第二話 昭和の慶應ボーイ
俺は、その朝も腹を立てていた。
別に珍しいことじゃない。
世の中というのは、腹を立てようと思えば、いくらでも腹を立てる材料が転がっている。
教授の話は長い。
学生は理屈ばかりこねる。
食堂の味噌汁は薄い。
それから、世の中の大人たちは、若いやつの話を聞く前に「若いくせに」と言う。
若いくせに、とは何だ。
若いから言っているんだろうが。
俺は三田の坂を上りながら、口の端に煙草をくわえた。火はつけていない。
ただ、くわえていると落ち着く。
煙草というのは、吸うだけのものじゃない。
くわえて考えるものでもある。
「ヨシオ!」
背中から声がした。
振り向くと、サトウが走ってきた。法学部の同級生で、口だけは達者な男だ。走っているのに、鞄を小脇に抱えた姿だけはいっちょまえにインテリぶっている。
「なんだ」
「なんだじゃないよ。今日のゼミ、発表お前だろ」
「知ってる」
「資料は?」
「頭の中だ」
「またそれかよ」
サトウは額を押さえた。
「ヨシオ、お前な、大学ってのは頭の中だけで勝負する場所じゃないんだぞ。紙に書け。紙に」
「紙に書いた時点で、言葉が死ぬ」
「詩人か、お前は」
「法学部だ」
「なお悪い」
サトウは呆れた顔をしたあと、俺の口元を見た。
「煙草あるか」
「ある」
「一本くれ」
「返せよ」
「吸った煙草をどう返すんだよ」
「気持ちで返せ」
「お前にだけは金を借りたくないな」
俺はポケットからしわのついた煙草の箱を出して、一本渡した。
サトウは慣れた手つきで煙草をくわえると、俺の肩を軽く叩いた。
「火、あるか」
「ある」
俺がマッチを渡すと、サトウは歩きながら器用に火をつけた。
風で火が消えそうになって、サトウは手のひらで小さく囲う。
俺もつられて火をつけようとして、やめた。
「吸わないのか」
「考え中だ」
「煙草を?」
「人生を」
「朝から重いな」
「軽いやつよりはましだ」
サトウは煙を吐きながら笑った。
「お前、ほんとに面倒くさいな」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてない」
俺は鼻で笑って、校舎へ向かった。
三田のキャンパスは、朝から妙にざわついていた。立看板が並び、掲示板にはビラが重なり、誰かが大声で何かを訴えている。
昨日貼られた紙の上に、今日の紙が貼られる。
今日の主張の上に、明日の主張が貼られる。
時代というのは、たぶんそうやって厚くなっていく。
俺はそういう空気が嫌いではなかった。
面倒くさいとは思う。
だが、何も言わないよりはずっといい。
黙っているだけの人間が、いちばん信用ならない。
「おはよう、石川くん」
その声を聞いた瞬間、俺はくわえていた煙草を落としそうになった。
まゆみだった。
白いブラウスに、膝丈のスカート。髪は肩のあたりで揺れている。派手ではないのに、目に入るとしばらく離れない。そういう女だった。
まゆみは、誰にでも同じ声で話す。
偉そうな教授にも、暗いやつにも、声の大きい学生にも、食堂のおばちゃんにも。
相手によって笑い方を変えない。
俺はそこが、どうにも弱かった。
「お、おう」
「今日、発表だよね」
「まあな」
「ちゃんと準備した?」
「頭の中にな」
まゆみは少し笑った。
「石川くんらしいね」
その一言で、俺は危うく一日を許しそうになった。
世の中はだいたい間違っている。
教授も、政治家も、サトウも、食堂の味噌汁も間違っている。
だが、まゆみだけは正しい。
「石川くん」
「なんだ」
「煙草、落ちそう」
言われて、俺は慌てて煙草をくわえ直した。
「わざとだ」
「落としそうに見えたよ」
「落ちるか落ちないかの瀬戸際に、男の美学がある」
