1.北棟の令嬢
「お前は北棟から出るな」
幼い時、父にそう告げられてからずっと、リシェル・アルヴェインは侯爵家の令嬢でありながら、屋敷の北棟で一人暮らしていた。
今日も侍女のマリーが、淡々と食事を運んでくる。
「お食事をお持ちしました」
「ありがとうございます」
だが会話はそれだけ。侍女はいつも、必要以上には近づこうとせず、会話も、リシェルと目を合わせることもなく用事を済ませると去っていく。
ーー呪われた令嬢。
屋敷の使用人達は陰でリシェルの事をそう呼んで恐れていた。
家族ですら、ここには寄りつかない。誕生日さえも。リシェルはいつもいつも1人で過ごしていた。
幼い頃は傷ついていた。なぜ皆が自分を避けるのか、なぜ誰も会いに来てくれないのか、なぜここから出てはダメなのか。
誰にも頼れず、甘えることも出来ず、味方は誰もいない。本当に、ずっと苦しかった。何度も何度も何度も家族に会いたいと願った。
せめてお誕生日くらい、会いに来てほしかった。お祝いして欲しかった。夜会にも出てみたかったし、抱きしめて欲しかった。妹のセレナは皆に愛されているのにーー!
…けれど、段々と気づいてきた。期待しなければ傷つかない。誰にも求められないのなら、一人で静かに生きればいい。私には本と薬草がある。誰もいなくても平気。いつからか、リシェルのほうも、誰にも何も求めなくなっていた。
リシェルはぼんやりと窓を見つめた。
今夜は侯爵家主催の夜会だ。だが長女であるリシェルの席だけは、最初から用意されていない。
妹のセレナは“侯爵家の宝石”と呼ばれ、王都中から愛されている。だが同じ侯爵家の娘であるリシェルは、人前に出ることすら許されなかった。
「…セレナは、綺麗になりましたかね」
最後に会ったのはいつだったか、全く思い出せない。
◇
昼過ぎ。
リシェルはいつものように庭園の隅にある薬草畑へ向かっていた。北棟の裏庭はほとんど人が来ない。だから、好きだった。静かで落ち着く。
しゃがみ込んで薬草を摘み取っていると、不意に足音が聞こえた。
「…珍しいな」
低く落ち着いた男の声。
リシェルが顔を上げると、そこには見知らぬ青年が立っていた。
陽光を受けて輝く銀髪。騎士服に、整った顔立ち。
彼はリシェルを見るなり、不思議そうに眉を上げた。
「使用人か?…随分と痩せているな」
「…え?」
「北棟に人がいたとはな」
…使用人。
そう思われたことは何度かある。だが彼は悪意なく言っているようだった。
リシェルは慌てて立ち上がり、スカートの端を摘まむ。
「申し訳ありません。すぐに下がります」
「いや、待て」
青年は彼女を止めた。
「君、名前は?」
「リシェルです」
「姓は?」
一瞬だけ迷う。だが隠す必要もない。
「……アルヴェイン」
青年の目が見開かれた。
「アルヴェイン? 侯爵家の?」
「はい」
「…長女の?」
リシェルは静かに頷く。
青年は露骨に絶句した。
無理もない。
社交界では『アルヴェイン侯爵家の長女は病弱で人前に出られない』ことになっている。実際には、ただ隠されているだけなのだが。
「失礼しました」
リシェルは小さく頭を下げる。
「驚かせてしまって」
「いや……」
青年は困惑したように頭を掻いた。
「普通そこは怒る場面じゃないのか」
「慣れていますので」
その言葉に、彼の表情が曇る。
「……そうか」
気まずい沈黙。
やがて青年は咳払いした。
「俺はクラウス・ディアネル」
その名前に、リシェルは目を見開いた。
王国騎士団副団長。若くして数々の武勲を立てた名門公爵家の嫡男、社交界でも有名な人物だ。
「も、申し訳ありません……!」
リシェルは慌てて頭を下げた。
「副団長閣下とは知らず失礼をーー」
「だから何で謝る」
「え…?」
「君は、何も悪くないだろう」
真っ直ぐに言われて、リシェルが言葉を失っていると、クラウスがじっと彼女を見つめていることに気づく。
その視線に、リシェルは逃げ出したい衝動にかられ落ち着かない。なぜならそれは、嫌悪ではなく、軽蔑でもない。
むしろ――今までに見たことがない、心配するような目だったから。
「君は」
クラウスが低く言う。
「どうしてそんなに、怯えた顔をするんだ」
リシェルは息を呑んだ。まるで心の奥を見透かされたようだった。慌てて目を逸らす。
「……、気のせいです」
「気のせいには見えない」
「副団長閣下」
「クラウスでいい」
「ですが」
「敬語もいらない」
「無理です……」
思わずそう返すと、クラウスは小さく笑った。その笑みは驚くほど柔らかかった。
リシェルの胸が、不意にざわつく。知らない感覚だった。
◇
その日の夜。
クラウスは侯爵との会談を終えたあとも、ずっとリシェルのことを考えていた。
「……怯えすぎだろ」
北棟にいた少女の、侯爵令嬢とは思えないほど質素な服。細すぎる身体に諦めたような笑み。
あれが本当に、名門アルヴェイン侯爵家の長女なのか…?社交界で聞く話と、まるで違う。
クラウスは眉を寄せた。侯爵夫妻は娘の話になると、どこか不自然だった。触れてはいけないものを避けるような空気。
だが虐待している人間の態度にも見えない。
むしろーー。
思い返すのは、侯爵夫人の沈んだ表情。
何かがおかしい。クラウスの直感がそう告げていた。
そして、もう一つ。
リシェルのあの瞳が、頭から離れなかった。




