敗北の味
海属性、大津波を放ったエーテルには、もう魔法力など微塵も残っていなかった。
身体を伝わるのは確かな脱力感だった。
身体はもはや言うことを聞かない。エーテルはひんやりとした氷の大地に座り込むしかなかった。
そんな彼女の眼前には、大津波の水の勢いなどないに等しかった。
まるで、時が止まっているかのようにその大波を飲み込んだのは巨大な氷だ。
津波によって出来た様々な水の粒同士が凝結し、巨大な氷像を作り上げている。
それはさながら一種の芸術品のようだった。
そんなひんやりとした空気が漂うのは、アランとエーテルの間だけではない。
アステラル街の半分以上がアランの放った天属性魔法で時を止めたかのように氷に包まれている。
木々も、古びた家々も、ゴミも、木々に止まっていた鳥さえもが氷になって固まっている。
そこに生命の感じられるものは何もない。
それはさながら――天変地異そのものだった。
幸い、彼等の騒動を聞きつけたらしいアステラル街の人々は離れるように遠ざかっていたために、人には影響がそれほど及んでいないようだった。
「……殺しなさい」
エーテルは、持っていた直剣を前に差し出した。
「……何言ってんだよ」
アランは苦笑いを浮かべた状況で、右手で頭を押さえながらエーテルに近付いた。
「私にとっては死んだも同然よ。むしろ、いっそ殺して欲しいくらいだわ」
自らの持てる最大の魔法力を駆使しての大津波。
氷で深くまで固められたその莫大な水は、今も徐々に波の中心に向けて氷化の亀裂を走らせている。
「季節外れの瞬間的な大寒波……。私の放った魔法の中はどれだけの温度になっているのかしらね……」
「……返してもらうぞ」
「それが漏れ出てアステラル街一帯も巻き添えを喰らったってところかしら。ねぇ、アラン・ノエル」
エーテルの瞳には、気力が灯らずにいた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
自分を敗北に至らしめたその人物に。
悔しさと無力感で押しつぶされそうになった感情が涙と変わり、頬を伝う。
それは、屈辱的だった。今までに味わったことのない敗北の味は、塩辛いものだった。
「どうやって発動したのよ、あんな魔法。私には、ここまで大きな魔法は打てない……」
エーテル・ミハイルは『神童』と呼ばれている。
周りから常にもてはやされ、十五歳からという規則の例外を取り、九歳の頃から任務を受けて研鑽を積んできた。
その成果もあって、今では「指名」任務まで受けられるほどの人物にはなった。
敵などいないと思っていた。自分こそが「この国の未来を背負う者としてふさわしい」と心の底から信じ切っていた。
任務での失敗は今まででたった一つ。
四歳の頃の初めての任務失敗ではアランが関与していた。
そして今回の任務失敗で二つ目になってしまった。
そして、今回二回目の任務失敗でもアランが関与している。
――私は、バカだ。
今まで見てきた世界がとてつもなく狭いように感じた。
そして同時に、とてつもない世界にぶつかったように感じた。
そこにあるのは圧倒的なまでの巨大な壁だ。
越えられない、途方もなく巨大な壁が突如現れた気がした。
「……分からない」
エーテルの疑問に、アランは父から譲り受けた直剣を拾い上げる。
アランの言葉に、エーテルは密かに眉を顰めていた。
「分からない? あんな魔法、私は見たことなかった。あなたの中で、何かが変わった」
「本当に、分からないんだ。気付いたら身体と頭が勝手に動いてた。気付いたら流れるように魔法力を使ってた。何であんな魔法が撃てたのかとか……本当に、何も分からないんだ。ただその間はずっと頭が痛かった……」
「……頭が痛い? なによそれ、バカにしてるの?」
「してない。頭の片隅で、何かが暴れてるような……そんな感覚だよ」
アランのその意味深な物言いに、自らの完全敗北を認めたエーテルが震える足に鞭を打って立ち上がった。
それが今のエーテルに張れる最大の見栄だった。
「もう私に出来ることはないわ。逃げたければ逃げればいい」
聞く耳を一切持たないエーテルは、俯いたままだった。
「だから何で逃げるんだよ」
「……馬鹿みたい……」
