表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セイバートゥース ~魔を狩る牙~  作者: 夢見シン
闇夜の悪ガキ達
9/20

4

 なにも喋らず、一人でただひたすらに山の斜面を駆けていると、ふと山の中には自分しかいないのではないかと思う。風もなく、木々が揺れる音もなく、自分の心音以外なにも聞こえなくなるとそう思ってしまうことがよくあるのだ。


 短めの茶っ毛がトレードマークの小柄な少年――風真はこの音のない時間が好きだった。人里にいる時は味わえない環境だ。


 心音は穏やかに、しかしはっきりと聞き取れる程度の強さで脈打っており、自分が高揚しているのを感じる。それは微かな緊張と興奮が混ざり合ったなんとも言えない感覚で、風真はそんな自分の心理状態にはっきりと快感を覚えていた。


 空護、煉と別れてしばらく経った。標的はそろそろこちらに気付いただろうか?


 気持ちの高揚とは裏腹に、背負った背嚢から漂う臭気にはいい加減げんなりし始めている。できればこの胸の高鳴りを維持したまま接敵したい。


 大声で《森のクマさん》を熱唱したい衝動――ヒグマは来るかもしれないが、空護に聞かれたら「ド阿呆!」と叱られるのは確実なのでやらない――を持て余していると、背中から後頭部にかけて毛が逆立った。


 思考が頭を疾駆すると同時に斜面の谷側へ頭から飛び込んだ。直後、太く大きいなにかが背後の空を裂く勢いで振り抜かれた。風真は左肩から接地し、斜面に沿って前転受身をとると、右手、右膝、左爪先で滑り落ちないよう制動をかける。そしてそのまま見上げる形でさっきまで自分が立っていた場所に目をやった。


「……ようやくお出ましか」


 そこにいたのは戦車かと思える程に巨大なヒグマだった。標的に会えたという達成感と、その巨大さにやや圧倒されたのが合わさって思わず笑う。


 クマの変化を相手にしたことは何度かあるが、その全てがツキノワグマだった。


 ここまで巨大な個体にお目にかかったことは今までない。


『ヒグマとツキノワグマじゃ比べ物にならない』


 山に入る前の空護の警告が胸に染みた。今は四足で立っていて、ここから正確な体長は測りかねるが横幅は確かに比べ物にならなかった。重量感満載の体躯は今まで相手にしたクマを横に二頭並べたのかと言わんばかりで、その毛皮の内側にはそれこそ比較にならない量の筋肉が詰め込まれているのは容易に想像できた。


 そこまでの観察に一秒にも満たない間を取り、ヒグマの体全体を捉えていた視点は自ずとヒグマの前足に集約される。足一本だけで自分の体格を余裕で上回っていた。


 風真は同年代でも小柄な部類で、そんな自分を比較対象にするのはどうかと思わないでもないが、それでも異常な大きさだと分かる。


 あんなものがついさっき自分の背中を掠めたと思い出して、軽く身震いした。


 次の対応のために安定した足場に移動しようと斜面を下る。その間、決して相手から目を離さない。これはクマに遭遇した時の一般的な対処法だが、この状況では意味を成さないだろう。


 本来この方法は、前提としてクマが人間を恐れていること、人間を獲物と認識していないことが必須である。だが、目の前のヒグマは既に人間を五人も食い殺し、人間が如何に狩り易い獲物であるかを学習している。現にヒグマは下がる風真を追ってゆっくりと斜面を下って来た。背中を見せないのはあくまで咄嗟の事態を警戒してのことだ。


 斜面を下り、平らな場所に降りると両者は再び向かい合った。するとヒグマは二本足で立ち上がり、風真を見下ろす形に移行した。威嚇の体勢である。


「でけぇな、おい」


 立ち上がるとその大きさを改めて思い知らされ、そう言わずにいれなかった。


 体長は五メートルを超えているだろう。クマとしては完全に規格外の大きさだ。


 今まで目にしたツキノワグマで一番大きな個体が確か三メートル弱。


 魔精化に伴う異常な巨大化は変化の特徴で、ツキノワグマとヒグマでは元の体格に差があるので、これぐらいの違いは出て当然かも知れないが、それでも当然と受け流すにはインパクトが強い。


