表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/2

第二話 昭和の慶應ボーイ


 俺は、その朝も腹を立てていた。


 別に珍しいことじゃない。

 世の中というのは、腹を立てようと思えば、いくらでも腹を立てる材料が転がっている。


 教授の話は長い。

 学生は理屈ばかりこねる。

 食堂の味噌汁は薄い。

 それから、世の中の大人たちは、若いやつの話を聞く前に「若いくせに」と言う。


 若いくせに、とは何だ。


 若いから言っているんだろうが。


 俺は三田の坂を上りながら、口の端に煙草をくわえた。火はつけていない。


 ただ、くわえていると落ち着く。


 煙草というのは、吸うだけのものじゃない。

 くわえて考えるものでもある。


「ヨシオ!」


 背中から声がした。


 振り向くと、サトウが走ってきた。法学部の同級生で、口だけは達者な男だ。走っているのに、鞄を小脇に抱えた姿だけはいっちょまえにインテリぶっている。


「なんだ」


「なんだじゃないよ。今日のゼミ、発表お前だろ」


「知ってる」


「資料は?」


「頭の中だ」


「またそれかよ」


 サトウは額を押さえた。


「ヨシオ、お前な、大学ってのは頭の中だけで勝負する場所じゃないんだぞ。紙に書け。紙に」


「紙に書いた時点で、言葉が死ぬ」


「詩人か、お前は」


「法学部だ」


「なお悪い」


 サトウは呆れた顔をしたあと、俺の口元を見た。


「煙草あるか」


「ある」


「一本くれ」


「返せよ」


「吸った煙草をどう返すんだよ」


「気持ちで返せ」


「お前にだけは金を借りたくないな」


 俺はポケットからしわのついた煙草の箱を出して、一本渡した。


 サトウは慣れた手つきで煙草をくわえると、俺の肩を軽く叩いた。


「火、あるか」


「ある」


 俺がマッチを渡すと、サトウは歩きながら器用に火をつけた。

 風で火が消えそうになって、サトウは手のひらで小さく囲う。


 俺もつられて火をつけようとして、やめた。


「吸わないのか」


「考え中だ」


「煙草を?」


「人生を」


「朝から重いな」


「軽いやつよりはましだ」


 サトウは煙を吐きながら笑った。


「お前、ほんとに面倒くさいな」


「褒め言葉として受け取っとく」


「褒めてない」


 俺は鼻で笑って、校舎へ向かった。


 三田のキャンパスは、朝から妙にざわついていた。立看板が並び、掲示板にはビラが重なり、誰かが大声で何かを訴えている。


 昨日貼られた紙の上に、今日の紙が貼られる。

 今日の主張の上に、明日の主張が貼られる。


 時代というのは、たぶんそうやって厚くなっていく。


 俺はそういう空気が嫌いではなかった。

 面倒くさいとは思う。

 だが、何も言わないよりはずっといい。


 黙っているだけの人間が、いちばん信用ならない。


「おはよう、石川くん」


 その声を聞いた瞬間、俺はくわえていた煙草を落としそうになった。


 まゆみだった。


 白いブラウスに、膝丈のスカート。髪は肩のあたりで揺れている。派手ではないのに、目に入るとしばらく離れない。そういう女だった。


 まゆみは、誰にでも同じ声で話す。


 偉そうな教授にも、暗いやつにも、声の大きい学生にも、食堂のおばちゃんにも。

 相手によって笑い方を変えない。


 俺はそこが、どうにも弱かった。


「お、おう」


「今日、発表だよね」


「まあな」


「ちゃんと準備した?」


「頭の中にな」


 まゆみは少し笑った。


「石川くんらしいね」


 その一言で、俺は危うく一日を許しそうになった。


 世の中はだいたい間違っている。

 教授も、政治家も、サトウも、食堂の味噌汁も間違っている。


 だが、まゆみだけは正しい。


「石川くん」


「なんだ」


「煙草、落ちそう」


 言われて、俺は慌てて煙草をくわえ直した。


「わざとだ」


「落としそうに見えたよ」


「落ちるか落ちないかの瀬戸際に、男の美学がある」


「そういうこと言ってると、いつか本当に落とすよ」


「落とさん」


