第三話 じいちゃん、令和にキレる
「誰がじいちゃんだ、バカヤロウ」
渋谷の路地に、その声が妙に大きく響いた。
その「バカヤロウ」の言い方まで、生前のおじいちゃんに似ていたせいで、僕はしばらく何も言えなかった。
目の前にいるのは、どう見ても二十歳くらいの男だ。
ロン毛。
フレアパンツ。
古びたバンのジャケット。
火のついていない煙草を口の端にくわえた、時代錯誤という言葉が人間の形をして歩いているみたいな男。
それなのに。
名前は、石川ヨシオ。
亡くなった僕の祖父と、同じ名前だった。
「アオ」
ハルカが、僕の顔をのぞきこんだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫ではない」
「だよね」
ハルカは、なぜか少し楽しそうだった。
この状況を楽しめる人間は、たぶん世界でもかなり少ない。少なくとも僕は無理だった。心臓は変な速さで鳴っているし、頭の中では「ありえない」と「でも似ている」が取っ組み合いをしている。
ロン毛の男――ヨシオは、僕たちの動揺などまったく気にしていない様子で、渋谷の街をきょろきょろと見回していた。
「しかし、妙な渋谷だな。看板は光りすぎだし、車は丸っこいし、若いやつらはみんな薄いテレビを見て歩いてる」
「スマホです」
「だから、すまほって何なんだ」
「携帯電話です」
「電話が板になるかよ」
この会話、たぶん今日だけで何回もすることになる。
僕は早くも疲れていた。
「とりあえず」
ハルカが手を叩いた。
「どこか入ろう。ここで話してても目立つし」
「賛成」
僕は即答した。
というより、このまま路地にいると、またこの人が誰かに絡みそうで怖かった。
「喫茶店か?」
ヨシオが、急に少し姿勢を正した。
「それならいい。ハルカさんとお茶でも」
「僕もいますけど」
「お前は水でいいだろ。青白いし」
「水分で顔色は決まりません」
ハルカが口元を押さえて笑った。
「じゃあ、近くのスタバ行こ」
「すたば?」
「喫茶店みたいなところです」
「喫茶店か。なら早くそう言え」
ヨシオは妙に納得した顔でうなずいた。
たぶん、納得するのは早すぎる。
*
数分後。
ヨシオはスタバの入口で固まっていた。
「……ここが喫茶店?」
「はい」
「喫茶店ってのは、もっと暗くて、煙草くさくて、隅で学生がくだらねえ議論をしてる場所だろ」
「偏見がすごい」
「誰も煙草吸ってねえじゃねえか」
「今は基本、吸えないです」
ヨシオの眉間に、深いしわが寄った。
「喫茶店なのに?」
「はい」
「じゃあ、何をする場所なんだ」
「コーヒーを飲む場所です」
「本来の目的すぎて腹が立つ」
もう帰りたい。
入店して十秒で、僕はそう思った。
店内は夕方の学生や会社員で混んでいた。ほとんどの人がスマホかノートパソコンを見ている。話している人もいるけれど、声は小さい。ヨシオが想像しているような、煙と議論でいっぱいの喫茶店とは、たぶん真逆だった。
ヨシオは列に並びながら、あちこちを見ている。
その目が、ふいに一点で止まった。
少し離れたところで、若い男がスマホを見ながら立っている。注文カウンターには行かず、画面を操作しているだけだ。
「おい、青白いの」
「名前で呼んでもらっていいですか」
「あいつ、何してる」
「たぶんモバイルオーダーです」
「もばいるおーだー?」
「スマホで先に注文するんです」
「なんで店員がそこにいるのに、板に頼んでるんだ」
「便利だからです」
「口があるだろ」
「ありますけど」
「店員が目の前にいるのに、板に頼むな。人間が退化するぞ」
「いま、全国の便利サービスにケンカ売りましたよ」
ヨシオは本気で不服そうだった。
やっぱりこの人、現代に向いていない。
順番が来ると、ヨシオは腕を組んでメニューを見上げた。
「この……きゃらめる、まき……なんだこれは」
「キャラメルマキアートです」
「呪文か?」
「飲み物です」
「飲み物にしては名前が長すぎる」
店員さんが、営業用の完璧な笑顔で待っている。
ヨシオはさらにメニューをにらんだ。
「どりっぷ、こーひー……これはわかる。こいつでいい」
「サイズはどうなさいますか?」
店員さんが聞いた。
ヨシオは固まった。