 風真は初めて対峙する存在に震えていた。しかし、それは恐怖からくるものとは明らかに違っていた。風真の顔は満面の笑顔で彩られていた。


 震えは武者震いともまた違い、純粋に興奮が体の内から溢れた結果だった。


 不謹慎だとは自分でも思う。空護ならこんなこと感じることすらない。煉には少なからず同じような感情はあるだろうが、それを表には出さないだろう。そのためよく二人からはこの悪癖を注意されるし、呆れられることもよくある。


 でも今、近くに二人はいない。ならばこの感情を押さえる必要はない。もちろん作戦に支障をきたす訳にはいかないが、許される範囲ならこの状況を楽しむことに風真は躊躇するつもりはなかった。改めてヒグマと視線を交わす。赤く血走った目から明らかな敵意が感じ取れた。口から洩れる唸り声は重低音の如く下腹に響く。


 風真のあまりに不遜な態度が癪に障ったのかもしれない……とは流石に考えられなかった。魔精化の際にある程度は知性の向上があるそうだが、それでも獣に人間の感情を理解できるとは思わない。それに多分、敵意は最初に襲ってきた時からあっただろう。なぜならヒグマが最初に跳びかかるのではなく、爪を振り抜いてきたからだ。


 それは獲物を捕食することが目的ではなく、敵に対する攻撃が目的だったように風真は直観した。なにより風真には自分が敵対心を持たれている理由に心当たりがある。


「お前、これが欲しいんだろ?」


 風真は背嚢の中身を取り出した。それは人間の脚部――杉林で発見した遺体の一部だった。それを見たヒグマの敵意が増したのを風真は感じた。クマの表情の違いなど見分けがつかないが、顔つきも一層険しくなった気がする。明らかに怒っていた。


 空護の言っていた異常な所有本能は本当らしく、ヒグマは風真を自分の獲物を横取りした敵として報復対象認定したようだ。


 これで作戦の第一段階はクリアされた。遺体を発見してから空護が立案した作戦がこのヒグマの所有本能を利用した囮作戦だった。


 当初、確実に釣れる保証がないことから保留になった囮作戦だが、回収した遺体を囮役に持たせれば、ヒグマの習性から高確率で釣れるだろうと空護は考えたのだ。作戦を聞いた直後は腐敗臭を漂わせた遺体を背負うことに異議を唱えたが、その必要性を強く訴えられるとNOとは言えなかった。


 実際釣れたので空護の主張は正しかった。別に疑っていないが単純に気分の問題だ。


 死体を持ち運ぶことにはかなり抵抗感があった。


 そんな苦労もあって、釣れた喜びも三割増しである。後は標的を目標地点に誘導すれば作戦終了。標的が標的なので簡単に上手くはいかないだろうが。


 ヒグマは再び四足に戻っていた。ただ、前より姿勢は低く保たれている。今までの経験から攻撃の姿勢だと分かった。目と目が合った状態で少しずつ距離を詰められる。風真は手にした遺体を背嚢に戻すと、己を鼓舞するように宣言した。


「いいぜ、来いよ! 相手になってやる‼」


 左手を突き出し、掌を上に向けて、四指を折り曲げて挑発的に手招きした。この行為を相手が理解できるかは知らないが、それが開戦の狼煙となった。


 作戦は第二段階へ移行した。



 闇夜の山林を風真は影のように駆け抜ける。

そんな自分を追う大きな影は木々を薙ぎ倒しながら猛進していた。


 大きな影――ヒグマとの壮絶な鬼ごっこが始まって一時間以上が経過していた。


 ヒグマは風真を捉えようと強靭な前足を幾度も振り続ける。


 体長五メートル、体重は優に一トンを下らないであろう巨体からは想像できない俊敏さで獲物を追い詰めようとしていた。


 だが、そんな怪物が現状たった一人の男子中学生も仕留められずにいた。振り抜く前足の爪は獲物を仕留めることなく、ただ周囲の木々を薙ぎ倒すに止まっている。


 それでも、直径が三十センチメートルを超える樹木を簡単に薙ぎ倒す様は圧巻である。人間がこれを受ければ、首が飛ぶだけでなく腰から上が千切れ飛ぶだろう。


 本来なら、全力で追って来るヒグマから逃げ続けるなど人間には不可能。しかし魔狩と呼ばれる者にはそれを可能にする術――武空術があった。


 風真は全身を練気で満たし、野生の獣すら凌駕する運動能力でヒグマの追撃を躱し続けていた。ただし、決して無害で逃げ続けているのではなく、身に着けた装束の端々にヒグマの爪が掠めたであろう痕が見て取れる。