「そういうこと言ってると、いつか本当に落とすよ」
「落とさん」
まゆみは小さく笑って、友達のところへ行ってしまった。
俺はその背中を見送りながら、深く息を吐いた。
サトウが横でにやにやしている。
「お前、まゆみちゃんの前だと急に文明人になるよな」
「うるせえ」
「普段は猿みたいなのに」
「誰が猿だ」
「ほら、猿」
俺はサトウの肩を軽く小突いた。
軽くのつもりだったが、サトウは大げさによろけた。
「暴力反対」
「言論で勝てねえやつほど、すぐそう言う」
「お前は言論の前に手が出るんだよ」
「手も言葉だ」
「名言っぽく言うな」
くだらないことを言い合いながら、俺たちは教室へ入った。
*
ゼミの発表は、思ったより荒れた。
俺は、法というものは人を縛るためではなく、人を守るためにあるべきだ、と言った。
そんなのは青臭い、と教授が言った。
社会は理想だけでは動かない、とも言った。
それはわかる。
わかるが、わかった顔で黙るのが俺は嫌いだった。
「先生」
俺は立ったまま言った。
「理想を口に出さなくなったら、大学なんてただの建物じゃないですか」
教室が少し静かになった。
教授は眉をひそめた。
「石川くん。君はいつも言葉が強い」
「弱い言葉じゃ届かない相手もいます」
「その強さが、時に人を傷つけることもある」
それを言われると、少し困った。
俺は言葉を選ぶのが得意ではない。
思ったことが、そのまま口から出る。
正しいと思ったら曲げられない。
それで人を傷つけることがあるのも、たぶん本当だった。
でも、だからといって黙るのは違う。
「傷つけないために黙るのと、守るために言うのは違います」
俺がそう言うと、後ろの方で誰かが小さく笑った。
馬鹿にした笑いではなかった。
少しだけ、感心したような笑いだった。
まゆみだった。
まゆみが、こちらを見ていた。
俺は急に、発表の続きが全部飛びそうになった。
まずい。
まゆみは法律より難しい。
*
昼休み、食堂はいつものように混んでいた。
俺はカレーを頼んだ。百円もしない。安い。ありがたい。
ただし、量は少ない。
「おばちゃん、もう少し盛ってくれよ」
「石川くん、毎回それ言うねえ」
「育ち盛りなんだ」
「二十歳でしょ」
「男は死ぬまで育ち盛りだ」
「はいはい」
おばちゃんは笑って、少しだけ多く盛ってくれた。
世の中には、理屈より大事なものがある。
たとえば、食堂のおばちゃんとの信頼関係だ。
サトウと向かい合って座っていると、隣の席の学生が飯を食い終えて立ち上がった。
俺は思わず声をかけた。
「おい」
学生が振り向く。
「何ですか」
「まだ残ってる」
「え?」
「茶碗だよ。米粒、残ってんだろ」
学生は自分の茶碗を見た。
底の方に、白い米粒がいくつか貼りついている。
「いや、これくらい、いいじゃないですか」
「よくねえよ。米だぞ」
サトウが俺の袖を引いた。
「ヨシオ、やめとけ」
「米粒を粗末にするやつに、やめとけも何もあるか」
「また始まった」
学生は面倒くさそうに眉をひそめた。
「説教ですか」
「説教じゃねえ。常識だ」
「はあ」
「茶碗に米粒残すな。作った人間にも、炊いた人間にも、食い物そのものにも失礼だろうが」
学生は何か言い返そうとしたが、食堂のおばちゃんがこちらを見ていたからか、気まずそうに黙った。
結局、学生は席に戻って、茶碗の米粒を箸で集めて食べた。
サトウがため息をつく。
「お前、本当に面倒くさいな」
「面倒くさくてけっこう」
「まゆみちゃんに嫌われるぞ」
その一言で、俺は少しだけ黙った。
「……今のは、嫌われるやつか」
「知らん」
「知らんなら言うな」
「でも、お前のそういうところ、好きな人は好きなんじゃない」
「誰が」
「さあね」