「さいず?」
「ショート、トール、グランデ、ベンティがございます」
ヨシオは僕を見た。
目が「助けろ」と言っていた。
でも、なんとなく助けたくなかった。
「どうします?」
「……普通で」
店員さんの笑顔が、わずかに揺れた。
「普通、ですと」
「普通の大きさだ」
「ええと、トールでよろしいですか?」
「とおる? 誰だ」
「サイズです」
「人の名前みたいな大きさだな」
僕は額を押さえた。
後ろに並んでいる人たちの視線が痛い。
その時、ハルカがすっと前に出た。
「すみません。ドリップコーヒーのトールを一つと、抹茶クリームフラペチーノを一つと、アイスラテを一つでお願いします」
「かしこまりました」
ハルカは慣れた手つきで注文を終えた。
ヨシオは、感心したようにハルカを見ている。
「ハルカさん、すみません。お手数をおかけします」
「全然です」
「お前は何をしてる。荷物くらい持て、青白いの」
「扱いの差がすごい」
僕は結局、トレーを持たされた。
*
なんとか席を確保して、僕たちは窓際のテーブルに座った。
外では渋谷の人波が流れている。誰もが何かを見ていて、誰もがどこかへ急いでいる。さっきまでの僕なら、それだけで少し疲れていた。
でも今は、疲れる理由が隣に座っている。
ヨシオは、テーブルに置かれたフラペチーノをじっと見ていた。
透明なカップの中で、抹茶色の飲み物とクリームが層になっている。
「何だ、それ」
「フラペチーノです」
ハルカが答える。
「パフェじゃねえか」
「飲み物です」
「パフェを飲むな」
「ヨシオさんも飲んでみます?」
「俺はコーヒーでいい」
そう言いながら、ヨシオの視線は完全にフラペチーノへ向いていた。
ハルカは笑って、ストローを差したカップを少しヨシオの方へ寄せる。
「一口だけ」
「……ハルカさんがそこまで言うなら」
「別にそこまで言ってないです」
ヨシオは恐る恐るストローに口をつけた。
そして、一口飲んだ。
固まった。
「……」
「どうですか?」
ハルカが聞く。
「甘い」
「嫌いですか?」
「……甘い」
「気に入ってますよね?」
僕が言うと、ヨシオはすぐに僕をにらんだ。
「パフェだ」
「飲み物です」
「これはパフェだ。俺は喫茶店でパフェを飲まされている」
「飲んだのは自分の意思ですよ」
「検証だ」
「何の検証ですか」
ヨシオは返事をせず、もう一口飲んだ。
明らかに気に入っている。
「めちゃくちゃ飲んでるじゃないですか」
「うるせえ、青白いの」
「青白いのって呼び方、固定なんですか」
ハルカは笑いすぎて、肩を震わせていた。
僕は少しだけ気が抜けた。
さっきまで、この人が本当に祖父かもしれないという事実に押しつぶされそうだった。けれど、目の前でフラペチーノを「パフェだ」と言い張っている姿を見ると、怖いというより、面倒くさいという気持ちの方が勝ってくる。
たぶん、それでいい。
怖がっていたら、話が進まない。
「それで」
僕は姿勢を正した。
「あなたは、本当に三田の大学生なんですか」
「何度も言わせるな。石川ヨシオ。法学部二年。二十歳だ」
「昭和から来たってことですか」
「来たも何も、今も昭和だろうが」
「そこからなんですよね」
僕はスマホを取り出して、画面を見せた。
「今は令和です。二〇二六年」
ヨシオは画面をのぞきこんだ。
そして鼻で笑った。
「馬鹿言え」
「本当です」
「こんな薄い板に書いてある数字を信じるほど、俺は素直じゃねえ」
「疑い方が健全すぎる」
ハルカも自分のスマホを出し、ニュースアプリやカレンダーを見せる。
「ヨシオさん、本当に今は令和なんです」
ヨシオはハルカの顔を見た。
それから、スマホの画面を見た。
「……ハルカさんがそうおっしゃるなら、まあ、可能性としては考えます」
「僕が言った時は?」
「お前は顔が頼りない」
「顔で信用を失うの、つらいです」
ヨシオはコーヒーを飲み、顔をしかめた。
「高いわりに、量が少ねえ」
「それは僕もちょっと思います」
「そこは同意するのか」
「はい」
「お前、少しだけ見込みがあるな」
「コーヒーの量で評価された」
少しだけ、空気がゆるんだ。
その時、ハルカがさりげなく聞いた。
「ヨシオさん」
「はい」