 そんな命がけの攻防を風真は心から楽しんでいた。憎き敵を屠らんと敵意を剥き出しで迫るヒグマに対して不遜を通り越して狂っているとしか言えない精神だ。風真自身そんな自分をまともと思っていない。それでも湧き上がる衝動は抑えられず、口元が自然と緩む。


 囮役である以上、完全に振り切ってはいけない。誘導する時は適度な距離を保てと空護に教えられた。欲を言うなら目的地に来るまでに疲れさせろとも言われた。しかし、風真には別の目的があった。


 正直、遊んでいた。全力で逃げに徹すれば振り切ることはできる。かと言って逃げるだけではつまらない。誘導するという理由もあるが、今の風真にはスリルを楽しみたいという理由の方が強い。その証拠に ヒグマとの距離は違う意味で適度ではなかった。


 適度な距離とは相手を振り切らず、かつ相手の間合いの外にいることだ。なのに風真はヒグマの爪が届く距離を維持していた。


 追い詰められてはいない。はっきり言ってわざと。


 怖くない訳ではない。どちらかと言えば怖くてたまらない。でも今はその怖さすら快感だった。


「おい、どうした! もうバテたのか⁉ あんまりトロいと獲物が逃げるぞ!」


 振り向き様に挑発までやった直後、ヒグマは剛腕を振り下ろした。


 それを横っ飛びで回避すると、敵は続けてもう片方の爪を横薙ぎに振り抜く。


 風真は咄嗟に後方へ大きく跳躍して敵を見据え、目の前の光景に絶句した。


 ヒグマはまるで風真が跳躍したのを見計らったかのように跳び上がっていた。その巨体からは想像できない跳躍力に完全に盲点を突かれた。


 敵は既に凶爪を振り被っている。赤い目は間違いなく風真を見据えていた。


「やべぇっ‼」


 焦りが思わず口から出た。空中では回避ができない。先程までの余裕が一転、頭の中が真っ白になった。故にその後の行動は反射、言い換えれば本能的なものだった。


 風真は後方宙返りする形で体勢を変えた。結果、視界は完全に後方に向けられる。


 本来なら戦闘中に理由なく敵を視界から外すことはしない。しかし体が勝手に動いてしまったのだ。自分の行動に自分で混乱しかけたその時、再び目の前の光景に絶句。ただし今度はいい意味での驚きが理由だった。


 目の前に立派に育った檜があった。太い幹には枝が一本もなく天に向かって真っ直ぐ伸びている。足場として最適だった。風真は檜を足場にして三角跳びの要領でヒグマの背後へ回り込んだ。幹を蹴る瞬間、肉切り包丁のような爪が鼻先を掠めた。


 紙一重だった。あまりの鋭さに獣臭さと一緒に空気の焦げる臭いがした。


 標的を取り逃がした爪はそのまま振り下ろされ、足場にした檜を容易にへし折った。


 咄嗟のことで勢いに加減が利かず、受身に失敗して斜面を二転三転する羽目になった。


 それでも素早く体勢を立て直し、敵を視界に収める。


 図らずも接敵した時と同じ状況となったが、あの時の余裕はなく、風真は背中に流れる冷たいものに身震いした。対してヒグマの方は相変わらず敵意を向けてはいたが、さっきまでの怒り狂った感じは鳴りを潜め、こちらを冷静に観察する様が目立った。


 それを見て風真の背中に再度冷や汗が流れた。先程から頭によぎる疑念が確信に変わりかける。地面を蹴り、風真は駆け出した。


 斜面を全速力で駆け上がり、跳躍しては木を足場にして再び跳躍。更に木に跳びついてまた更に別の木に向かって跳躍を繰り返す。


 遊んでいた時と違って本気の逃げだ。今までのやり取りから容易にヒグマを振り切れる速度なのは間違いない……筈だった。


 ヒグマは風真のすぐ後ろにいた。驚きこそしなかったが、風真は舌打ちを止められなかった。疑念は完全に確信に変わった。


 手を抜かれた、油断させるために。怒り狂った演技を続け、足を遅くした追跡に単調な攻撃、機が熟したとこで決めの連携で仕留めるつもりだったのだろう。


 そして攻撃が失敗し、風真から油断が消えるとそれを見越して全力に追う方向に修正したのだ。例え変化でも獣に大した知能などないと息巻いていた風真だったが、それは考え直した方がいいようだ。そこまで思い知ると風真の中にある感情が沸々と沸き立った。