エーテルは、自らのポケットから円型上の装置を取り出した。
「これ、発信機なの。今回の依頼はマダム・ミスラ様。今朝王都通りを歩いていたら、スリにあった。深いローブを被った男っていう情報。奪われたのは彼女が大事にしていた宝石。それを夫から預かってた結婚指輪の宝石と交換しようとしたらしいわ。夫の動向が気になるマダムが、宝石に魔法力を注入して、いつでもどこでも夫の位置を分かるようにした宝石を今回奪われたってことなの」
「ってことは、夫追跡機の役割であったそれで宝石の居場所が分かるってことか?」
エーテルは忌々しそうにうなずいて、魔法力を切らして疲弊しきった腕で発信機をアランに見せつけた。
「この発信機。その縮尺は最大。ここの現在地が私、そしてその近くにその宝石反応が出てるの」
再びそれを懐に入れたエーテルは、「……情けないわ」と呟いた。
アランは首を傾げながら体をまさぐる。
「……ん? いつの間に……?」
アランが取り出した手の上には、エメラルドブルーに輝く石が乗せられている。
「い、嫌がらせかしら……!? いいじゃない、そのまま持ち返れば! 敗者に人権なんて――」
「ん? これ返せばいいのか? ほら」
「……はい?」
「いや、別に俺こんなのに用ないし……っつーか、最初っから聞く耳持たなかったのお前だろ!? いや、何であったかは……そりゃ、あれだけど話聞けっていってただろ!」
「……え? い、いや……で、でも、やっぱり、宝石持ってるって! あれ……? あれぇ? ローブした男……スリ……あれ?」
「俺はスッてもいない! 宝石盗んでもない! ただ気付いたらここにぶっ飛んできただけだ! それを何も聞かずに襲ってきたのはそっちだろ!」
「で、でも! えっと……えぇ!? なにがどうなってるのよ、もう!」
頭の中が混乱しているエーテルだったが、アランは前方遠いところで、こげ茶色のナニカがゆらゆらと揺らめいているのが見えていた。
その色は、アランがつい数刻前に見た色だった。その色を見た時の出来事を脳裏に思い浮かべてみる。
――っと……すいません。
――こちらも不注意ですからのう、お互い様ですわい。
それは、こげ茶の古びたローブを被った一人の老人だった。
「……まさか、な」
「ちょ、どこ行くつもり!?」
疑問の残っているアランは、持っていた宝石をポンとエーテルに渡した後に、呆ける少女を余所にひらひらと揺らめく茶色い布のようなものに近づいていった。
後ろの氷化した大津波からはぽたり、ぽたりと氷が解け始めて水が地面に溜まっていく。
だが、アランとエーテル付近の地面は未だ氷で固まったままだ。
そんな異常に凍った大地を足を滑らせながらアランが向かうと――。
「ふんぬぬぬぬぬ……! ぬぬぬぬぬん! ふんがぬぬぬぬ……!」
辺り一面を凍らせたせいでアステラル一帯も凍結しているがために、茶色いローブの先が大地に固定され、履いていた靴が足首まで氷に固められ、両手を地面に着いているがためにここも氷に固められて何も身動きが取れていない一人の老人が居た。
「つ、冷たい……! 仕事道具が使えんのじゃ! そこの御仁、何とかして下さらんか! もうあんな化け物共の争いなどに巻き込まれるのは願い下げじゃ!」
そんなローブを被った老人の側にいったアラン。
四つん這いになったその老人に、アランは「ゴホン」と咳払いをした後に裏声で告げた。
「お爺さん、また誰かからスッてきたの?」
「その声は、マリアかの! っふぃっふぃっふぃ……! すまんのう、宝石を盗むまでは良かったんじゃ。じゃが、追って来る相手が悪かったようじゃ! クソガキに擦り付けてやったわい……! あのエーテル・ミハイルは大地を凍らせる魔法さえも持っている。逃げてきて正解じゃったの! ほれ、早く――」
全てを言い終わる前に、アランは老人の頭に被せられていたローブをそっと取ってやった。
「助け――…………」
次の言葉を紡ごうとしたその瞬間、老人の顔がさっと青くなった。
にこり、と笑みを浮かべたアランと、対照的にしわがれた頬をピクピクと動かす老人。
「ドロボー!」
「ぬがあああああああ!」
アランの脳天チョップ一撃で、宝石スリ事件の犯人は氷の大地に沈んだのだった――。