 まゆみは小さく笑って、友達のところへ行ってしまった。


 俺はその背中を見送りながら、深く息を吐いた。


 サトウが横でにやにやしている。


「お前、まゆみちゃんの前だと急に文明人になるよな」


「うるせえ」


「普段は猿みたいなのに」


「誰が猿だ」


「ほら、猿」


 俺はサトウの肩を軽く小突いた。


 軽くのつもりだったが、サトウは大げさによろけた。


「暴力反対」


「言論で勝てねえやつほど、すぐそう言う」


「お前は言論の前に手が出るんだよ」


「手も言葉だ」


「名言っぽく言うな」


 くだらないことを言い合いながら、俺たちは教室へ入った。


     *


 ゼミの発表は、思ったより荒れた。


 俺は、法というものは人を縛るためではなく、人を守るためにあるべきだ、と言った。

 そんなのは青臭い、と教授が言った。

 社会は理想だけでは動かない、とも言った。


 それはわかる。


 わかるが、わかった顔で黙るのが俺は嫌いだった。


「先生」


 俺は立ったまま言った。


「理想を口に出さなくなったら、大学なんてただの建物じゃないですか」


 教室が少し静かになった。


 教授は眉をひそめた。


「石川くん。君はいつも言葉が強い」


「弱い言葉じゃ届かない相手もいます」


「その強さが、時に人を傷つけることもある」


 それを言われると、少し困った。


 俺は言葉を選ぶのが得意ではない。

 思ったことが、そのまま口から出る。

 正しいと思ったら曲げられない。


 それで人を傷つけることがあるのも、たぶん本当だった。


 でも、だからといって黙るのは違う。


「傷つけないために黙るのと、守るために言うのは違います」


 俺がそう言うと、後ろの方で誰かが小さく笑った。


 馬鹿にした笑いではなかった。

 少しだけ、感心したような笑いだった。


 まゆみだった。


 まゆみが、こちらを見ていた。


 俺は急に、発表の続きが全部飛びそうになった。


 まずい。


 まゆみは法律より難しい。


     *


 昼休み、食堂はいつものように混んでいた。


 俺はカレーを頼んだ。百円もしない。安い。ありがたい。

 ただし、量は少ない。


「おばちゃん、もう少し盛ってくれよ」


「石川くん、毎回それ言うねえ」


「育ち盛りなんだ」


「二十歳でしょ」


「男は死ぬまで育ち盛りだ」


「はいはい」


 おばちゃんは笑って、少しだけ多く盛ってくれた。


 世の中には、理屈より大事なものがある。

 たとえば、食堂のおばちゃんとの信頼関係だ。


 サトウと向かい合って座っていると、隣の席の学生が飯を食い終えて立ち上がった。


 俺は思わず声をかけた。


「おい」


 学生が振り向く。


「何ですか」


「まだ残ってる」


「え?」


「茶碗だよ。米粒、残ってんだろ」


 学生は自分の茶碗を見た。

 底の方に、白い米粒がいくつか貼りついている。


「いや、これくらい、いいじゃないですか」


「よくねえよ。米だぞ」


 サトウが俺の袖を引いた。


「ヨシオ、やめとけ」


「米粒を粗末にするやつに、やめとけも何もあるか」


「また始まった」


 学生は面倒くさそうに眉をひそめた。


「説教ですか」


「説教じゃねえ。常識だ」


「はあ」


「茶碗に米粒残すな。作った人間にも、炊いた人間にも、食い物そのものにも失礼だろうが」


 学生は何か言い返そうとしたが、食堂のおばちゃんがこちらを見ていたからか、気まずそうに黙った。


 結局、学生は席に戻って、茶碗の米粒を箸で集めて食べた。


 サトウがため息をつく。


「お前、本当に面倒くさいな」


「面倒くさくてけっこう」


「まゆみちゃんに嫌われるぞ」


 その一言で、俺は少しだけ黙った。


「……今のは、嫌われるやつか」


「知らん」


「知らんなら言うな」


「でも、お前のそういうところ、好きな人は好きなんじゃない」


「誰が」


「さあね」


 サトウはにやにやしてカレーを食べた。


 俺はまゆみの姿を探した。

 食堂の入口近くで、友達と話しているのが見えた。


