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第壱話 宵書堂 第一幕

「――お貸しできかねますね」


 おかしな話だ、とお蜜は小首を傾げる。

 貸本屋なのに、本を貸せないとは。


 § § §


 文政の夏。雑司が谷、鬼子母神の参道に、俄雨が降りていた。酷暑であったが、この雨により少しは涼しくなるのかしら、とお蜜は空を仰ぐ。空の天気まで気まぐれなこの時期は、豆吉屋でも特に忙しい。


 豆吉屋は、鬼子母神の参道に店を構える茶屋である。参拝客に茶と団子を出し、夏は甘酒、冬は葛湯も商う。名物は力団子。醤油と砂糖の甘辛いたれが評判で、参道の中ほどに来ると香ばしい匂いが漂ってくる。


 小柄で丸顔、猫の目のようによく動く目。感情がそのまま顔に出る娘だった。愛らしい、と町内でも評判で、豆吉屋に寄る客の半分はお蜜目当てだと父は笑う。十五になる看板娘である。


 参道は賑わっていた。

 俄雨が上がったばかりで、軒先から雫が落ちている。それでも人の流れは途切れない。

 甘酒売りが「あーまざけ、あまざけ」と声を張り上げ、飴細工屋の前には子供たちが群がっている。線香と蝋燭の匂い。団扇を扇ぎながら歩く女たち。托鉢僧の鉦の音。参拝帰りの人々が、濡れた石畳を踏んで行き交う昼下がり。


 豆吉屋は、その参道のちょうど中ほどにあった。

 間口二間の小さな茶屋。赤い毛氈を敷いた縁台が三つ。奥では父が団子を焼き、醤油と砂糖の焦げる匂いが絶えず漂っている。


「お蜜ちゃん、こっちにも茶をくれえ」


「はいはい、今行きますよ。源さん、そんなに急かさないでよ」


 常連の左官屋が手を振っている。お蜜は盆を持ったまま器用に人をかわし、縁台へ茶を運んだ。


「暑いねえ、今日は。雨が降っても涼しくならないんだから」


「お蜜ちゃんの顔見たら涼しくなったよ」


「もう、源さんったら。団子もう一皿いる?」


「いらねえよ、腹がくちくなっちまう」


 軽口を叩きながら、お蜜はくるくると動き回る。茶を出し、団子を運び、空いた皿を下げ、また茶を注ぐ。

 父は「よく動く」と褒めてくれるが、動いていないと気が済まないだけだ。じっとしているのは性に合わない。


「お蜜、そっちの客にも」


 父の声がした。振り返ると、いつの間にやら、縁台の端に新しい客が座っている。


 おかしいな? お客さんが来たらすぐに気がつくのだけれど、とお蜜は小首を傾げる。


 頭巾を目深に被った男が、縁台に座っていた。

 背が高く、細身で、鼠色の着物を纏っている。地味で上品。傍らには大きな木箱が置かれていた。縦二尺、横一尺五寸ほどもある、貸本屋の背負い箱。


 貸本屋とは、本を売るのではなく貸す商売である。一冊買えば百文、二百文もする本を、四文から十二文で借りられる。だから庶民にも物語が届く。背負い箱を担いで町を巡り、得意先を回るのが彼らの仕事だった。

 愛想がよくて口が達者、どこの家にも上がり込んで世間話をしながら本を勧める。それが貸本屋というものだ。


 だが――この男は違う。

 無口で、静かで、妙に品がある。貸本屋にしては上等すぎる着物。見たことのない男だ。この界隈の貸本屋は、お蜜は全員知っている。


 男が団子に手を伸ばした。串を取り、頭巾の影の中へ運ぶ。

 口元だけが見える。穏やかに、微笑んでいる。


「美味でございますね」


 柔らかい声だった。お蜜は思わず頬を緩める。


「ありがとうございます。うちの名物なんですよ、力団子」


 お蜜はつい胸を張った。褒められると調子に乗る性分なのだ。


「ええ、存じております。この界隈では評判だと」


 男の背負い箱から、古い紙と黴の匂いが漂ってくる。何十年、何百冊という本が抱え込んできた匂い。それが夏の空気に混じって、お蜜の鼻をくすぐった。


 ――あ、この匂い。


 お蜜は思わず身を乗り出した。


「ねえ、貸本屋さんでしょう? 何かいい本あります? 新しいの入ってたりしない?」


 男が団子を持つ手を止めた。頭巾の影から、口元だけが見える。ほんの少し、笑みが深くなった気がした。


「お嬢さんは、本がお好きで」


「好きですよ、大好き。父には呆れられてるけど」


 お蜜は縁台の端に腰を下ろした。客に馴れ馴れしいと父に叱られるが、本の話となると止まらない。


「最近何か面白いのあった? 滑稽本でも読本でも、何でもいいんだけど」


「さて」


 男は団子の串を置いた。


「面白い、の定義は人それぞれでございますからね」


「えー、なんです、それ! はぐらかさないでくださいよ」


 お蜜が頬を膨らませたとき――


「そこの貸本屋さん、そうあんただ、あんた」


 声がした。振り返ると、白髪の老人が立っている。


 藍玉屋徳右衛門。

 日本橋で太物問屋「藍玉屋」を営んでいた人物で、五十を過ぎて倅に店を譲り、この雑司が谷に隠居所を構えている。町内でも評判の人格者。豆吉屋にも時々顔を出す、穏やかな老人だ。


 その徳右衛門が――頭巾の男に頭を下げている。


「頼む。もう一度、あの本を貸してくれ」


 男は団子の串を置いた。ゆっくりと立ち上がる。


「三度目でございますね、ご隠居」


 声は穏やかだった。


「同じ本を三度。よほどお気に召しましたか」


「気に召したというか……いや、その……」


 徳右衛門が言葉を濁す。男は黙った。ただ、頭巾の影の中で、口元だけが笑っている。


「――お貸しできかねますね」


 お蜜は思わず声を上げた。


「ちょっと、なんでさ? 貸本屋さんでしょうに」


 男が振り返る。頭巾の影から、口元だけが見える。穏やかに笑っている。


「ええ、貸本屋でございますよ」


「だったら貸してやんなさいよ。ご隠居がこんなに頭下げてんのに」


 徳右衛門が驚いた顔でお蜜を見た。余計なことを、という顔だ。けれど口を挟まずにはいられなかった。


「そこを何とか頼む。三日でいい、三日で返すから」


「お貸しできかねます」


 柔らかい声だった。断っているのに、まるで世間話でもしているような響き。


「だから、なんでなのさ」


 お蜜は盆を抱えたまま、男を睨んだ。睨んだつもりだったが、頭巾の影に遮られて目が合わない。

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