 逃げた先に平地と言っても差支えない開けた場所に辿り着いた。振り返ると少し離れてヒグマもいた。


 視界を遮るものがなにもない空間で一人と一頭が一定の距離を開けて睨み合う。山中で再び音のない時間が訪れた。静寂を破ったのは風真の怒声だ。


「舐めやがって……獲物が止まってんのになんで跳びかからねぇ? さっき追っかけ回した時も全然手ぇ出してねぇし」


 相手は答えない。当然だ。言葉など通じない。それでも気配は伝わる。そこはもう疑いようがない。先に余裕見せて舐めてかかったのは自分で、はっきり言えばこれも言いがかりだ。それでも掌で遊ばれ、挙句舐められたとあっては怒りを抑えることは不可能だった。


 抑え切れない感情は怒号となって空気を震わせた。


「上等だ! この際どっちが強いかはっきりさせてやるよ‼」


 言い切ると同時に全身から大量の《発気》がほとばしった。《発気》が肉眼でもはっきり視認できる程に周囲の空気を歪ませ、風真が戦闘態勢に移行した。明らかに作戦に支障をきたす行為だと風真も分かっていた。しかし今更引けない。


「すまねぇ空護」


 ここにはいない親友に詫びを入れる。聞いていたら了承してくれないのは分かっている。


 それでも――。


「わがまま、通させてもらうぜ!」


 吠えると同時に地面を蹴る。ヒグマもそれに応えて四足の攻撃姿勢から突進した。


 ヒグマの方はもちろん風真も今や常人を上回る脚力を有しており両者の距離はみるみる縮まった。先手を取ったのはリーチの差でヒグマだった。


 左前足を一直線に伸ばし、まるで貫手のように爪を突き出す。今までにない攻撃である。


 だが先手を取られると想定していた風真にこの程度では不意打ちにならない。


 体捌きだけで難なく躱し、相手の懐に飛び込んだ。ファーストヒットは風真にと思われたが、懐に飛び込んだ瞬間、左からの圧力――ヒグマの右の爪が迫っていた。


 風真は迷うことなく上空に跳躍する。しかしヒグマはそこにも攻め手を用意していた。跳び上がった風真の正面に彼の身の丈はあろうヒグマの頭部が大口を開けていた。


 凶悪な牙が風真を噛み砕かんと迫る。だが風真は両手を伸ばしヒグマの鼻を鷲掴むと、そのまま前転の勢いでヒグマの背後に回り込んだ。着地と同時に振り返り構える。序盤は互いに無傷、引き分けだ。そして一瞬の間を置き、攻防は次の一手へと移った。


 しかし直後のヒグマの行動は風真を大いに戸惑わせた。


 ヒグマは風真に向き合うと二本足で立ち上がった。威嚇でもするのかと思ったら続いて両の前足を大きく上段に構えた。ただでさえ巨大な体躯が輪をかけて大きく見える。


 風真はその意味を瞬時に察した。


 それはヒグマの構えであった。風真は構え直すと意を決してヒグマに向かって駆け出した。ギリギリまで引きつけて必殺の一撃を狙っていることは見て分かる。そこに、敢えて突っ込む。そんな風真にヒグマは両爪を同時に振り下ろした。それだけではない。体全体で風真を覆い尽くすように、逃げ場を完全に塞ぐように。


 そして狙い澄まして風真に両の爪を叩き付けた。しかし風真は潰されてはいなかった。攻撃のタイミングを見切り、絶妙のサイドステップでヒグマの右側面に躍り出た。


 構えた相手に正面から突っ込むなど玉砕確定であり、もちろん風真にそんな気はさらさらなかった。風真の狙いは一貫して後の先を制すること。しかしその見通しは甘かった。


 懐に入ろうとする風真にヒグマはまたしても想定外の追撃を放ったのだ。


 ヒグマは右の後ろ足を振り抜いてきた。あまりの出来事に風真も咄嗟の対応ができない。


 今までのやり取りでも不意を衝く攻めはあったが、これは想定外にも程がある。クマが後ろ足で攻撃など、踏み潰すなら納得できるが蹴りと言っても差し支えなかった。


 もう回避は間に合わない。風真は両手を正面で交差させると急制動をかけて後方に跳んだ。衝撃を緩和するため、つまり防御姿勢を取った。後ろ足の――人間で言う膝の部分が風真に叩き付けられた。爪が当たらなかったのは不幸中の幸いか。それでも走るトラックにぶつかったような衝撃だ。風真は意識が飛ぶのを必死に堪えた。