 まゆみは、こちらを見ていなかった。


 少し安心して、少し残念だった。


     *


 午後の講義が終わる頃には、空が少し曇っていた。


 俺は学生鞄を肩にかけ、三田の坂を下りた。


「ヨシオ、どこ行くんだ」


 サトウが聞いた。


「渋谷」


「またレコードか」


「またとは何だ。音楽は心の飯だ」


「今日、金あるの?」


「ない」


「じゃあ何しに行くんだよ」


「見るんだよ」


「買えないレコードを?」


「見るのはただだ」


「その理屈、強いな」


 サトウは呆れたように笑った。


「喫茶店で議論しようぜ。みんな来るって」


「今日はいい」


「まゆみちゃんも来るかもよ」


 俺の足が一瞬止まった。


 サトウが勝ち誇った顔をする。


「来るかも、だろ」


「来るかも」


「かもでは動かん」


「嘘つけ。今ちょっと止まったぞ」


「靴紐を見ただけだ」


「結ばれてるけど」


「心の靴紐だ」


「もう何でもありだな」


 俺はサトウを置いて、駅へ向かった。


 正直に言えば、まゆみが来るかもしれないなら喫茶店に行きたかった。

 だが、そういう下心をサトウに見透かされるのが嫌だった。


 男には、どうでもいい意地がある。


 だいたいその意地のせいで損をする。


 それでも、捨てられないから意地なのだ。


     *


 電車に揺られているあいだ、俺は窓の外を見ていた。


 東京はうるさい。


 人が多い。

 建物が多い。

 看板が多い。

 怒っているやつも、笑っているやつも、疲れているやつも多い。


 でも、嫌いではなかった。


 東京には、何かが始まりそうな匂いがある。


 渋谷に着くと、空気がさらに騒がしくなった。


 駅前では学生らしき連中が待ち合わせをしている。スーツ姿の男が早足で通り過ぎる。若い女たちが笑いながら歩いている。どこかの店から、洋楽が漏れている。


 俺はその音に引っ張られるように、レコード屋へ向かった。


 店の中は狭かったが、宝の山だった。


 棚にぎっしり詰まったレコード。

 見たことのないジャケット。

 読めそうで読めない英語。

 店員の無愛想な顔。


 最高だ。


 金がなくても、こういう場所にいるだけで腹がふくれる気がする。


 いや、実際にはふくれない。

 腹は普通に減る。


 俺は何枚か手に取っては戻し、戻してはまた手に取った。

 買えないものほど、よく見える。


 ふと、一枚のレコードに目が留まった。


 ジャケットの端に、小さく女の横顔が描かれている。

 それが少しだけ、まゆみに似ていた。


「……似てねえか」


 ひとりでつぶやいて、すぐに恥ずかしくなった。


 何をやっているんだ、俺は。


 レコードのジャケットにまで、好きな女を探してどうする。


 俺はそのレコードを棚に戻し、店を出た。


 外に出ると、雨が降り始めていた。


 細かい雨だった。


 傘はない。


 買う金もない。


 俺はジャケットの襟を立てて、路地の方へ駆け込んだ。


     *


 雨宿りできそうな場所を探して、細い道を歩いた。


 渋谷の裏通りは、表の騒がしさとは違う顔をしている。

 看板の明かりが雨ににじみ、店の裏口からは油の匂いがする。

 どこかの喫茶店から、コーヒーの香りがした。


 喫茶店。


 俺はまゆみの顔を思い出した。


 もし今日、喫茶店に行っていたら。

 もし、まゆみが本当に来ていたら。

 もし、隣の席に座れたら。


 もし、俺がもう少しまともに話せる男だったら。


「くだらねえ」


 俺は自分に言った。


 考えたところで何も変わらない。

 好きなら言えばいい。

 言えないなら黙っていればいい。


 それだけの話だ。


 それだけの話が、どうしてこんなに難しいのか。


 その時、路地の奥で変な音がした。


 ジリリリリリリリ。


 電話のベルだった。


 見ると、少し先に電話ボックスがあった。


 こんなところに電話ボックスなんてあったか。


 俺は首をかしげた。


 ガラス張りの箱の中で、黒電話が鳴っている。

 公衆電話に黒電話。