サトウはにやにやしてカレーを食べた。
俺はまゆみの姿を探した。
食堂の入口近くで、友達と話しているのが見えた。
まゆみは、こちらを見ていなかった。
少し安心して、少し残念だった。
*
午後の講義が終わる頃には、空が少し曇っていた。
俺は学生鞄を肩にかけ、三田の坂を下りた。
「ヨシオ、どこ行くんだ」
サトウが聞いた。
「渋谷」
「またレコードか」
「またとは何だ。音楽は心の飯だ」
「今日、金あるの?」
「ない」
「じゃあ何しに行くんだよ」
「見るんだよ」
「買えないレコードを?」
「見るのはただだ」
「その理屈、強いな」
サトウは呆れたように笑った。
「喫茶店で議論しようぜ。みんな来るって」
「今日はいい」
「まゆみちゃんも来るかもよ」
俺の足が一瞬止まった。
サトウが勝ち誇った顔をする。
「来るかも、だろ」
「来るかも」
「かもでは動かん」
「嘘つけ。今ちょっと止まったぞ」
「靴紐を見ただけだ」
「結ばれてるけど」
「心の靴紐だ」
「もう何でもありだな」
俺はサトウを置いて、駅へ向かった。
正直に言えば、まゆみが来るかもしれないなら喫茶店に行きたかった。
だが、そういう下心をサトウに見透かされるのが嫌だった。
男には、どうでもいい意地がある。
だいたいその意地のせいで損をする。
それでも、捨てられないから意地なのだ。
*
電車に揺られているあいだ、俺は窓の外を見ていた。
東京はうるさい。
人が多い。
建物が多い。
看板が多い。
怒っているやつも、笑っているやつも、疲れているやつも多い。
でも、嫌いではなかった。
東京には、何かが始まりそうな匂いがある。
渋谷に着くと、空気がさらに騒がしくなった。
駅前では学生らしき連中が待ち合わせをしている。スーツ姿の男が早足で通り過ぎる。若い女たちが笑いながら歩いている。どこかの店から、洋楽が漏れている。
俺はその音に引っ張られるように、レコード屋へ向かった。
店の中は狭かったが、宝の山だった。
棚にぎっしり詰まったレコード。
見たことのないジャケット。
読めそうで読めない英語。
店員の無愛想な顔。
最高だ。
金がなくても、こういう場所にいるだけで腹がふくれる気がする。
いや、実際にはふくれない。
腹は普通に減る。
俺は何枚か手に取っては戻し、戻してはまた手に取った。
買えないものほど、よく見える。
ふと、一枚のレコードに目が留まった。
ジャケットの端に、小さく女の横顔が描かれている。
それが少しだけ、まゆみに似ていた。
「……似てねえか」
ひとりでつぶやいて、すぐに恥ずかしくなった。
何をやっているんだ、俺は。
レコードのジャケットにまで、好きな女を探してどうする。
俺はそのレコードを棚に戻し、店を出た。
外に出ると、雨が降り始めていた。
細かい雨だった。
傘はない。
買う金もない。
俺はジャケットの襟を立てて、路地の方へ駆け込んだ。
*
雨宿りできそうな場所を探して、細い道を歩いた。
渋谷の裏通りは、表の騒がしさとは違う顔をしている。
看板の明かりが雨ににじみ、店の裏口からは油の匂いがする。
どこかの喫茶店から、コーヒーの香りがした。
喫茶店。
俺はまゆみの顔を思い出した。
もし今日、喫茶店に行っていたら。
もし、まゆみが本当に来ていたら。
もし、隣の席に座れたら。
もし、俺がもう少しまともに話せる男だったら。
「くだらねえ」
俺は自分に言った。
考えたところで何も変わらない。
好きなら言えばいい。
言えないなら黙っていればいい。
それだけの話だ。
それだけの話が、どうしてこんなに難しいのか。
その時、路地の奥で変な音がした。
ジリリリリリリリ。
電話のベルだった。
見ると、少し先に電話ボックスがあった。
こんなところに電話ボックスなんてあったか。
