E.C.1011.06-1
その昔。世界は混沌に満ちていた。
いくつもの小国がしのぎを削り、生まれては滅び、生まれては滅ぼされ、各地でめまぐるしく政権が入れ替わってきた。
今や世界最大にして最強の国であるジュエリアル帝国もまた、その小国の一つでしかなかった。
少しずつ領土を広げ、力を蓄え、周囲の国々を従えてきた帝国は、強大になればなるほどまた別の争いを生んだ。
あるときは更なる力を求め、あるときは自らに迫る脅威を退けるため、幾度となく自国、或いは他国を焼いた。
戦争と平和を繰り返し、そうして少しずつ国力を強めていった。
レオンハルトが生まれる前はちょうど情勢も不安定な時期で、世界の各地で戦争が起こっていた。
先代の皇帝――レオンハルトの祖父も病に侵されるまでは自ら戦地に赴いていた。
現帝が即位する前のことだ。
身体が弱く、戦もあまり上手ではなかった先帝とは対照的に、戦神と崇められる現帝は瞬く間に戦を収め、再び泰平の世を築いた。
彼がいるかぎり平和は続く。
そう言わしめたほどその強さは圧倒的だった。
そんな皇帝は即位以来、城を空けることが多々あった。
視察と称して国内の情勢を見て回っているらしい。皇帝自ら足を運ぶことは、歴代の皇帝でも珍しいことだった。
それを可能にしたのは、彼が勝ち取った平和、そして彼の代わりに政を行う正妃アンジェリカの有能さだろう。
「おかえりなさいませ、陛下」
「ただいま、レオンハルト。ほんの少し会わぬ間に、随分大きくなったね」
玉座の間に呼ばれたレオンハルトは膝を折り、臣下としての礼をとる。それを見て、皇帝は銀灰色の目を細めた。
先日まで皇帝は国内の視察ため城を離れていた。
「ほんの少し」と言ったが今回は随分と長く、二ヶ月ほどだった。
「顔をお上げ。そなたの顔を、もっとよく見せておくれ」
「……」
穏やかな声に命じられ、レオンハルトは黙ったまま顔を上げる。皇帝は、満足げに唇を三日月の形に歪める。
城の者は皆、皇子や皇女のなかで最も彼に愛されているのは第二皇子だと口をそろえて言う。
けれどレオンハルトは、父であるこの男が怖かった。
いつの頃からか、麗しい笑みを向けられても、優しい言葉をかけられても、視線で射抜かれているような心地がして、恐れを抱くようになっていた。
「今回は久方ぶりにセイレーヌの離宮にも滞在したよ。本当に、あの街は昔から少しも変わらない」
「……陛下も御即位前はよく離宮で過ごされたのでしたね」
「あぁ。あそこはもともと皇家の直轄領だからね。今はアデルバートがよく治めてくれているようだ」
「……」
皇帝の方からアデルバートのことを口にするのは珍しいことだった。
第一皇子にして皇太子という立場でありながら、アデルバートはあまり公に姿を現さない。
彼が生活の拠点を離宮に移してもう七年が経とうとしている。
その間、定期的に帝都を訪れ公式の祭典には出席するものの、今年はまだ一度も果たされていない。
新年の祝いにも皇帝の誕生祭にも体調を崩し出席することができなかった。
もともと身体が弱かったアデルバートだが、ここ数年では床に臥す回数がますます増えたらしい。
病弱で不在がちな皇太子のことを、皇帝はあまり話題にしない。関心を示さない。
誰もがそう感じていたからこそ、皇帝の口からアデルバートの名が出てきたことに驚いた。
「……兄上は、お元気にされていらっしゃいましたか」
「あぁ。そなたにも会いたいと話していたよ」
「……光栄なことにございます」
二人でレオンハルトのことについて何の話をするのだろうかと気になるも、知るのが怖い気がした。
レオンハルトはもう、怖いことばかりだ。
何もかもが怖くて、昔のままではいられない。
盲目なまでに兄のことを慕っていた頃には戻れない。
「そう言えば……アメジアの王女殿下もお元気にしていたよ」
「は……?」
思いがけない皇帝の言葉に、レオンハルトは一瞬何を言われたのかわからなくなった。
皇帝の口から出たのは、アデルバート以上に意外な人物の名前だった。
「ローズマリー姫だよ。忘れてしまったのかい?」
「……いえ、とんでもございません。ただかの姫君とは一度しかお話したことありませんので……」
「おや。誕生祝いを贈り合う仲だと聞いているが?」
「……」
どこか楽しげに皇帝は言うが、それは少し事実と異なる。
出逢って最初のレオンハルトの誕生日にローズマリーが手紙をくれただけだ。
それにレオンハルトは何の返事も返さなかった。
返せなかった。
何を書けばいいのか、まるでわらなかったのだ。
彼女のこととなると、レオンハルトは平静でいられない。
初めて対峙した日から、彼女のことを考えない日はなかった。
どうしてあのときレオンハルトに微笑んでくれたのか。
どうして誕生日に手紙をくれたのか。
レオンハルトのことをどう思っているのか。
そんなことばかり考えてしまう。
けれどそんなときは同時にアデルバートの顔が浮かぶ。
そして思い知らされる。自らが抱く感情が、どれほど不毛なものであるかを。
「姫もこの国での暮らしに随分慣れたようだよ」
「……左様でございますか」
「来月、アデルバートとともに帝都にいらっしゃるそうだ。そのときはお相手してさしあげなさい」
「……はい」
「是」以外の答えを許さない皇帝の言葉に、レオンハルトは頷いた。
皇帝はレオンハルトの答えを聞いて美麗と言うよりほかない瞳をスッと細め、息子たる第二皇子を見据えた。
その瞳には、冷たい光が宿っている。
他者を魅了し、威圧し、恐れを抱かせる光。
あまりにも美しく圧倒的で、その光の前にはひれ伏すことしかできない。
「ところで、かの姫はいくつになられたのかな」
「……」
「あと半年で御歳十六になられます」
皇帝の問いに答えたのはレオンハルトではなく、彼の元に控えていた近侍のカーティスだった。
なぜ皇帝そんなことを訊くのかわからなかった。
ローズマリーの来国以降、皇帝は彼女の存在など微塵にも気にかけてこなかったのにどうして今更急に。
不審に思うレオンハルトの胸中など気に留めた様子もなく、皇帝は満足げに目を細める。
「そうか、十六か。
思えばレオンハルト、そなたの母が私の元へ嫁いできたのも、それくらいの齢だったか」
「……」
「懐かしいな」
「……」
レオンハルトの母、マリアンヌのことを話すときだけ、皇帝は本当に柔らかなまなざしになる。優しい声でその名を呼ぶ。
だからわかる。
城の中で飛び交う家臣や侍女たちの口さがない噂の中で、たったひとつの真実。
それは皇帝が今は亡き第二皇妃のことを今もなお愛しているということ。
わかるからこそ、わからない。
皇帝が何を考えているのか。
彼の求めるものは何なのか。
レオンハルトを、どうしたいのか。
レオンハルト心に不穏な予感を残したまま、謁見の時間は終わった。




