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第一話 渋谷でじいちゃんを拾った

 夢の中のおじいちゃんは、いつも少しだけ若い。

 白髪は、僕が最後に見た頃より少なくて、背中もまだ丸まっていない。けれど、笑い方だけは僕の知っているおじいちゃんのままだった。目尻にしわを寄せて、世界中の失敗を全部ゆるしてくれるみたいに笑う。


「アオ」


 おじいちゃんが僕の名前を呼ぶ。


 夢の中の僕は、まだ小学生だった。膝をすりむいて、ランドセルを背負ったまま、道路の端で泣いている。何で泣いていたのかは覚えていない。友達にからかわれたのかもしれないし、先生に怒られたのかもしれない。


 ただ、胸の奥がきゅっと小さくなって、誰にも見つかりたくなかったことだけは覚えている。


 そんな僕の頭に、おじいちゃんの手が乗った。


 大きくて、あたたかくて、少しだけ煙草の匂いがする手だった。


「おまえは優しい子だからな」


 その言葉を聞くたびに、僕は安心した。


 泣いてもいい。怖がってもいい。逃げてもいい。

 それでも僕は、悪い子じゃないんだと思えた。


 だけど、大学生になった今の僕は、時々思う。


 優しいって、ただ弱いだけなんじゃないか。


 目が覚めると、六畳の部屋の天井があった。


 スマホのアラームが枕元で震えている。画面には午前八時二十分。講義は九時から。三田のキャンパスまで、どう考えても余裕はない。


「……やば」


 僕は布団から起き上がった。


 けれど、すぐには動けなかった。


 夢の中の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 おまえは優しい子だから。


 そう言ってくれたおじいちゃんは、もういない。


 亡くなってから何年も経つのに、僕はまだ、ときどき夢に見る。


 忘れたいわけじゃない。

 でも、思い出すたびに胸が少し重くなる。


 たぶん僕は、おじいちゃんが思っていたほど優しい人間じゃない。


 優しいんじゃなくて、ただ怖がりなだけだ。


 僕は洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分を見た。


 寝ぐせ。薄い顔。覇気のない目。

 どこからどう見ても、大学の陽キャ集団に混ざれるタイプではない。


「……今日も無理せず生きよう」


 朝から目標が低すぎる。


 でも、僕にとってはそれくらいがちょうどよかった。


     *


 大学という場所は、思っていたよりもずっと自由で、思っていたよりもずっと残酷だ。


 誰といてもいい。

 どこに座ってもいい。

 一人でいてもいい。


 つまり、一人でいることがごまかせない。


 教室に入ると、すでに何人かのグループができていた。前の席では男女数人が昨日の飲み会の話をしている。後ろの席ではスマホゲームの画面を見せ合って笑っている。


 僕はいつものように、真ん中より少し後ろ、端から二番目の席に座った。


 目立たない。

 でも、完全に孤立しているようにも見えない。


 そういう、誰にも気づかれない場所を選ぶのだけは得意だった。


「アオ、おはよ」


 突然、明るい声が降ってきた。


 顔を上げると、ハルカが立っていた。


 肩のあたりで軽く巻いた髪。派手すぎないけど目を引く服。白いスニーカー。小さなピアス。いつもなぜか、昨日より少しだけおしゃれに見える。


 僕の従姉で、同じ大学に通っている。


 そして、僕とはまったく違う種類の人間だ。


「……おはよう」


「声ちっさ。朝の蚊?」


「蚊ではない」


「じゃあ、元気ない人間?」


「それは合ってる」


 ハルカは僕の隣の席に、当然みたいに座った。


 その瞬間、前の席の男子がちらっとこっちを見る。

 たぶん、こう思っている。


 なんであいつの隣にハルカが座るんだ?


