第12話:いつもの昼下がり、いつものように
「……なあ、久我さん。もしよかったら、今日の昼、食事に行かないか?」
声をかけたのは、入社二年目の若手、佐々木だった。他部署のエースでもなければ、将来を嘱望されるエリートでもない。ただ少し声が大きく、いつも腹を空かせて、午後の仕事のためにエネルギーを充填することに必死な、どこにでもいる若手社員である。
武田や中津、そして瀬戸といった、かつて久我みさきを誘い出し、その芳醇な魅力の前に音もなく消えていった男たちのことなど、彼は露ほども知らない。社内に霧のように立ち込め、今や畏怖の象徴となった「肉食系女子」という不穏な噂についても、彼は「久我さんって、本当に食べるのが好きなんだな。気が合いそうだ」という程度にしか受け取っていなかった。
久我みさきは、山積みにされた総務部の書類から顔を上げ、穏やかな、しかしどこか深く澄んだ微笑みを向けた。
「……お食事、ですか。佐々木君。あのお店、確かランチタイムには限定の厚切りを出すので有名でしたよね」
「そうそう! 数量限定で、なかなかありつけないって評判なんだ。一人で並ぶのもなんだし、久我さんなら喜んでくれるかと思って。どうかな?」
「ええ、ぜひ。ご一緒させてください」
みさきは、極めて手際よくデスクを片付け、バッグを手に取った。その足取りは春の風のように軽く、瞳にはこれから出会うであろう一皿への、純粋で淀みのない期待だけが宿っていた。彼女にとって、それは「デート」という名の社交ではなく、生命の源へと回帰する、敬虔な巡礼にも似た行為だった。
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オフィス街の喧騒に紛れた、活気の溢れる店。
ビジネスパーソンたちの咀嚼音と談笑が混じり合う空間で、二人の前に運ばれてきたのは、網目が芸術的なまでに刻まれ、溢れんばかりの肉汁を表面に湛えた、圧倒的な厚みの一品だった。
「うわあ、すごいな……。これ、絶対に美味いですよ。見てください、この焼き色!」
佐々木は子供のような無邪気さで歓声を上げ、早速ナイフを入れた。
だが、その隣で久我みさきは、静かに、しかし深い祈りを捧げるかのように皿を見つめていた。彼女の脳内では、すでに幾千もの情報の連鎖が始まっている。
「……佐々木君。見てください。この、熱によって細胞の結合が絶妙に解き放たれ、自らの内側に秘めた脂で、自らを黄金色に焼き上げるという、究極の自己完結。……この立ち上る香ばしさは、生命が火という文明と交錯した瞬間の、歴史的なまでの歓喜の叫びです」
「……えっ? ああ、まあ、いい匂いですよね。たまんないです」
佐々木は、みさきが口にした深遠なレトリックを、何一つ理解していなかった。彼はただ、「久我さんは今日も元気で、飯が旨そうだ」と思いながら、勢いよく塊を口に運んだ。
みさきもまた、一切れを口に含んだ。
その瞬間、彼女の背筋がピンと伸び、全身の細胞が微かに共鳴し始める。瞼を閉じ、咀嚼の一回一回に全神経を集中させる。口腔内で繰り広げられるドラマを、一滴の余韻も逃さぬよう、心に刻んでいく。
「……完璧。この脂の融点。……口腔内の熱で、固体から液体へと優雅に変貌を遂げ、甘味となって喉の奥へと滑り落ちていく。……佐々木君、私、今、この生命が歩んできた果てしない一生を、確かにこの舌の上で感じています。これはもはや食事ではなく、対話なのです」
「はは、大袈裟だなあ。でも、本当に美味しいですね。これなら午後も頑張れますよ」
佐々木は、みさきがどのような恍惚の深淵にいようと、それを「単なる食いしん坊のリアクション」として健やかに流し、自分もまた無心に食べ続けた。
そこには、自分を大きく見せようとする野心も、彼女の「化けの皮」を剥ごうとする狡猾な策略も、男としてのエスコートの誇りすら存在しなかった。ただ、目の前の滋養を真っ直ぐに享受し、美味しく食べる、という原初的な光景があるだけだった。
みさきは、佐々木が自分の独白に一切の注意を払っていないことに、一抹の不満も、寂しさも抱かなかった。
彼女にとって、目の前の相手が誰であるかは、もはや些末な問題だった。彼女を衝き動かしているのは、いつだって、白磁の皿の上で待つ「彼ら」との、一対一の、純粋で濃密な対話なのだから。
「ごちそうさまでした。……本当に、素晴らしい体験でした」
食事を終え、店を出る際、みさきは心の底から満たされたように微笑んだ。
佐々木は「喜んでもらえてよかった。また行きましょう!」と明るく笑い、午後の仕事に向けて足早にオフィスへと戻っていった。
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翌朝。
総務部のデスクで、久我みさきはいつものように涼やかな顔で電話を取っていた。
「はい、総務部です。……ええ、いつもお世話になっております」
その背後では、また新しい噂が、主を失った言葉となって囁かれ始めている。
「聞いたか? 昨日の昼、あの若手の佐々木が久我さんと食事に行ったらしいぞ」
「あいつもか……。また一人、毒牙にかかったのか……?」
「いや、それが佐々木の奴、ケロッとしてたんだ。『久我さんと食う飯は最高に旨い』とか言って。……あいつも相当、肝が据わってるのか、それとも……」
噂は、本人の知らないところで勝手に膨らみ、歪み、そして無数に重なっていく。
だが、久我みさきは決して振り返らない。
彼女はただ、窓から見える流れる雲を見つめながら、次の「出会い」を、静かに待っている。
午後の陽光を浴びながら、彼女は手帳の隅に、小さく、しかし力強い、揺るぎない筆跡でこう記した。
——『今夜は、赤身の強い牛を。できれば、鉄分の香りがするもの。』
彼女の「肉食」の日々は、これからも、ただ淡々と、どこまでも純粋に続いていく。