 おかしな組み合わせだった。


 ジリリリリリリリ。


 雨の音に混じって、やけに大きく響く。


 俺はしばらく見ていた。


 誰も出ない。


 ジリリリリリリリ。


「うるせえな」


 俺は電話ボックスの扉を開けた。


 中は妙に寒かった。


 受話器を取る。


「もしもし」


 返事はなかった。


「もしもし。誰だ」


 ザーッという、砂をこするような音がした。


 それから、遠くで誰かが笑ったような気がした。


 女の声にも、子供の声にも、老人の声にも聞こえた。


『……優しい子だから』


 俺は眉をひそめた。


「何だって?」


 次の瞬間、電話ボックスの明かりが強く光った。


 白い。


 目を開けていられないほど白い。


「なんだ、おい!」


 足元が抜けたような感覚がした。


 身体が落ちる。

 いや、浮く。

 どっちだかわからない。


 耳元で、電車の音と、笑い声と、誰かの泣き声が混ざった。


 まゆみの顔が浮かんだ。

 サトウの馬鹿面が浮かんだ。

 食堂のおばちゃんのカレーが浮かんだ。


 最後に、見たことのない青白い顔の男が浮かんだ。


 誰だ、お前。


 そう思った瞬間、世界がひっくり返った。


     *


 気がつくと、俺は路地に立っていた。


 雨は止んでいた。


 いや、さっきまで雨だったはずだ。

 服も髪も濡れている。

 なのに空は晴れていて、地面もほとんど乾いている。


「……なんだ?」


 俺はあたりを見回した。


 渋谷、のはずだった。


 だが、何かが違う。


 看板がやたら光っている。

 建物が妙に高い。

 車の形が丸い。

 店の入口がどこもやけに明るい。

 音楽は鳴っているのに、誰もその音を聞いていないような顔をしている。


 男も女も、服の形が妙に軽い。

 靴も鞄も、見たことがないほどつるつるしている。

 髪の色も、黒だけじゃない。


 何より、誰もが手に薄い板みたいなものを持っていた。

 それを見ながら歩いている。

 話しながら見ている。

 ひとりで笑いながら見ている。


「何だ、あれ」


 俺は近くを歩いていた若い男の手元を見た。


 薄いテレビみたいな板だった。


 男はそれを指でなでている。


 テレビをなでるな。


 いや、あれはテレビなのか。


 俺は頭を振った。


 落ち着け。

 まず状況を整理しろ。


 俺は渋谷にいた。

 雨が降っていた。

 電話が鳴った。

 電話に出た。

 光った。

 気づいたら、変な渋谷にいた。


 整理しても、何ひとつわからなかった。


「夢か?」


 自分の頬をつねってみる。


 痛い。


 夢ではない。


 では何だ。


 革命か。


 いや、革命で車は丸くならない。


 俺は路地を出ようとして、ふと足を止めた。


 ガラス窓に、自分の姿が映っていた。


 ロン毛。

 フレアパンツ。

 バンのジャケット。

 煙草をくわえた、いつもの俺。


 少なくとも俺は変わっていない。


 変わったのは、渋谷の方だ。


「渋谷も物騒になったもんだな」


 そうつぶやいた時だった。


 少し先の路地から、女の声がした。


「やめてください」


 俺は顔を上げた。


 声のした方を見る。


 若い女が、男二人に囲まれていた。


 男たちはだらしない格好をして、へらへら笑っている。

 片方は金髪。

 もう片方は缶を持っている。


「いいじゃん、ちょっとだけ」


「連絡先教えてよ」


 連絡先?


 何の話だ。


 だが、そんなことはどうでもよかった。


 女が嫌がっている。

 男が二人で囲んでいる。

 それだけわかれば十分だった。


 俺は煙草を口から外した。


 腹が立っていた。


 朝からずっと腹が立っていたが、今の腹の立ち方は少し違った。


 教授の理屈でも、食堂の飯でも、買えないレコードでもない。


 もっと単純で、もっとまっすぐな怒りだった。


 俺は路地の入口に立った。


「おい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