E.C.1011.07-2
この国では七月のことを別名雷月と呼ぶ。梅雨が明ける頃、夏の始まりを告げるように雷が暗い空を切り裂くことがその由来だ。
こんな時期にアデルバートが帝都に滞在していることは至極珍しい。
少なくとも、彼が拠点をセイレーヌに移してからは初めてのことだ。
「それにしても、オペラとはすぐに愛だの恋だので刃傷沙汰が起こるのですね。何と物騒な。
人として、もっと大切にしなくてはいけないこともあるでしょうに」
「キャリー……。あくまでお芝居だからね」
「キャリーは花物よりも荒物の方がお好みかな?」
「はなもの?あらもの?」
「花物は主に恋愛をテーマにした作品だけれど、荒物は戦闘が主なんだ。凛々しい騎士たちが舞台上で斬り合う様は圧巻だね」
「そのようなジャンルがあるのですね。さすがお兄様。博識です!」
「向こうで実際に見る機会はあまり無いけれど、題材となった本はたくさんあるからね」
皇家の紋章を掲げた馬車の中で、キャロライナはアデルバートに尊敬のまなざしを向ける。
兄妹水入らずの、穏やかな時間だった。
皇帝の帰国の翌月、アデルバートは離宮から帝都ジュリアスへと帰って来た。
新年の祝いとも皇帝の生誕祭とも違うこの時期の皇太子の帰都に城内はにわかに騒がしくなった。
彼の身体の弱さをよく知る古くからの侍女や侍従はこれから暑くなる時期なのに、と気をもんでいたようだが、その心配どおりアデルバートはきっちり数日寝込んだ。
とはいえそれから更に一週間ほど経ち回復して以降は調子も良いらしく、健やかに過ごしているようだ。
今日もアデルバートの誘いにより、レオンハルトとキャロライナはオペラの観劇のため街に出ていた。
演目は帝都中の貴族が夢中になっている今人気の『消えた薔薇姫』だが、身分違いの男女が一目で恋に落ち永遠の愛を求めて心中するという話は、まだ十二歳のレオンハルトとキャロライナにはイマイチピンとこない。
キャストの歌は確かに素晴らしかったが、話の感想としては、正直「今ひとつ」だ。
「『アルストリアの行方』なんかを見るといいよ。きっとキャリーも気に入るはずだ」
「どんなお話ですか?」
「とある罪を犯して国を追われた騎士が、生き別れた弟を探して旅する話だよ」
「?追われているのに弟を探していて大丈夫なのですか?」
「うん。まぁ……そうなんだけど……まぁ、詳しいことは実際に見た方がいいかもね」
「では次はそれを見に参りましょう」
上機嫌で言うキャロライナに、アデルバートは「そうだね、来られたら素敵だね」と返す。
いつからか、アデルバートは明確な約束を避けるようになった。
それが何を意味しているのか。レオンハルトは考えないようにしていた。
「レオン」
「え?」
「さっきからぼうっとしているようだが、どうかしたかい?」
「あ……いえ……」
「会場は人も多かったし、人酔いしたのかな?冷たい飲み物を用意させようか」
「いえ……大丈夫です……。何でもありません……。オペラの余韻に浸っているといいますか……」
ごにょごにょと曖昧に返すと、アデルバートは不思議そうな表情を見せながらもそれ以上の追及はしなかった。
兄と一緒に出かけられることが、一緒にいられることが嬉しい。
けれど反面、うしろめたくて仕方ない。
自分は兄の傍にいていいのか。いる資格があるのか。
あのとき一瞬頭をよぎった考えが、どうしても消えない。
ジャンの悪魔のような囁きがこびりついて離れない。
「皇太子になれば、あの姫君を手に入れられる」なんて。
それが何を意味するのか。恐ろしい。
自分がそんなことを考えるなんて信じられなかった。
誰よりも何よりも兄のことが大切だったはずなのに。
ローズマリーは、微笑みひとつでそれを覆した。
自らの抱く感情に懊悩を抱えながらも、一方で思うこともある。
「アメジアの王女」を妃に迎えるのは、アデルバートでなくともかまわない。
そのことを、当の本人たちはどう考えているのだろう。互いのことを、どう思っているのだろう。
「殿下。到着いたしました」
馬車が停まり、外からアデルバートの侍女、レベッカが声をかける。
ありがとう、そう言って立ち上がったアデルバートは開けられた扉から馬車の外へと降りる。
「兄上……ここは……?」
「留守番させてしまっているウィルに、おみやげを買って帰ろう。ウィルの好きな物を二人で選んでおくれ」
レオンハルトは自力で、キャロライナはアデルバートに手を借りながら馬車から降りる。