 軽く十メートルは吹き飛ばされ、木に背中から叩き付けられてようやく止まった。


 ぶつかった衝撃で木は軋み、上から落ちてきた枝やらが頭に当たった。前後の二連続の衝撃に呼吸が止まる。そして呼吸が止まると体も止まり、まるで手足への神経回路が断線したように指一つ動かない。意識は繋ぎ止めたが、それが焦りを加速させた。


 今どれだけ不味い状況か自覚できるのに体が動かない。対処ができない。ヒグマはゆっくりとこちらに迫ってくる。既に反撃できない獲物を屠らんと舌舐めずりしながら。


 ――動け! 足掻け! なんとかしろ! それでもオレの体か⁉


 回復を早めるため《練気》を全開で走らせたいが、感覚が麻痺して上手くいかない。


 この状態で練気を扱えるだけの技術が風真にはない。力任せに気力を込めてもただ体外へ垂れ流れるだけだった。ヒグマはもう眼前に迫っていた。


 死の脅威がこれだけはっきり見えるのに抗えない現状に風真は奥歯を噛み締めた。


 ヒグマは二本足で立ち上がり、再び両前足を上段に構えた。止めを刺すつもりだ。


「……くそっ! まだ死にたくねぇぞ」


 風真の未練を斟酌する訳もなく、ヒグマは爪を振り下ろそうとした。


 その時、山中に炸裂音が轟いた。


― * ― * ―


 遡ること、風真が窮地に陥る一分前。煉は風真とヒグマから一キロ程離れた断崖の頂にいた。


 せり出した岩場の上、ライフルを携えた煉は《その時》のために集中しつつ、風真の行動に対して嘆息せずにはいられなかった。


 ――ほんと、なにやってんだか。


 空護と二人で予め選定していた待ち伏せ地点で、ようやく風真の気配を感知できたので身構えていたら、いきなり気配が移動しなくなったので視認してみると、案の定ヒグマと風真が向かい合っている状況を確認できた。


 即座に風真の暴走を察知した空護は救援のため現場に急行し、煉は援護のためこうして現場を見渡せる高所で狙撃体勢に入っている次第だった。


 正直に言って、風真の暴走は作戦に織り込まれていた。前科が山程あるので二人とも風真が素直に囮に徹するとは思っていなかったが、実際やられるとやはり頭を抱えずにはいられない。


 ――助けない訳には、いかないよね。


 少なくとも、先に駆け出した空護が到着する前に事を終えねばならない。


 セミオートマチック狙撃銃《H&K PSG―1》を伏射姿勢で構える煉。


 部品数が多く、構造が複雑なため命中精度に難がある銃だが、連射能力の高いこの銃を煉は気に入っていた。


 大型の変化相手ではライフル弾でも一撃で決定打を与えられないからだ。


 煉は銃床にかける手に少し力を籠めると、銃の部品一つ一つに発気を纏う。


 そうすることで銃内部の部品稼働がスムーズになり、命中精度が底上げされる。


 それと同時に練気で腕力と肘、肩関節を強化することで射撃時のブレを極限まで低減する。


 発気を武器に纏うのは戦闘の基礎。しかし銃のように複雑な構造で、しかも目に見えない内部にまで気力を巡らすには相当な技術が必須だった。


 これは煉の卓越した気力の制御技術あってのもので、空護ですら不可能と言われていた。


 更に自身の体ごと銃を発気で覆うことで煉は完全に銃と一体になった。


 スコープは付けない。強化された煉の視力は機械の倍率を凌駕する。


 引き金を絞る。銃身、肉体共にほぼブレることなく発射された七.六二×五一ミリNATO弾は吸い込まれるようにヒグマの左肩甲骨に命中した。


 肩甲骨はクマの急所だ。ここを損傷するとクマは前足を動かせなくなる。


 続けて流れるように無駄なく狙いを変更して放たれた二射目はヒグマの右肩甲骨を貫いた。


 ターゲットは一瞬仰け反ると、立ち上がったまま両の前足を力なく垂れ下げた。


 一仕事終えた煉は弾倉から残弾を抜いて、ゆっくりと現場に向かった。急ぐ必要もなければ、もう銃を撃つこともない。自分が到着する頃には戦闘は終わっていると煉は確信していた。