ハルカに呼ばれると、ヨシオは急に丁寧になる。
「さっき私を見て、まゆみって言いましたよね?」
ヨシオの手が止まった。
それまでフラペチーノのカップに伸びかけていた指が、空中で固まる。
「……言いましたか」
「言いました」
「聞き間違いじゃないですか」
「けっこうはっきり」
ヨシオは気まずそうに視線を落とした。
普段の声の大きさが嘘みたいに、急に小さくなる。
「俺の知ってる女に、似てたんです」
「その人、好きな人ですか?」
ハルカはまっすぐ聞いた。
僕なら絶対に聞けない。
こういうところが、ハルカは強い。
ヨシオはストローの先を見つめながら、ぼそっと言った。
「まあ……そういうことになる」
その瞬間、僕の胸の奥が少し変な感じになった。
目の前の男は、たぶん祖父だ。
でも、僕の知っている祖父ではない。
僕に「おまえは優しい子だから」と言ってくれた老人ではなく、誰かを好きになって、照れて、強がって、うまく話せないまま一日を過ごしている、ただの大学生だった。
おじいちゃんにも、こんな時間があったのか。
そんな当たり前のことを、僕は今までちゃんと考えたことがなかった。
「まゆみさんって、どんな人なんですか?」
ハルカが聞いた。
ヨシオは少しだけ口元をゆるめた。
「誰にでも、同じように話す人です。偉そうなやつにも、暗いやつにも、俺みたいな面倒くさい男にも」
「いい人ですね」
「……ええ」
ヨシオはハルカを見た。
その目が、少しだけ遠くを見ているようで、僕は何も言えなかった。
*
結局、ヨシオは未来に来たという話を最後まで認めなかった。
「三田に行けばわかる」
スタバを出るなり、ヨシオはそう言った。
「俺の仲間がいる。サトウもいる。教授もいる。まゆみさんも……たぶんいる」
僕は思わずつぶやいた。
「いや、たぶん全員もうおじいちゃんです」
「勝手に老けさせるな」
「でも、事実として」
「事実かどうかは、三田に行けばわかる」
ハルカがうなずいた。
「でも、大学なら何かわかるかも。古い資料とか、記録とかあるかもしれないし」
「この人を大学に連れていくんですか?」
「いいじゃん。面白そう」
「その理由が一番怖い」
ヨシオは胸を張った。
「よし。三田に行くぞ」
「なんであなたが仕切るんですか」
「三田は俺の庭だ」
「たぶんもう庭じゃないです」
僕の嫌な予感は、だいたい当たる。
そしてこの日も、きっちり当たった。
*
渋谷駅に着いた時点で、ヨシオはもう止まった。
自動改札の前で、完全に固まっている。
「切符はだれに渡せばいいんだ? カチカチしてる駅員がいないじゃねぇか」
「カチカチしてる駅員?」
「改札鋏だよ。知らねえのか」
「言葉としては聞いたことありますけど、実物は見たことないです」
「お前、本当に学生か?」
「改札鋏を見たことないと学生を疑われるんですか」
僕はスマホを取り出した。
「これで入れます」
ヨシオが僕の手元を見た。
「板で?」
「ICが入ってるんです」
「駅員は?」
「いません」
「令和の駅は人情がねえな」
「まだ令和って認めてないですよね?」
僕が改札を通ると、ヨシオは恐る恐るついてきた。
ハルカが横で笑っている。
「大丈夫です。ピッてするだけです」
「ハルカさんがそうおっしゃるなら」
ヨシオはスマホを持つ僕の手ごと、改札に近づいた。
「いや、自分で通ってください!」
「板の使い方がわからん」
「人の手を使わないでください」
なんとか三人で改札を抜けた頃には、僕はすでに一日分の体力を使った気がした。
でも、本番は電車だった。
電車に乗ると、ヨシオは空いていた席に腰を下ろした。
そして、当然のように胸ポケットから煙草を出した。
「ちょ、何してるんですか!」
「煙草だ」
「ここ電車です!」
「だから何だ」
「吸えません!」
「電車で煙草も吸えねえのか、この時代は!」
声が大きい。
車内の乗客が一斉にこちらを見た。
そのうちの一人が、スマホをこちらに向ける。
まずい。
かなりまずい。
「撮られてます! 炎上しますよ!」
僕が小声で叫ぶと、ヨシオは眉をひそめた。
「タバコでまだ火事は出したことねえ!」
「その炎上じゃなーい!」
思わず声が裏返った。
