった。
ないがしろにされているわけではない。婚礼式の次の日以降毎晩ルーカスは一緒に夕食をとってくれるし、ときどき庭園の散歩にも連れ出してくれる。
セレスティアがスズランの花が好きだと知るとその日にセレスティアの部屋はスズランで埋め尽くされたし、カナリアが可愛いと言えば鳥籠ごとカナリアが届いた。
何気なく言ったセレスティアの願いを、ルーカスは何でも叶えてくれた。美しく優しい夫はセレスティアのことをとても大切にしてくれた。
けれど、一週間経っても一ヶ月経ってもセレスティアの心は整っていないと思われているのか、夜の渡りは無かった。
セレスティアの方から言い出すのははしたないし、何より実際一ヶ月経ってもセレスティアの心は整っていなかった。
ルーカス対して好意を抱いてはいるけれど、それは兄を慕うような気持だった。
だから「皇妃」としての務めが果たされていないことを申し訳ないと思う反面、心のどこかで安堵もしていた。
夫婦の仲が深まることはなかったが、一方で何故かマリアンヌとの仲は深まっていった。
婚前の皇妃教育の講師を引き受けてくれたマリアンヌの元へ、教育が終わったあとも毎日のように通った。
同じ男を夫にもついわば恋敵のような関係であるはずの二人だが、マリアンヌはセレスティアにとても優しくしてくれた。
歌うように綺麗な声で皇妃のあるべき姿を説き、セレスティアを導いてくれた。
彼女はひとつひとつの動きが洗練されていて、美しかった。彼女が微笑むだけで、世界には光が満ちた。
何度会っても、会うたびに、こんなにも美しい人がいるのかとため息が出た。
美しくて優しくて完璧なマリアンヌに対する憧れは、日増しに強くなっていった。
「お姉さま」と呼ばせてほしい。自分のことは「セレス」と呼んでほしい。そう強請るとマリアンヌは驚きながらも了承してくれた。
姉と同い年のマリアンヌに、姉の面影を重ねていたのかもしれない。
マリアンヌとフィオナは少しも似ているところは無かったけれど、広い城の中でたった一人姉のことを知っているマリアンヌと過ごす時間は、セレスティアに安らぎを与えてくれた。
セレスティアの知らないフィオナの話を聞くのが楽しかった。
そうしてセレスティアは、周りが眉を顰めるほどマリアンヌに心酔していった。
「マリア」
「陛下!」
「後宮」のサロンでマリアンヌと二人でお茶をしていると、ルーカスが訪れた。
マリアンヌは立ち上がり、ルーカスの元へと歩み寄る。
ルーカスの姿を見つけると、マリアンヌはいつも花がほころぶように笑う。ルーカスもまた、愛しくてたまらないというような熱のこもったまなざしを向けた。
皇帝であるルーカスは、十七歳のときに正妃を迎えた。
サルヴァドーリ皇爵家の出身であるアンジェリカ=セイルヴ=ジュエリアル。
シルバーブロンドの髪と青い瞳をした美しい女性で、ルーカスと並ぶ姿はまるで一枚の絵画のようだった。
アンジェリカとの結婚後、ルーカスは国民の前に出る際は必ずアンジェリカを伴っていた。
常に夫に寄り添い支える美しい妃は帝国じゅうの淑女の憧れであり、ふたりは理想の夫婦だった。
一方でセレスティアが第二皇妃としてのマリアンヌの姿を見たのは、結婚の祝賀パレードのときだけだった。
デビュタントを済ませていない当時十一歳のセレスティアは式や宴に出席することは叶わず、歓声に応じるマリアンヌの姿を遠くで見るだけだった。
「社交界の花」と謳われたマリアンヌを側妃に迎えても、ルーカスの隣はアンジェリカのものだった。
戦地へ赴くルーカスを見送るのも、迎えるのも、皇家主催の宴でファーストダンスを踊るのも、すべてアンジェリカの役目だった。
正妃として国母として君臨するアンジェリカとは対照的に、結婚後マリアンヌが表舞台に出てくることはなかった。
だから幼いセレスティアはずっと、ルーカスはアンジェリカだけを愛しているのだと思っていた。