― * ― * ―


 遠くで花火のような鈍い炸裂音がしたと思った直後、目の前で構えていたヒグマの両の前足が垂れ下がった。


 一瞬呆気に取られたが、即座に理解した。煉の狙撃だ。


 風真から弾丸の着弾点は見えない。恐らくヒグマの背中だろう。どこか急所を射抜いたのは間違いない。ヒグマの前足は垂れ下がったままピクリとも動かなかった。


 これ以上ないチャンスだった。接敵してから相手がここまで無防備な姿を晒したことはない。気になることも幾つか――例えばまだ目標地点に着いてないのになんで煉がいるのかとか、煉がいるなら空護もいるので、この状況をどう思っているのか、怒ってるかなとか――あったが、それよりも一発ブチ込むには今しかないという欲求が優先だった。


 呼吸が再開され手足の感覚も戻っている。その感覚を頼りに全身に練気を走らせると体は即回復した。立ち上がり構えると発気を開放、それを右拳一点に集中する。


 拳周辺の空間が激しく揺らいだ。


 逃げるのを含めて相当量の気力を消費しているが、今でもこれだけの発気を展開できる。気力の操作が下手なせいで全力を出す程に気力の消費が激しくなる。


 しかしそれでバテないくらいに膨大な気力の総量に恵まれていることが風真の強みだ。


 ――技術で煉には勝てねぇけど、持久力なら空護にだって負けねぇ!


 心の中で標的の向こうの親友兼兄弟弟子兼師匠に吼えて風真は標的を見据えた。


 ヒグマは棒立ちの的だ。しかも一足一拳の間合い、狙いを定めて標的に向かって一直線に跳び込む。


 そして跳躍の勢いをそのまま拳に乗せて、ヒグマの鳩尾に渾身の一撃を叩き込んだ。


 手応え十分、分厚い毛皮と脂肪の向こうに衝撃が伝搬するのを拳で感じた。


 ヒグマは前のめりに倒れた。


 ダメージは深く、しばらく起き上がれないだろう。と言うより前足が使えないので仮に回復してももう起き上がることは不可能だ。ようやく一矢報いた風真は満足そうにヒグマから距離を置いた。追撃はしない、ここから先は自分の仕事ではないからだ。


 今まで幾度となく繰り返した連携、呼吸は体に染みついている。無意識に空を見上げる。予想通り、空護はそこにいた。闇夜に光る金色の点が二筋の軌跡を描く。それらと並ぶように閃いた白刃の軌跡はヒグマの首に一本の線を引いた。


 一瞬の後、切り分けた絵がずれるようにヒグマの首がずれ落ち、間を置いて鮮血が夜の虚空に赤い花を咲かせた。


 終わった。人間を食らい、この地を恐怖のどん底に陥れ、先程まで風真が喜び、怒り、苦しめられた暴虐の獣は首を落とされ息絶えた。


 風真は空護に視線を向けた。ヒグマの亡骸を無表情に見下ろす様に背筋が凍る気がしたが、その金色の両眼は夜の闇に一層美しく映えた。握られた刀は牙だ。そう考えると風真には空護がどんな獲物でも屠る強靭な牙を持つ獣に見えた。


 他人はこんな空護の姿を怖れるだろうか?


