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第壱話 宵書堂 第三幕

 待っていたかのように、蝉時雨が鳴り出した。

 徳右衛門は、しばらく黙っていた。唇が震えている。


「……なぜ、わかる」


 男は答えない。ただ待っている。


 やがて、徳右衛門がゆっくりと面を上げた。まるで何かに操られているかのように。そして、絞り出すような声が漏れる。


「……十五年前の話だ」


 男は何も言わない。ただ、ゆっくり一度頷いた。


「わしが店を継いだばかりの頃、金が合わなくなったことがあった。たいした額じゃない。しかし、店主として初めての不祥事だった。何としても犯人を見つけねばならんと思った」


 声が、かすかに震えている。


「わしは……ろくに調べもせず、新参の小僧を疑った。名は、権助といった。十二の、まだ子供だった」


 蝉時雨が、耳に痛い。


「あの子は本が好きでな。仕事の合間に、よく読んでおった。『浮世風呂』を読んでは、ひとりで声を殺して笑っておった」


 徳右衛門の声が詰まった。


「番頭に厳しく問い詰めさせた。その夜――権助は、川に身を投げた」


 お蜜は、知らず手を口元に当てていた。


「金は後で出てきた。番頭の勘定違いだった。わしは、自分の早合点で、十二の子供をひとり、殺したんだ」


 徳右衛門の肩が小刻みに揺れている。白髪の頭が、がくりと垂れた。


「十五年、誰にも言えなんだ。倅にも、女房にも。聖人だ、人格者だと言われるたびに、腹の底が凍えた」


 男は、黙って聞いている。頭巾の影の中で、口元だけが笑っている。その笑みは――変わらない。何も変わらない。


「先月、女房が死んだ。ひとりになって、ふと、あの本のことを思い出した。権助が読んでいた、あの本のことを」


 徳右衛門が顔を上げた。赤い目が、男を見ている。


「探した。古本屋を回り、貸本屋に聞いて回った。けれど見つからなかった。諦めかけていたところに――あんたが現れた。権助の本を持って」


 貸本屋の声は、あくまでも穏やかだった。


「『浮世風呂』の中に、人殺しの旦那を女どもがさんざんにこき下ろす場面がございますね」


 徳右衛門の目が見開かれる。


「そう……そうだ。読んだとき、笑えなかった。しかし、笑いたかった」


 声が震える。


「あの女どもの口で、『よくも聖人面しやがって、この人殺しが』と、思い切り罵られたかった。笑い飛ばしてほしかったんだ。わしの罪を。わしという人間を。権助が読んでいたあの本で」


 参道を行く人々の声が、どこか遠い世界のもののように聞こえる。


 お蜜は動けなかった。息をするのも忘れていた。


 § § §


 男が、ゆっくり動いた。

 背負い箱の蓋に手をかける。紐を解き、蓋を持ち上げる。


 古い紙と糊と、ほんのり黴の混じった匂いが、むわりと立ち昇った。夏の空気に溶けて、お蜜の鼻をくすぐる。


 箱の中には、和綴じの本がぎっしり詰まっていた。何十冊、いや百冊近くあるだろうか。背表紙が擦り切れ、角が黒ずんだ本たち。何人もの手を渡り、何人もの目を通ってきた本たち。


 男が、一冊を取り出した。


 『浮世風呂』


 表紙は手垢で黒ずみ、角は擦り切れている。男はそれを、両手で持った。丁寧に、恭しく。まるで神棚に供えるもののように。


「本とは畢竟、毒や薬と同じでございましてね」


 穏やかな声だった。穏やかな笑みだった。


「毒にもなれば、薬にもなる。どちらになるかは――」


 ゆっくりと、本を差し出した。


「読む方次第でございます」


 徳右衛門が、震える手でそれを受け取った。

 頁をめくる。一枚、二枚。そして――手が止まった。


「……この染みは」


 声が掠れている。


「間違いない。この頁の、この染みは……権助が読んでいた本だ。あの子の本だ」


 お蜜には何のことかわからなかった。けれど、徳右衛門の顔が崩れていくのは見えた。


「三日で、お返しいただければ」


 それだけだった。

 ただ、本を渡しただけ。

 お蜜は、その場面を――声も出せずに見つめていた。


 § § §


 徳右衛門は、深々と頭を下げた。


 何か言いかけて、結局は言葉にならず、ただ本を胸に抱いて立ち去っていった。その背中が人混みに消えるまで、お蜜はじっと見送った。


 ふと、視線を感じた。


 振り返ると――男が、こちらを見ていた。


 頭巾の影から、糸目がお蜜を捉えている。穏やかに、笑っている。けれど――その目には何も映っていない。お蜜を見ているのに、お蜜を見ていないような。


「お嬢さん」


 声をかけられて、お蜜は飛び上がりそうになった。


「豆吉屋さんの看板娘でいらっしゃいますね」


「は、はい……」


「本が、お好きだそうで」


「……さっき言いましたよ、あたし」


 お蜜は眉を寄せた。なんだか、からかわれているような気がする。


「ねえ、あんた何者なのさ。さっきのだって、なんで徳右衛門さんのこと、あんなに分かるの」


 男は答えない。ただ、頭巾の影の中で、口元だけが笑っている。


「手を見ただけで、全部分かるなんておかしいでしょう。それに――」


 お蜜は一歩踏み出した。


「あの本、貸すつもりなかったんでしょ。なのになんで貸したのさ」


 男が、ふっと笑った。口元だけで。目は笑っていない。


「さて。どうでございましょうね」


「答えになってないよ」


「ええ。なっておりませんね」


 飄々と、男は背負い箱を担ぎ直した。


「またお会いすることもあるでしょう」


 では、そう言って、歩き出す。参道を行く人々の間を、ゆっくりと。


「ちょっと、待ちなさいよ!」


 お蜜は声を上げたが、男は振り返らない。

 頭巾の男。顔の見えない貸本屋。箱には墨痕淋漓と宵書堂の屋号が描かれている。

 人混みに紛れて、その背中はあっという間に見えなくなった。


「……なんなのさ、あの人」


 お蜜は呆れたように呟いた。けれど、胸の奥がざわついている。

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