恋に夢見るアカデミーの友人たちと、「皇帝陛下は正妃殿下のことを愛しているのに御世継ぎのために側妃を迎えなくてはいけないなんて大変ね」なんて知ったかぶりなマセた話をしたこともある。
けれど皇妃教育を受けて実際に「後宮」に入って自分の目で見て、今までの噂話がいかに的外れなことだったかを知った。
皇帝が公の場で伴うのは正妃でなければいけない。
側妃は正妃の代わりなどではなく、帝国の太陽である二人を陰から支える存在でなければならない。
そこに皇帝の寵愛など関係ない。
「後宮」の秩序を乱すようなことは、あってはならない。
だからマリアンヌは自らの立場を弁え、公の場で皇帝の傍に侍ることはなかった。
ルーカスがアンジェリカを伴っていたのは、彼女が正妃だったからだ。
けれどこうして非公式の場、私的な時間を共有すれば、ルーカスの寵愛が誰にあるのかなんて一目でわかる。
ルーカスは忙しい公務の合間を縫ってマリアンヌの元に足繁く通う。そしてセレスティアには向けたこともない甘い声で彼女を呼び、熱のこもった瞳を彼女に向ける。
アンジェリカと一緒にいるときの凍るような美しさは欠片も無い。
ルーカスがマリアンヌのことを誰よりも愛していることはすぐにわかったし、自然なことに思えた。
寄り添い合うふたりは、「一対」だった。
欠けているところなどひとつにも無いのに、互いが互いにぴたりとはまる。他の誰でもそうではならない。ふたりはふたりでないとだめなのだと、そのことを自分が知っていることを誇らしく思った。
そんなふたりの仲に嫉妬などするはずもない。
「マリア。午後から時間がとれたんだ。オペラを見に行かないか?」
挨拶する時間も惜しいのか、ルーカスは弾んだ声で用件を切り出した。
セレスティアとマリアンヌが一緒にいても、ルーカスはマリアンヌだけに話しかける。
セレスティアを無視しているわけではない。ルーカスはマリアンヌのことしか見えていないだけだ。
ルーカスにとって何よりも優先すべきはマリアンヌであって、セレスティアはそのことに不満なんて無い。
無いのに、今日はうっかりしていた。
「オペラ!?」
驚いたようにふたりがセレスティアを見ていることに気付き、セレスティアは自分の発言に気付いた。
完全に無意識だった。慌てて口を押えるも、後の祭り。
「……セレスティアもオペラに興味あるのかい?」
「え……っと……」
「セレスティアもいっしょに行く?」
優しいルーカスは、セレスティアを除け者にしたりしない。セレスティアの存在に気付いているときは、きちんと声をかけてくれる。
ふたりの邪魔をしたくなくて息を潜めているのはセレスティアの方だ。
それなのに今日に限ってうっかり声を出してしまったのは、オペラは生前、姉と一緒に行こうと約束していたから。
友人と観劇に行ったフィオナが羨ましくて、どうして自分も連れて行ってくれなかったのか、と駄々をこねたことがある。
セレスは小さいからまだオペラには行けないのよ、と宥めるフィオナに、そんなの関係ない、姉様と一緒がいい、姉様はセレスが嫌いなの、と盛大にごねた。
結局「セレスが大きくなったら一緒に行きましょう」、ということでその場は収まったのだが、その約束を果たすことなくフィオナは死んだ。
姉はもういないけれど、そこにルーカスとマリアンヌと一緒に行けたらどんなにいいか。
そう思ったのに、マリアンヌは一歩ルーカスから離れた。
「わたくしは参りません」
「え……」
「マリア?」
「今日は少し気分が優れないので、遠慮させていただきます。
陛下、セレス。楽しんで来てくださいませ」
完璧な微笑みと共にそう言い、マリアンヌは礼をする。
そしてルーカスの返事を待たず、その場から立ち去った。
皇帝に対してあまりに無礼な態度だが、ルーカスはそれを咎めない。
というかむしろ、この世の終わりを見たような悲壮な表情は、咎める余裕すらないように思える。
人は自分よりも追い詰められた人間がいると不思議と冷静になるようで、思わず「大丈夫ですか……?」と訊いてしまった。
長いので一旦切ります。