 そんなことが頭をよぎる内、空護と視線が合った。途端に無表情だった顔に笑みが宿る。


「お疲れさん」


 笑顔でそんなことを言われた。


「そっちこそ、見事なお手前でした」


 あまりの変わりようが可笑しくて、こっちも笑って返した。


 付き合い出して二年になる親友の二面性には未だ慣れない。


 それに対して怖れではなく興味深さと面白さを感じる自分はやはりどこかズレていると自覚しつつ、風真は空護と遅れて合流した煉の三人で成果を喜び合った。



「うわ、近くで見るとホント大きいね」


 肩に狙撃銃を担いで煉は驚嘆していた。


 仕留めた標的を見て空護もでかいと思った。ここまでの大物は珍しい。煉と風真にとっては間違いなく最大級だろう。つまり三人でチームを組んでから最大の獲物ということ。


 空護は改めて二人を見た。煉はまだ驚き顔のままで、風真はやたら上機嫌だ。


 結果も重畳だが、そこに至る経緯も悪くない。これだけの変化を相手にスムーズに連携できたのは日頃の修練の賜物だ。


 組んだばかりの頃は狙撃の合図も引き際の指示も全て空護が行っていた。しかし今回は二人ともそれを自分の判断でやってのけたのだ。労いの言葉は自然と口から出た。


「相変わらず正確な狙撃だな煉。風真も、お前打ち合わせもないのによく俺が斬りかかるの分かったな」

「標的が止まってたからね。距離さえクリアすれば問題ないよ」

「毎度お馴染みだしな。あれぐらいは阿吽の呼吸でやってみせるさ」


 控えめな煉に対して風真は当然とばかりに得意気だ。


 三人で修練や仕事をする内に自然とその役割は決まっていた。煉の役目は射撃を用いた後方支援。風真の役目は身のこなしを利用した敵の足止め。止め役は空護の役目だった。


 格闘に長けてない煉はともかく、同じ距離で戦える空護と風真で役割分担がされている理由は、攻撃手段が打撃の風真では大型の変化の息の根を一撃で止めることはできないからだ。変化を狩るのに最も確実な方法は頭部の破壊。急所を外れたダメージは時間が経つと回復してしまうし、内臓――場合によっては心臓への攻撃も致命傷にならない。


 故に一太刀で首を切り落とせる空護の斬撃に一番殺傷力があるのだ。風真には一撃で頭を潰すことはできなかった。風真もそれをよく分かっており、狙撃後に躊躇なくヒグマの腹部を攻撃したのも自分の役目をしっかり自覚しているからだった。


 しかし問題点もあった。


「風真、なんで目標地点に到着してないのに僕が援護射撃したか、理由知りたくない?」


 煉の問いにさっきまでご機嫌だった風真の顔が引き攣った。


「いや……別に……いいよ、言わなくても」


 言動がたどたどしい上に口調もおかしい。理由を聞けば地雷を踏むとよく分かっている。それは風真自身、なにが問題行動なのか理解できているということで、つまり確信犯でやらかしたということだ。


「いやいや遠慮するな。お前には当然の疑問だ。懇切丁寧に教えてやるよ。その代わり、俺もお前に聞きたいことがあるんだけど」


 よって手心を加える必要なし。褒めるべきは褒めたので締めるべきは締める。


「風真……お前、遊んだろ?」

「………………」


 沈黙は肯定。つまりは有罪確定である。


「お前なぁ、あんだけ派手に木薙ぎ倒しながら逃げてりゃヒグマとお前がどこにいるかなんて一発で分かんだよ! それがいきなり静かになったらなんかあったって思うに決まってんだろうが! それで様子見に行ったらお前らが構えて向かい合ってる場面に出くわして、その時点でお前が暴走してるのバレバレなんだよ‼」


 まさかバレないとでも思ったのかと怒鳴りつけると、風真はヒィッと縮こまった。


「その、悪いマジで! あまりに手応えがあるって言うか、強敵だったもんで、つい……」

「尚更危ねぇだろうが! 煉が援護してくれなかったらどうなってたと思う⁉」


 空護の叱責に風真は再び黙る。すると隣から煉が極上の笑顔で容赦ない追撃を浴びせた。


「大上段に構えたヒグマに風真が突っ込んだ時は肝が冷えたよ。すぐ狙撃体勢に入ったね。おかげで寿命が縮んだ気がするんだけど、どうしてくれるのかな?」


 口調が穏やかになると怖さが増すのは煉の特殊技能だ。風真の顔色は青いのを通り越して緑色に見えた。


「すまん! ホント悪かった!」


 手を合わせて頭を下げる風真を見て煉も追い打ちをする気はなくなったらしい。空護にとっても畳み時だ。


「次からやるなよ。これからお前には囮役を頼むこと増えると思うから、その度に遊ばれたら敵わねぇ。まぁ真面目にやればお前は優秀な囮だよ」


 今回の仕事で風真の囮としての能力が高いことはよく分かった。今後、作戦の幅が広がるのは確かで、そのことを言い含めると風真は嬉しそうに引き受けた。


「任せろ! 次はもっと上手くやってみせるぜ!」

「褒められると調子いいんだから」


 風真のお調子者ぶりに煉は呆れ気味だ。


「そんじゃ、反省会はここまでだ。こいつを村まで運ばにゃならんしな」


《こいつ》と言って指を向けているのはヒグマの亡骸だ。目標を狩ったことを証明するために死体を依頼主に確認させなければならない。当然、三人では無理。


「源さん達に来てもらおう。場所はマッピングしてあるから教えられるよ」

「オレから連絡しとくわ」


 そう言うと煉から地図を受け取り、風真はスマートフォンを取り出した。繫がることは山に入った段階で確認済みだ。地図を渡すと煉は狙撃銃を片付ける。風真は電話が繫がったらしく少しでも電波が届くように木に登って話し中だが、木にしがみ付いているせいで地図が見辛そうだ。仕方ないので空護が手伝おうとした時、煉に呼び止められた。


