第11話:血潮の呼び声
「……よせ、瀬戸。悪いことは言わない。あの久我さんは、お前のデータでは測りきれない。やめておけ」
静かに敗れ去った中津が、デスクで力なく忠告した。
だが、広報部の瀬戸は、スマートフォンの画面を操作しながら軽く笑った。
「中津さん、あなたの失敗は慎重すぎたことです。彼女は『肉食系女子』なんだろう? ならば、必要なのは理屈じゃない。もっと直接的で、強い刺激だよ。噂によれば、彼女は誘えば必ず付いてくる。それは彼女が常に何かを求めている証拠だ。俺が彼女に、忘れられない夜をプレゼントしてやるよ」
瀬戸は、同僚たちの敗北を「女の扱いが保守的すぎた結果」だと断じていた。
彼は、業務を終えて席を立とうとする久我みさきに、自信に満ちた笑みを向けた。
「久我さん。今夜、もしよければ僕と食事に行かないか? 君にぴったりの、いい店を予約してあるんだ。……君の期待には応えられると思うよ」
瀬戸は、会員制のジビエ料理店のカードを、慣れた手つきで差し出した。
みさきは一瞬、目を丸くしたが、その店名を見た瞬間に瞳を輝かせた。
「……本当ですか、瀬戸さん! ここ、なかなか予約が取れない店ですよね。ぜひ、ご一緒させてください。瀬戸さんって、お店のセンスが最高ですね」
みさきは、期待に頬を紅潮させ、身を乗り出した。瀬戸はその「美味しい肉に出会える期待」を、当然のように「自分という男への積極性」だと確信した。
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その夜。
都会の喧騒から離れた、静かなダイニング。
瀬戸は、運ばれてきた厚切りの肉を前に、落ち着いた声で切り出した。
「久我さん。ここは、飾り気なんていらない場所だ。あるのは、剥き出しの命のやり取りだけ。……君のような『肉食』な女性には、ふさわしいだろう?」
瀬戸は、テーブルの下で彼女の膝を、強引に引き寄せようとした。
「今夜は、君のすべてを俺に預けてくれないか?」
だが、みさきは瀬戸の指先など、全く意識の外にあるようだった。彼女の瞳は、炭火で炙られ、滴る血を琥珀色の脂に変えていく、網の上の肉塊に釘付けになっていた。
「……瀬戸さん。すごいですね、この生命力。……筋肉の繊維が、熱によって収縮し、閉じ込められていた野性が解き放たれていく。……私、もう、細胞が騒いで止まりません」
「そうか。なら、この後は僕の別荘で、もっと激しく……」
「いいえ、今は一刻も早く、この『魂』を私の肉体に取り込みたいんです。瀬戸さん、申し訳ありませんが、今から一時間は存在を消してください。……今、私の遺伝子が、太古の記憶と共鳴しているんです。……あなたの声は、その邪魔でしかありません」
「……邪魔……?」
そこからの時間は、瀬戸にとって、これまでの経験で味わったことのない屈辱だった。
みさきは、一口食べるごとに「……命を感じる……」と涙ぐみながら独白を繰り返し、瀬戸が用意していた口説き文句も、男としての自信も、すべては骨を噛み砕く音と、彼女の熱狂的な食事の気配に飲み込まれた。
瀬戸は、自分が「マドンナをエスコートする男」ではなく、単に「彼女に肉を与えるためのシステムの一部」であることを、突きつけられていた。
帰り道。
「瀬戸さん、今日はありがとうございました。……命の根源を、改めて知ることができました。……瀬戸さんも、いつかこのお肉のように、誰かの血肉になるような『太い生き方』をされるといいですね。今はまだ……少し飼い慣らされすぎですから」
みさきは、満足げに微笑んで去っていった。
瀬戸には、その言葉が「お前はただの、去勢された家畜だ」という宣告にしか聞こえなかった。
翌朝。
瀬戸は、魂を抜かれたような顔で、中津の元を訪れた。
「……中津さん。……あいつは、女じゃない。……あいつは、肉の審判官だ。……俺はただの、肉を注文するための前座に過ぎなかったよ……」
社内の噂は、もはや一つの定説となった。
『広報部の瀬戸、マドンナを強引に誘い出すも、肉の解説の聞き役にされて終わったらしい』
久我みさきは、今日も涼やかな顔で、電話を取っている。
「はい、総務部です。……ええ、昨夜はとっても密度の高い交渉ができました」