 僕も同じことを思っている。


「昨日、ちゃんと寝た?」


「寝たよ」


「ほんとに?」


「寝た。夢は見たけど」


「怖いやつ?」


 僕は少し迷ってから、首を横に振った。


「おじいちゃんの夢」


 ハルカの表情が、ほんの少しだけやわらかくなった。


「そっか」


「うん」


「アオ、まだたまに見るんだね」


「まあ……たまに」


 それ以上、ハルカは聞かなかった。


 ハルカのそういうところが、僕は少し苦手で、少しありがたい。


 明るいのに、踏み込んではこない。

 距離の取り方がうまい。


 僕が人と話す時、いつも一歩引いてしまうのに、ハルカは最初からその一歩分を知っているみたいだった。


「今日、講義終わったら渋谷行かない?」


「なんで?」


「なんでって、服見たいから」


「一人で行けば」


「ひど。従姉に対して冷たくない?」


「ハルカなら一人でも友達百人くらいいるでしょ」


「百人はいない。八十人くらい」


「怖い」


「冗談だよ」


 たぶん、半分くらい本当だと思う。


 僕は人間関係を広げるのが苦手だ。

 ハルカは人間関係が勝手に広がっていくタイプだ。


 同じ大学生なのに、住んでいる世界が違う。


 でも、ハルカはなぜか僕に話しかけてくる。


 昔からそうだった。


 親戚の集まりでも、僕が部屋の隅で漫画を読んでいると、ハルカだけが隣に来て「何読んでるの」と聞いてきた。

 僕が答えに困っても、急かさずに待ってくれた。


 その優しさが、たまに痛い。


 僕はハルカの方を見ないまま言った。


「……講義終わったら、少しだけなら」


「よし。決まり」


 ハルカは笑った。


 その笑顔を見て、僕は少しだけ視線をそらした。


     *


 夕方の渋谷は、人間の量がおかしい。


 スクランブル交差点を渡る人の波を見ていると、東京という街が巨大な生き物みたいに思える。全員がどこかへ向かっていて、全員が誰かとつながっていて、僕だけが間違ってここに落ちてきたみたいな気分になる。


「アオ、歩くの遅い」


「人が多い」


「渋谷だからね」


「渋谷って、人を多くする法律でもあるの?」


「ないよ」


 ハルカは笑いながら、僕の少し前を歩く。


 僕はその後ろを、はぐれないようについていった。


 古着屋を何軒か回って、ハルカは楽しそうに服を見ていた。僕は服の良し悪しなんてよくわからないので、だいたい「いいと思う」と言っていた。


「アオ、それ全部同じ感想じゃん」


「でも本当にいいと思ってる」


「どこが?」


「……布として」


「服を布っていうヒト、ホントにいるんだ」


 ハルカは呆れたように笑った。


 その帰り道だった。


 少し細い路地の方から、女の子の声が聞こえた。


「やめてください」


 僕の足が止まった。


 ハルカも振り返る。


 路地の奥に、大学生くらいの女の子がいた。その前に、明らかに面倒くさそうな男が二人。金髪に黒いジャージ。片方は缶チューハイを持っている。


「いいじゃん、ちょっとだけ」


「連絡先教えてよ」


「急いでるので」


「だから、ちょっとだけって言ってんじゃん」


 女の子は困ったように後ずさっていた。


 僕の胸が、嫌な音を立てた。


 助けた方がいい。


 そう思った。


 でも、足が動かなかった。


 男たちは僕より背が高い。声も大きい。たぶん、近づいたら睨まれる。何か言ったら、笑われるかもしれない。殴られるかもしれない。


 頭の中で、いろんな言い訳がものすごい速さで並び始める。


 誰かが通報するだろ。

 ハルカを危ない目に遭わせるわけにはいかない。

 僕が行っても何もできない。

 余計にこじれるかもしれない。


 心臓がうるさい。


 ハルカが僕を見た。


「アオ」


 その声は、責めているわけではなかった。


 でも、僕は責められた気がした。


 助けたい。

 助けたいのに。


 僕は一歩も動けない。


 おじいちゃんの声が、また頭の奥で響いた。


 おまえは優しい子だから。


 違う。


 僕は優しくなんかない。


 ただ、怖いだけだ。


 その時だった。


「おい」


 路地の入口に、聞いたことのない声が響いた。


 いや、声そのものは聞いたことがない。

 でも、妙に懐かしい響きがあった。


 僕とハルカが振り向く。


 そこに、一人の男が立っていた。


 ロン毛だった。


 今どきの美容室で整えたロン毛じゃない。

 風と思想だけで伸びたようなロン毛だ。


 裾の広がったフレアパンツ。派手なシャツ。古そうなバンのジャケット。なのに不思議なくらい汚れていない。古着屋に飾ってあるヴィンテージ品を、そのまま人間にしたみたいだった。