さらに別の乗客もスマホを向けかけている。
僕は必死にヨシオの手を押さえた。
「しまってください! 今すぐ!」
「お前、何をそんなに慌ててる」
「社会的に終わるからです!」
「煙草一本で社会が終わるのか。令和はもろいな」
「そういう話じゃないです!」
ハルカが笑いをこらえながら、ヨシオに言った。
「ヨシオさん、今は電車の中で煙草は吸わないんです」
ヨシオはハルカを見た。
そして、すぐに煙草をしまった。
「ハルカさんがそうおっしゃるなら」
僕は固まった。
「僕がさっき全力で止めましたよね?」
「お前は焦り方が頼りない」
「焦り方にも評価あるんですか」
周囲の視線はまだ痛かった。
僕は頭を下げるようにして、小さく「すみません」とつぶやいた。
ヨシオは窓の外を見ている。
流れていく東京の景色を、じっと見ていた。
「……ずいぶん、変わったな」
その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
僕はヨシオの横顔を見た。
初めて、彼がほんの少しだけ心細そうに見えた。
*
三田に着くと、ヨシオはまた元気を取り戻した。
いや、正確には、元気というより騒がしさを取り戻した。
「なんだ、この大学は」
キャンパスに入った瞬間、ヨシオは立ち止まった。
「綺麗すぎる」
「悪いことじゃないですよね」
「大学ってのは、もっとこう、うるさいもんだろ。立看板があって、ビラが貼ってあって、誰かが議論してて」
「今も時期によってはうるさいですよ」
「誰も議論してねえじゃねえか」
「たぶんSNSでしてます」
「SNS? もうよくわからんが、俺も参加するか!」
「ネットでやります。電話みたいなもので」
「直接話せ!」
ヨシオの声が、キャンパスに響いた。
何人かの学生がこちらを見る。
僕はもう、目立たない場所に座っていたいだけの人生だったはずなのに、なぜこんなに注目されているんだろう。
その後、ヨシオはトイレに入って、さらに騒いだ。
「水が勝手に流れたぞ!」
「トイレです」
「令和、やるじゃねえか」
「そこは認めるんですね」
「便利なものは認める。人間が横着になるものは認めん」
「基準があるようでない」
ハルカは完全に面白がっていた。
「アオ、ヨシオさん面白すぎるね」
「僕は胃が痛い」
「でも、ちょっと似てるよね」
「誰に?」
「アオに」
「どこが?」
「頑固なところ」
「僕、こんなに声大きくない」
「声の大きさ以外」
僕は何も言えなかった。
似ている。
そう言われて、嫌ではない自分がいた。
*
大学の中庭を歩いていると、向こうから見覚えのある男が歩いてきた。
「あれ、アオじゃん」
できれば会いたくなかった人だった。
先輩の桐原さん。
見た目はいい。話もうまい。学生のうちに起業して、そこそこ成功しているらしい。いつも周囲に人がいるタイプで、僕とは正反対の人間だった。
そして、僕のことを少し下に見ている。
「ハルカもいるじゃん。久しぶり」
「お久しぶりです」
ハルカは普通に笑って返した。
桐原さんは、ハルカには愛想がいい。
でも、僕を見る時だけ、少し目つきが変わる。
「アオ、またハルカにくっついてんの?」
「いや、別に」
「お前さ、もうちょっと自分から動いた方がいいよ。大学って、黙ってるやつは本当に何も残らないから」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
言い返したい。
別に、くっついているわけじゃない。
僕だって何も考えていないわけじゃない。
黙っているからって、何もない人間みたいに言わないでほしい。
でも、言葉が出なかった。
いつものことだった。
言いたいことは、頭の中ではいくらでも出てくる。
でも、口まで来る前に、全部どこかへ落ちてしまう。
その時、ヨシオが一歩前に出た。
「おい」
桐原さんが眉をひそめる。
「誰ですか?」
「人に説教する前に、まず人の目を見て話せ」
「は?」
「自分から動けだの、何も残らねえだの、ずいぶん偉そうだな。お前は何を残したんだ」
周囲がざわついた。
僕は慌てた。
「ちょ、ヨシオさん」
でも、ヨシオは止まらない。
「人を奮い立たせる言葉と、人を見下す言葉は違う。お前が今投げたのは後者だ」