俺は首をかしげた。
ガラス張りの箱の中で、黒電話が鳴っている。
公衆電話に黒電話。
おかしな組み合わせだった。
ジリリリリリリリ。
雨の音に混じって、やけに大きく響く。
俺はしばらく見ていた。
誰も出ない。
ジリリリリリリリ。
「うるせえな」
俺は電話ボックスの扉を開けた。
中は妙に寒かった。
受話器を取る。
「もしもし」
返事はなかった。
「もしもし。誰だ」
ザーッという、砂をこするような音がした。
それから、遠くで誰かが笑ったような気がした。
女の声にも、子供の声にも、老人の声にも聞こえた。
『……優しい子だから』
俺は眉をひそめた。
「何だって?」
次の瞬間、電話ボックスの明かりが強く光った。
白い。
目を開けていられないほど白い。
「なんだ、おい!」
足元が抜けたような感覚がした。
身体が落ちる。
いや、浮く。
どっちだかわからない。
耳元で、電車の音と、笑い声と、誰かの泣き声が混ざった。
まゆみの顔が浮かんだ。
サトウの馬鹿面が浮かんだ。
食堂のおばちゃんのカレーが浮かんだ。
最後に、見たことのない青白い顔の男が浮かんだ。
誰だ、お前。
そう思った瞬間、世界がひっくり返った。
*
気がつくと、俺は路地に立っていた。
雨は止んでいた。
いや、さっきまで雨だったはずだ。
服も髪も濡れている。
なのに空は晴れていて、地面もほとんど乾いている。
「……なんだ?」
俺はあたりを見回した。
渋谷、のはずだった。
だが、何かが違う。
看板がやたら光っている。
建物が妙に高い。
車の形が丸い。
店の入口がどこもやけに明るい。
音楽は鳴っているのに、誰もその音を聞いていないような顔をしている。
男も女も、服の形が妙に軽い。
靴も鞄も、見たことがないほどつるつるしている。
髪の色も、黒だけじゃない。
何より、誰もが手に薄い板みたいなものを持っていた。
それを見ながら歩いている。
話しながら見ている。
ひとりで笑いながら見ている。
「何だ、あれ」
俺は近くを歩いていた若い男の手元を見た。
薄いテレビみたいな板だった。
男はそれを指でなでている。
テレビをなでるな。
いや、あれはテレビなのか。
俺は頭を振った。
落ち着け。
まず状況を整理しろ。
俺は渋谷にいた。
雨が降っていた。
電話が鳴った。
電話に出た。
光った。
気づいたら、変な渋谷にいた。
整理しても、何ひとつわからなかった。
「夢か?」
自分の頬をつねってみる。
痛い。
夢ではない。
では何だ。
革命か。
いや、革命で車は丸くならない。
俺は路地を出ようとして、ふと足を止めた。
ガラス窓に、自分の姿が映っていた。
ロン毛。
フレアパンツ。
バンのジャケット。
煙草をくわえた、いつもの俺。
少なくとも俺は変わっていない。
変わったのは、渋谷の方だ。
「渋谷も物騒になったもんだな」
そうつぶやいた時だった。
少し先の路地から、女の声がした。
「やめてください」
俺は顔を上げた。
声のした方を見る。
若い女が、男二人に囲まれていた。
男たちはだらしない格好をして、へらへら笑っている。
片方は金髪。
もう片方は缶を持っている。
「いいじゃん、ちょっとだけ」
「連絡先教えてよ」
連絡先?
何の話だ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
女が嫌がっている。
男が二人で囲んでいる。
それだけわかれば十分だった。
俺は煙草を口から外した。
腹が立っていた。
朝からずっと腹が立っていたが、今の腹の立ち方は少し違った。
教授の理屈でも、食堂の飯でも、買えないレコードでもない。
もっと単純で、もっとまっすぐな怒りだった。
俺は路地の入口に立った。
「おい」




