圧倒的な力
「グルルル……ァァァァッ!!」
激しい咆哮を挙げた海神は、自身等を囲う黒い雲を見据えていた。
三メートルを優に越したその巨体が震えているのを、エーテルは見逃していない。
「この魔法力。やっぱり、最初に見えた時のものに似ている……!」
エーテルが思い出していたのは、四歳の頃初めてアランと出会った時だった。
あの時感じた特異者の香りは、幼いエーテルをもってしても異質だと理解できていたからだ。
――でも……っ!
任務を受注している手前、エーテルには「退く」という選択肢は皆無に等しかった。
「この国の未来を背負う者として……! 悪に屈するわけには行かないわ! 海神!」
エーテルが叫ぶと同時に、その後ろに付いている海神の瞳は鈍く光った。
「……ここの辺りだな」
アランの物言いの間にも海神は鋭い牙に自身の膨大量の魔法力を注力し始める。
「俺はここにいる」
「海神! アラン・ノエルを殺さない程度に! 海神砲!!」
「ヴァァッ!!」
海神が、口を大きく開けて膨大な魔法力を込めた砲撃をアランにぶつけようとしたその瞬間だった。
「――そこ、落ちるぞ」
アランの背後で、何もなかった場所の土が突如隆起し始める。
「ボンッ」と、周りの土を跳ね上げて噴出していくのは多量の水だった。
溢れんばかりの水が、重力を失ったかのように自由に上空へと吹き上がっていく。
「……っ!?」
「ボン」「ボンッ」と至る所で同じ現象が見られ始めるのを見たエーテルがギリと歯を食いしばった。
「な……! あなた、地下水を掘り当てたって言うの!?」
それは、エーテルでさえも成し遂げられていないことだった。
大地の底には、地下水脈と呼ばれる水が溜まる所がある。
だがそれを掘り当てるには根気強い地質調査が必要とされている。
現に、エーテルも以前『神の子』と呼ばれていた時代に、ドローレンの依頼に向かったエーテルを待っていたのは、長年降っていなかった雨であった。
そうはあってもおめおめと引き返せないエーテルは地下水脈を掘り起こそうとした。
だが、どうやっても地下水脈など掘り当てることなど出来ない。
結局、エーテルは何もせずに、村人から礼だけを言われて帰る屈辱を喫している。
それがエーテルが最初に受けた任務であり、唯一失敗した任務でもあった。
「……ふざけないでよッ!」
海神の口に魔法力が集約していく中でも、整然と地下水脈を掘り当てたアランに向かってエーテルは右手を大きく振った。
その合図をきっかけに、海神ははっきりとアランの姿を見据えて、首を大きく振りかぶった。
「だから、落ちるんだよ。――地盤沈下」
瞬間、エーテルの視界が一気にグラついた。
「ガアアッゥッ!?」
地面に体重を思いっきり任せて首を振っていた海神でさえも、何が起きているのか分かってはいない。
アランの宣言の直後。地面は、まるで氷の湖に小石を落としたかのように儚く割れていく。
「――な……っ!」
自分が立っていた大地が沈んでいく。それに伴い、そこにいたエーテルと海神は体重を支える大地がなくなったがために大地と一緒に沈んでいった。
「――ァッ!」
そこまで地盤が沈下しなかったために一メートルほどしか落ちなかった一頭と一人。
運よく海神の柔らかい腹の上に落ちたエーテルだったが、海神は集めていた魔法力をそのままにしておくわけにはいかず、放った膨大な魔法力は出来た穴から上空へと一閃を作り出している。
「くっ……! 私が出来なかったことを……そんなにも簡単にされちゃ……敵わないわ……っ!」
海神の腹を踏み台に、何とか地上までに上がってきたエーテルだった。その手にはいまだ、アランの剣が握られている。
――地下水脈を操作したのね……。
エーテルは、起き上がれていない穴の中の海神の側に横たわった少数の水を見て感じ取った。
その水には、アランの形質に似た魔法力が感知されていた。
――地下水脈を強引に動かし、背後に集めた……。抑えきれなくなった地下水脈は彼の背後で爆発四散。私たちの立っていた場所には安定性を図る水がなくなったことにより地盤沈下が起きた……!
「――後ろの、邪魔だな」
ふと、アランが冷たい声音で言い放った。
直後、エーテルの後ろで「ゴシャッ」と鈍く、激しい轟音が響き渡った。
次いでプスプスとした焦げ臭いものが鼻腔を付いた。ふと後ろを見てみると、魔法力で練り上げた意思を持った海神の身体は黒く焼け焦げている。細かな蒼い粒子を上げて霧散していくその姿は、自然界で蹂躙された者そのものだった。
あまりの蹂躙の具合に、エーテルはへたりとその場で座り込んでしまっていた。
地面に染み込んだ水がぴちゃりとエーテルの足を伝う。
海神の少し上空では空気が震えているかのような熱量と、微力な金色の光の残り香を感じて獲れる。
「……落雷。これで君のペットはもう使えない。もう魔法力もそんなに残ってないはずだ。大人しく、その剣を――」
そう言って、アランは言葉の続きを中断していた。
「ふ……っざけないでよ……っ!」
剣を杖代わりにしながらも、エーテルは立ち上がった。
「この国の未来を背負う者として、あなたのような人を見逃すわけには……いかないの……っ!」
もはや、エーテル・ミハイルのプライドはズタズタに引き裂かれていた。
いくら実践しようとしてみても、地下水脈を掘り起こそうなどということは全くできなかった。
彼女に相対する者は今まですべてが無力だった。
海属性に対する絶対的な恐怖。そして海神を見た際の畏怖。
全ての勝負が彼女のためにあるようなものだと思っていた。
だが、彼女の前にいる少年は全く違う。
海属性に対する畏怖など微塵も感じていない。
海神に臆することなく、躊躇することなくとどめを刺した。
海神がやられることなど、考えたこともなかった。
エーテル・ミハイルというこの国の未来を背負う者が負けるなどと、微塵も思ったことがなかった。
「任務遂行のために、あなたを見逃すわけには……いかない……っ!」
怖かった。
負けることが怖かった。
完膚なきまで叩きのめされるという恐怖。
絶対的な自分への、自分からの評価が覆る気がした。
自分がいくら本気を出しても、目の前の化け物に手が届くことはないと、証明される気がした。
それは、自らが初めて感じるであろう敗北の味を、既に深く味わい始めたからだ。
「う、海属性魔法……! 喰らいなさい……っ!」
エーテルは、自らの両手に自身が持てるありったけの魔法力を注入した。
「――大津波!!」
エーテルの両手から放たれたのは、彼女を大きく凌ぐ海の猛威。
まるでスラムのアステラル街を全て飲み込むかのようなその大量の水は、アランの生死など度外視したものだった。
そんな彼女の元に聞こえてきたのは、一つの小さな声だった。
「天属性」
「――天変地異」