桐原さんの顔から、少し笑みが消えた。
「いや、俺は別にアドバイスを」
「アドバイスってのは、相手を見て言うもんだ。自分の気持ちよさのために言うなら、それはただの説教だ」
僕は息を止めていた。
言いすぎだ。
絶対に言いすぎだ。
そう思うのに、胸の奥のどこかで、少しだけ何かがほどけていく。
誰かに言ってほしかった。
たぶん僕は、そう思ってしまった。
ヨシオは、今度は僕を見た。
「お前もお前だ」
「え」
「何をそんなにびくびくしてんだ」
その言葉は、まっすぐ刺さった。
優しい言葉ではなかった。
慰めでもなかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
痛い。
でも、嫌ではない。
昔のおじいちゃんは、僕に言った。
おまえは優しい子だから。
その言葉は、ずっと僕を守ってくれていた。
でも目の前のヨシオは、守るだけでは済ませてくれない。
優しいなら、動け。
怖くても、顔を上げろ。
そう言われている気がした。
僕は何も返せなかった。
ただ、ヨシオの背中を見ていた。
言いたいことを言える人間は、こんなふうに立っていられるのか。
少しだけ、眩しかった。
*
その後、空気が変になったので、僕たちはその場を離れた。
桐原さんは最後まで何か言いたそうだったけれど、ハルカが「また今度」と笑って流してくれた。
助かった。
いろんな意味で、助かった。
「ヨシオさん、さっきのはちょっと言いすぎです」
僕が言うと、ヨシオは不満そうに鼻を鳴らした。
「言い足りねえくらいだ」
「現代では、あれでもかなり強いです」
「弱い言葉じゃ届かねえ相手もいる」
その言葉に、僕は少し反応した。
どこかで聞いたことがある気がした。
いや、聞いたことはない。
でも、知っている感じがした。
生前のおじいちゃんが、ときどき同じような顔をしていたからかもしれない。
「アオ、こっち」
ハルカが少し先で手を振った。
「これ、見て」
そこは大学内の展示スペースだった。
古い写真や資料が、ガラスケースの中に並んでいる。昔のキャンパスの様子、講義風景、ゼミ旅行の写真。白黒の学生たちが、少し照れたような顔でこちらを見ていた。
「古い写真、いっぱいあるね」
ハルカはケースの前にしゃがみこんだ。
僕も横に立つ。
ヨシオは最初、興味なさそうにしていた。けれど、ある写真の前で急に黙った。
僕も、それを見た。
白黒写真だった。
数人の学生が、旅館らしき建物の前に並んでいる。
男たちは髪が長く、服も今とは違う。
女学生たちは少し照れたように笑っている。
その中に、一人の男がいた。
ロン毛。
少し不機嫌そうな口元。
胸を張っているくせに、どこか照れたような目。
僕は息を止めた。
写真の下に、小さな文字があった。
――石和田ゼミの旅行にて。
そして、並んだ名前の中に、その文字があった。
石川ヨシオ。
法学部。
僕は写真と、目の前のヨシオを見比べた。
同じ顔だった。
同じ目だった。
同じ不機嫌そうな口元だった。
そしてたぶん、同じ「バカヤロウ」の言い方をする顔だった。
ヨシオは写真を見つめたまま、動かなかった。
その横顔から、さっきまでの勢いが消えていた。
初めて、彼自身も何かを理解しかけているように見えた。
僕の声は、勝手に震えた。
「……本当に、おじいちゃんなんだ」
ヨシオは眉をひそめた。
けれど、いつものようにすぐ怒鳴り返してはこなかった。
少し間を置いてから、低い声で言った。
「だから、誰がじいちゃんだって言ってんだ」
でも、僕はもう笑えなかった。
写真の中の若い男は、間違いなく目の前にいた。
そしてその男は、僕がずっと夢に見ていた祖父の、若い頃の姿だった。
おじいちゃんは、死んだはずだった。
でも今、僕の隣で、困ったような顔をしている。
令和の大学のガラスケースの前で。
フラペチーノをパフェだと言い張って、電車で煙草を吸おうとして、僕のことを青白いのと呼ぶ、二十歳の祖父が。
僕は、何を言えばいいのかわからなかった。
ただ、胸の奥で、夢の中の声がまた聞こえた気がした。
おまえは優しい子だから。
その言葉の意味が、少しだけ変わり始めていた。




