第8話:滴る琥珀と、癒やし系の計算違い
「……小林、悪いことは言わない。その誘いは、お前の優しさをドブに捨てるようなものだ。やめておけ」
同僚の河野は、給湯室で小林にそう告げた。
だが、営業部の「自称・癒やし系」こと小林は、雨に濡れた窓を眺めながら優しく微笑んだ。
「河野さん、これまでのみんなは『攻めすぎ』だったんですよ。高級店や派手な店で彼女を口説こうとするから、肉食な彼女に気圧されてしまう。……今日は雨だ。疲れた仕事帰りに、『軽く焼き鳥でもつまんで帰りませんか?』っていう、このさりげない優しさ。これこそが、彼女の心の隙間にスッと入り込む正解なんです」
小林の作戦は、ガードを下げる「庶民派デート」だ。
立ち飲みの狭い空間、雨の音、そして安くて旨い焼き鳥。この親密な距離感なら、噂の『肉食』な本能も、甘えたい欲求に変わるはずだ……と。
河野は缶コーヒーを飲み干し、力なく首を振った。
「……お前の言う『さりげなさ』が、彼女にとっては『肉への純粋な集中』を助けるノイズカットにならないことを祈るよ」
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小林は、傘を差して退社しようとする久我みさきに、柔らかいトーンで声をかけた。
「久我さん、お疲れ様。……雨、ひどいね。もしよければ、駅前のガード下で軽く焼き鳥でも食べていかない? あそこ、狭いけど味は確かだから」
みさきは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「……焼き鳥。いいですね。実は私、今夜は『鶏』の気分だったんです。小林さん、意外と鋭いですね」
小林は「勝った」と確信した。このナチュラルな承諾。今夜、彼女の『肉食』な噂を、自分だけの甘い記憶に塗り替えてみせる。
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行き先は、煙がもうもうと立ち込める立ち飲み焼き鳥『炭平』。
肩が触れ合うほどの狭いカウンター。小林は、雨の湿気と焼き鳥のタレの匂いが混じり合うこの空間が、二人を近づけると信じて疑わなかった。
「久我さん。ここは、タレが絶品なんだ。まずは適当に焼いてもらおうか。大将、とりあえず盛り合わせを——」
「——大将、すみません。指定してもいいですか?」
みさきの声が、店の喧騒を貫いた。
彼女の瞳は、カウンターの奥で串を操る頑固そうな店主を射抜いていた。
「まずは『せせり』を塩で。それから『ソリレス』があればタレで。あと、レバーは中心温度を六十五度で止めてください。余熱で血が固まらないうちに提供してほしいんです」
店主の手が止まった。
「……嬢ちゃん、うちは居酒屋だぞ。温度計なんて置いてねえ」
「熟練の職人なら、炭の爆ぜる音と串を伝わる振動でわかるはずです。……小林さん、すみません。私、焼き鳥は『串打ちの美学』が全てだと思っているんです。鶏の命を一本の竹串で再構築する……その覚悟がない店なら、今すぐ出ます」
小林は凍りついた。癒やし系の雰囲気も、親密な距離感も、一瞬で「戦場」の緊張感に塗り替えられた。
「あ、はは……久我さん、そんなに固くならなくても。ここはリラックスして——」
「小林さん、見てください。あの大将の串の打ち方。……鶏の繊維を傷つけず、かつ脂が滴る道筋を計算して打っている。……素晴らしい。あの大将、只者じゃありません。……私、今、心臓がバクバクしています」
「(それ、俺へのドキドキじゃないよな……)」
運ばれてきた『せせり』。
みさきは、小林のグラスとの乾杯もそこそこに、串を手に取った。
彼女は、首の筋肉特有の弾力を、まるでバイオリンの弦を弾くかのように唇で確かめる。
「……んっ……! 絶妙な塩の浸透。炭の香りが、鶏の野生味をドレスアップさせている。……大将! あなた、この鶏を殺す時、感謝の祈りを捧げましたね? 味が……慈愛に満ちています!」
「……へっ。嬢ちゃん、わかるか」
頑固だった店主の顔が、一瞬で緩んだ。
そこからの時間は、小林にとって「透明人間」の刑だった。
みさきは店主と「タレの継ぎ足しによる乳酸菌の活性化」や「備長炭の火力のムラを逆手に取った火入れの極意」について熱弁を交わし始め、小林はただ、冷めていくハイボールを啜るしかなかった。
「小林さん! 食べてください! このレバー! 濃厚なフォアグラを彷彿とさせながら、後味はどこまでも潔い。……これが、江戸の粋、江戸の肉食です!」
「……あ、ああ……美味しいね……」
小林が、震える手で彼女の肩に手を置こうとしたその時。
みさきは、串を掲げたまま、鋭い眼光で小林を制した。
「小林さん、動かないで! 今、この串の先端から脂が落ちる『黄金の瞬間』なんです! その振動で滴りが早まったら、私の口腔内の幸福度が零点五パーセント低下します!」
「……ご、ごめん……」
結局、雨が上がる頃には、みさきと店主は義兄弟のような絆で結ばれていた。
小林の「癒やし」は、肉の脂と共に排水溝へと流され、残されたのは、狭い店内で肩を寄せ合いながらも、精神的に数光年離された絶望感だけだった。
帰り道。
「小林さん、今日はありがとうございました。……雨の日の焼き鳥、最高でしたね。鶏の命と、職人の魂。……私、今日という日を一生忘れません」
みさきは、満足げに微笑んで去っていった。
小林には、その言葉が「お前なんて、ただの『注文取り』のボタンだったな」という宣告にしか聞こえなかった。
翌朝。
営業部には、心に深い傷を負い、焼き鳥の匂いが染み付いたスーツを着た小林の姿があった。
そこへ、河野がやってくる。
「よう、癒やし系。……マドンナのガード、下げられたか?」
「……河野さん。……あいつは、女じゃない。……あいつは、肉の『巡礼者』だ。……俺はただの、巡礼の道端に転がっている石ころだったよ……」
社内の噂は、もはや伝説の域に達した。
『癒やし系の小林、マドンナを立ち飲みに誘うも、店主と肉の議論に夢中になられ、存在を抹消される』
久我みさきは、今日も艶やかな顔で、電話を取っている。
「はい、総務部です。……ええ、昨夜はとっても『串刺し』にされるような夜でした」
彼女が次に「串打ち」にするのは、どの男の、どんな自惚れなのか。