「……空護」


 見ると煉は地面に片手を置いている。読心術を行使していた。傍には分解したままの狙撃銃がある。


「人間の思念を感じる。ちょっと遠いけど」


 似たようなことが数時間前にあった。自ずと記憶が呼び起される。


「ヒグマの……備蓄食料かな」


 煉なりに言葉を選んだのだろう。食い残しより遥かにマシだった。


「だったら回収しないとな。全部は無理でも確認できる分は村に持って帰ってやりたいし。風真! 降りて来い!」

「あ、待って! ……じゃあ源さん、今言った所にヒグマの死体があるから――」


 電話の向こうにいる源一郎に現在地を知らせて風真は降りて来た。煉の方を見ると既に銃を片付けて出発の準備を終えていた。


「行こうか。こっちだよ」


 煉に先導されて目的地を目指す。遺体の回収と聞いた風真は少し気分が悪そうだ。


「遺体を背負ったのがそんなに堪えたか?」

「うっせ! 思い出さすな!」


 風真に噛み付かれながら煉の後を追った。思念の痕跡はかなり色濃く残っているらしく煉の足は速い。思ったより早く目的地に着きそうだったが、近付く程に当初の推測が外れていると気付かされた。


「煉、風真」


 目標まで僅かの地点で空護は二人を呼び止めた。事態を察していた二人は無言で頷くと魔狩の覆面を被り直した。それを確認した空護も覆面を被り外套を羽織った。


 煉が指定した場所に近付くと他の二人にも目標の気配を感知できた。読心術士でないのに感知できるのは目標が生きている証拠だ。


 更に言えば、目標から感じる気配は人間一人分であること、そして反応が弱いことから衰弱していると推察された。


 最初は村人が勝手に山に入ったのではと(主に風真が)疑ったが、可能性としてヒグマに襲われた村人が生きていることも考えられた。


 どちらにせよ気配が弱まっている以上急いで救助せねばならず、三人は風の如く山中を駆けた。そして辿り着いた場所で見た光景は三人を大いに戸惑わせた。



 辿り着いたのは近くに川が流れる平地で、落ち葉や小枝を取り除いた直径三メートル程の空き地が整備され、空き地の端にはテントが設置してあった。明らかに人間の手で作られた野営地だった。


 こうなると襲われた村人の可能性は消えるが、村人が勝手に山に入った可能性も少ない。野営地は今日作られた物ではなく、確実に自分達より前に山に入った者の仕業だ。


「オレ達より先にヒグマ狩りに行った村人が作ってそのままになってて、そこにハイカーがいるとか? でもだったら一人だけそこに残ってる理由は?」

「怪我して動けないのかも。それなら気配が弱いのも納得できる」


 煉の推理に一番説得力がある。中に誰がいるか分からないので念には念を入れて、空護は二人を少し離れた場所に待機させて一人でテントに近付いた。


「誰かいるのか?」


 返事はない。そのことを身振りで二人に知らせて、空護はテントの入口に手をかけた。


 警戒心を高め、開いた入口の先にいたのは――。


「すぅ~~~~、すぅ~~~~」


 寝袋の中で寝息を立てる女の子だった。


 空護は混乱した。珍しく完全に。目の前の光景を説明する材料を頭から引っ張り出そうとしてもなにも出てこなかった。


 中に入って顔を覗き込むと顔つきから自分と同年代と分かる。殊更に混乱した。


「どういう状況だ? これ……」


 なにがあれば自分と同年代の女の子がヒグマのいる山の中でキャンプしてしかも平然と寝てられるのか教えて欲しい。空護は腹の底から懇願した。すると、


「う……ん」


 眠る少女の気配が変わった。思わずギョッとしたが体が動かない。あまりに想定外のことが連続したせいで思考回路が上手く回らない。


 そんな風にあたふたしていると、少女は目を覚まし、上半身を起こし、そしてこちらに目を向けた。目が合った。


 時が止まった。周囲から音が消え、自分の心音しか聞こえない。そんな時間がしばらく続いた。沈黙を破ったのは少女だった。


「…………おはよう」


 それに対する空護の返事はこうだ。


「…………おはようございます」


 この時、どうしていいかわからない状況では人間は敬語になると空護は初めて知った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