 男は口の端に煙草をくわえていた。

 ただし、火はついていない。


 雰囲気だけが、妙に古かった。


 男二人が振り返る。


「あ? なんだよ、あんた」


 ロン毛の男は、ゆっくり煙草を口から外した。


「女ひとり囲んで、でけえ面してんじゃねえよ」


 声がでかい。


 路地の空気が一瞬で変わった。


 金髪の男が笑う。


「なに? 昭和?」


「いまも昭和だろうが!」


「いや、何言ってんの?」


「何言ってんのはこっちの台詞だ。女に絡む暇があるなら、汗かいて働け、バカヤロウ!」


 言っていることは、たぶん正しい。


 ただ、言い方が完全に面倒くさい。


「うっざ」


 金髪の男がロン毛の胸を押した。


 次の瞬間。


 ロン毛の男は、相手の腕をぐいっとつかみ、そのまま妙に古臭い動きで投げ飛ばした。


「うわっ!」


 金髪が地面に転がる。


 僕は思わず声を出した。


「えっ」


 何あれ。


 合気道?

 柔道?

 それとも昭和?


 もう一人の男が殴りかかる。


 ロン毛はそれを避けようとして、普通に少し当たった。


「いってえ!」


 強いのか弱いのかわからない。


 でも、怯んではいなかった。


「この野郎、本気で殴ってきやがったな!」


「先に投げたのお前だろ!」


「押したのはそっちだろうが!」


「押しただけだろ!」


「男が一度手ぇ出したら、あとは覚悟の問題なんだよ!」


「意味わかんねえよ!」


 男たちが叫ぶ。


 ロン毛も叫ぶ。


 路地は一瞬で、助け合いの現場から、よくわからない昭和の喧嘩会場になった。


 女の子はその隙に逃げ出した。

 ハルカがすぐに駆け寄って、女の子を安全な方へ誘導する。


 僕だけが、その場に固まっていた。


 何もできなかった僕の前で、変な男が殴られながらも立っている。


 怖くないのだろうか。


 いや、たぶん怖いはずだ。

 だってさっきから普通に痛がっている。


 それでも、引かない。


「おい、そこの青白いの!」


 突然、ロン毛が僕を見た。


 青白いの。


 たぶん僕のことだ。


「突っ立ってねえで、人呼べ!」


「あ、はい!」


 僕は慌ててスマホを取り出した。


 その瞬間、ロン毛の男の目がスマホに釘付けになった。


「なんだそれ!」


「え?」


「薄いテレビか!?」


「今?!」


 殴り合いの最中に、スマホに驚いている。


 その隙に、金髪の男がまた掴みかかった。ロン毛は「おっと」と言いながら身をかわし、今度は足を引っかけて転ばせた。


 強い。


 いや、やっぱり変だ。


 結局、男二人は「マジだりい」とか「警察とかないわ」とか言いながら逃げていった。


 ロン毛の男は、路地の真ん中で肩で息をしていた。


「まったく……渋谷も物騒になったもんだ」


 僕はスマホを握りしめたまま、何も言えなかった。


 ハルカが戻ってくる。


「女の子、大丈夫そう。友達呼ぶって」


「そ、そっか」


 ハルカはロン毛の男を見た。


「助けてくれて、ありがとうございます」


 ロン毛の男は、ハルカを見た。


 その瞬間、固まった。


 本当に、石になったみたいに動かなくなった。


 さっきまであんなにうるさかったのに、急に黙った。


 ハルカが首をかしげる。


「あの?」


「……まゆみ」


 男が小さくつぶやいた。


「え?」


「いや……違う。似てるだけか」


 ロン毛の男は、なぜか胸を押さえた。


 そして、真剣な顔でハルカに言った。


「君、名前は?」


「ハルカですけど」


「ハルカさん」


「はい」


「もしよろしければ、僕と喫茶店に行っていただけませんか」


「今?!」


 僕は反射的に叫んでいた。


 自分でも驚いた。

 今日一番大きな声だった。


 ロン毛の男が僕を見る。


「なんだ、青白いの。お前、この子のなんだ」


「い、従弟です」


「いとこか。なら問題ない」


「問題あります!」


 ハルカは口元を押さえて笑っている。


「アオ、声出るじゃん」


「今そこじゃない」


 ロン毛の男は、今度は僕の手元のスマホをじっと見た。


「それ、さっきの薄いテレビだな」


「スマホです」


「すまほ」


「携帯電話です」


「電話? それが?」


 男は心底驚いた顔をした。