到着したのは後宮ではなく、可愛らしい外観の菓子店だった。
流れるようなデザインの文字で書かれた店名にはレオンハルトも覚えがある。ここのプディングは絶品だと、「キャロライナの御学友」の御令嬢も言っていた有名店だ。
「お、お兄様!わたくしもこちらのプティングを一度食べてみたいと……っ」
「あぁ、もちろんだよ。何でも好きな物をお選び」
「~~~!!」
頬を上気させ、言葉にならない歓喜の声を上げる。
キャロライナはいくら男勝りで兎狩りを好み勇ましくても、やはり女の子。甘いものは大好きなのだ。誰よりも先に店の中に入り目を輝かせる様は、年相応の無邪気な少女だった。
「レオンも。好きな物をお選び」
「はい。私はこちらのマフィンがいいです。それからこちらのプティングをウィルに、あとこのクッキーも買ってよろしいでしょうか」
「かまわないが、そのクッキーは誰にあげるんだい?」
「ステラに。あぁ見えてステラは甘いものが好きなんです」
「おや、優しいね。レオンは」
「えぇ。そこまで大切に想われているなんて、皇子殿下の侍女殿はお幸せですね」
「おやレベッカ、私だって君たちのことを大切にしているつもりだけれど」
「まぁ殿下ったら。そういうつもりで申しあげたわけじゃありませんわ」
主と侍女というには気安く軽口を叩き合うアデルバートとレベッカに驚くが、端から見ればレオンハルトとステラも似たようなものなのだろう。
幼少期から一番近くで尽くしてくれる侍女は、皇子や皇女にとっては特別な存在だ。
「……兄上は、あの御方にはお買いにならなくてよろしいのですか」
「あの御方?」
「……アメジアの……」
ローズマリーもまたアデルバートと共に離宮からやって来た。
けれど他国の王族であるローズマリーが「後宮」に足を踏み入れることは許されないため、来国時と同様、「宮廷」に滞在している。
その間セレスティアは時折彼女の元を訪れているようだが、アデルバートが彼女を訪ねているという話は聞かない。
今まで不在にしていた分の皇太子としての公務が忙しいというのもあるだろうが、それでもこうして弟妹とお忍びでオペラを観劇する時間はとれるのだ。
同じ城内のローズマリーを訪ねる暇がないほど忙殺されているわけではないだろう。
とはいえ、そもそも、二人の関係は今どうなっているのだろう。
今回の時期外れの帰都は、二人の婚約に何かしらの動きがあったからではないのだろうか。
皇帝からアデルバートの帰都を聞かされたときからずっと考えていた。
誰にも訊けず悶々としていた。
意を決して――当たり障りのないことを心中複雑ながらも問うと一瞬、アデルバートの表情が消える。
元々白い肌は、いっそ蒼く見えた。
「兄上……?」
「……あぁ、大丈夫だ」
レオンは本当に優しいね。
そう言って微笑むアデルバートの表情は、レオンハルトが今まで見たことのないものだった。
張り付いたような微笑みを、兄らしくないと感じた。
「兄上……」
「……殿下。そろそろお時間です」
「あぁ……そうだね。
キャリー。どれにするか決まったかな。そろそろ帰らなければ城の者に心配をかけてしまうよ」
レベッカの言葉にアデルバートは張り付いた笑みのままキャロライナに言う。
きらきらした目で店の中を物色していたキャロライナは、長兄の様子には気付かず目を輝かせたまま言う。
「こちらのマカロンとプディングがいいです」
「わかったよ。
ではレベッカ。レオンの分とあわせて持って帰れるよう包んで、あとはすべて城へ届けるよう手配を」
「え……」
「かしこまりました」
店に寄ると決めた時点で店ごと買い占める話をつけていたらしい。
考えてみれば「皇太子御一行」がスイーツ二、三点のみ購入するなど、そんなけちくさいことをするわけがない。
皇族が城下に趣く際、公務にしろ娯楽にしろ訪れる場所は原則貸し切る。
それはつまりその間営業に支障が出るのだから、その補填を負って然るべきだ。
「好きな物を自分で選ばせてやりたい」という兄心からレオンハルトやキャロライナに選択権をくれたが、残りはすべて日頃の労いも兼ねて城の侍女たちに振る舞うらしい。
「ではレオン、キャリー。行こうか」
「はい!お兄様!」
アデルバートともにうきうきと店を出て行くキャロライナに続きながら、あのなかのどれかがローズマリーの元に届くのだろうか。
彼女が何を好きなのか、アデルバートは知っているのだろうか。
そんなことを考えた。