「電話ってのは黒くて重くて、ジーコジーコ回すもんだろ」


 僕とハルカは顔を見合わせた。


 変な人だ。


 ただの変な人じゃない。

 時代ごと間違えているタイプの変な人だ。


 ハルカが恐る恐る聞いた。


「あの、もしかして……撮影とかですか?」


「撮影?」


「映画とか、ドラマとか」


「俺はそんな浮ついたもんじゃねえ」


 ロン毛の男は胸を張った。


「三田の学生だ。今日は仲間と議論して、それから渋谷でレコードを見る予定だった」


「三田?」


 僕は少しだけ反応した。


「大学、三田なんですか?」


「おう」


「僕たちもです」


「おっ、慶應ボーイか! それにしちゃあ、ずいぶん芋くせえな。飯食ってんのか、お前」


「初対面でそこまで言います?」


「悪口じゃねえ。感想だ」


「悪口よりひどい」


 ロン毛の男は満足そうにうなずいた。


 そのうなずき方が、妙に偉そうだった。


「じゃあ、あなたは今、大学生なんですか?」


「そうだ。なんだ? フーテンにでも見えたか?」


「フーテン????」


 僕とハルカの声が、きれいに重なった。


「なんだよ。フーテンも知らねえのか」


「いや、言葉としては聞いたことあるけど、日常会話で使ってる人は初めて見ました」


「変なこと言うな。お前ら、ほんとに慶應か?」


「フーテンを知らないと慶應を疑われるんですか?」


「当たり前だ。言葉を知らねえ学生なんざ、看板だけのインテリだ」


「急に説教始まった」


「何年生ですか?」


「二年だ」


「年齢は?」


「二十歳」


 僕とハルカは、また顔を見合わせた。


 二十歳。

 たしかに、よく見れば若い。


 でも、言葉遣いと態度と煙草の匂いだけが、妙に古い。


 ハルカが小声で言う。


「アオ、この人やばくない?」


「たぶん、けっこうやばい」


「でも悪い人じゃなさそう」


「それが一番困る」


 ロン毛の男は、僕たちの会話など気にせず、きょろきょろと周囲を見回していた。


「しかし、渋谷も変わったな」


 僕の背中に、少しだけ冷たいものが走った。


「変わった?」


「ああ。看板がやたら光ってるし、車は丸っこいし、女はみんなズボン履いてるし」


「ズボンって」


「それに、さっきから若いやつらがみんな、薄いテレビを持って歩いてる」


「スマホです」


「すまほってのは、何なんだ」


「だから携帯電話です」


「そんなわけあるか。電話が板になるかよ」


 この人は、本気で言っている。


 冗談でも、演技でもない。


 そう思った瞬間、僕の胸がざわついた。


 ありえない。

 そんなこと、あるわけがない。


 だけど、ありえないと思うには、この男はあまりにも本気すぎた。


 僕は恐る恐る聞いた。


「あの……名前、聞いてもいいですか?」


 ロン毛の男は、ジャケットの襟を正した。


 なぜかそこだけ、妙にきちんとしていた。


「石川だ」


 心臓が、変な跳ね方をした。


 石川。


 僕と同じ名字。


 いや、珍しい名字ではない。

 同じ大学に石川くらいいる。


 そう思おうとした。


 でも、男は続けた。


「石川ヨシオ。法学部二年。二十歳だ」


 僕の息が止まった。


 ヨシオ。


 それは、僕のおじいちゃんの名前だった。


 亡くなった祖父の名前。


 石川ヨシオ。


 僕はロン毛の男を見た。


 若すぎる。

 似ていない。

 いや、でも。


 目元。

 笑い方。

 声の奥にある、妙な懐かしさ。


 煙草の匂い。


 僕の頭の中で、ありえない可能性が形になっていく。


 ロン毛の男は、僕の顔をのぞきこんだ。


「どうした、青白いの。幽霊でも見たような顔して」


 僕は声を絞り出した。


「……おじいちゃん?」


 ハルカが「え?」と言った。


 ロン毛の男は眉をひそめた。


「誰がじいちゃんだ、バカヤロウ」


 その「バカヤロウ」の言い方まで、生前のおじいちゃんに似ていた。


 僕はその場に立ち尽くした。


 渋谷の路地で、僕はたぶん、ありえないものを拾った。


 若い頃のおじいちゃんを。


 しかも、ものすごく面倒くさそうなやつを。

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