第10話:噂の深淵と、観察者の誤算
「……よせ、中津。お前は頭がいいが、あの久我さんは、お前が考えているような女じゃない。悪いことは言わん。死ぬぞ」
営業部の本田は、自らのデスクで虚脱したように呟いた。
だが、経営企画部の中津は、眼鏡を指先で押し上げながら冷淡に返した。
「本田さん、あなたの失敗は感情に振り回されたことです。彼女は『肉食系女子』……つまり、本能に忠実なタイプだ。ならば、必要なのはムードではなく、彼女の好奇心を刺激する未知の餌を与え、その反応をコントロールすることですよ。噂によれば、彼女は誘えば必ず付いてくる。それは獲物を常に求めている証拠だ」
中津は、本田の忠告を「実力の伴わない男の負け惜しみ」と切り捨て、総務部へ向かった。
彼は、業務を終えようとしている久我みさきの前に立ち、淡々とした口調で告げた。
「久我さん。今夜、僕と一緒に、ある実証実験を兼ねた食事に行かないか。……君をデートに招待したい」
中津は、最新の熟成技術を謳うダイニングのカードを差し出した。
みさきは一瞬、目を丸くしたが、店の名前を確認した瞬間に瞳に光を灯した。
「……本当ですか、中津さん! ここ、最新の設備を導入しているところですよね? ぜひ! 中津さんのような理知的な方なら、きっと間違いのない店を選んでくださると信じていました!」
みさきは、期待に頬を紅潮させ、身を乗り出した。中津はその「美味しい肉への期待」を、「自分への積極性」だと確信し、冷徹な笑みを浮かべた。
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その夜。
コンクリート打ちっぱなしの、無機質なダイニング。
中津は、運ばれてきた厚切り肉を前に、静かに切り出した。
「久我さん。ここは、ただの食事の場じゃない。……肉が死を迎え、別の生命体へと変貌するプロセスを味わう場所だ。君のような『肉食』な女性には、ふさわしい刺激だろう?」
中津は、テーブルの上で彼女の手に触れようとした。
だが、みさきは中津の言葉など、全く耳に入っていない様子だった。彼女の視線は、皿の上で琥珀色に輝く、熟成された脂身を凝視していた。
「……中津さん。すごいですね。この空気。……菌が、肉のタンパク質をアミノ酸へ……旨味へと変えていく匂いがします。……私、もう、立っていられないかもしれません」
「そうか。なら、この後は僕の部屋で、もっと深い話を……」
「いいえ、座ったままこの肉の余韻に溺れたいんです。中津さん、すみませんが、あと三十分は一言も喋らないでください。……今、私の口腔内で、時間がフラッシュバックしているんです。……あなたの声は、その邪魔でしかありません」
「……邪魔……?」
そこからの時間は、中津にとって計算外の苦行だった。
みさきは、一口食べるごとに恍惚とした声を漏らし、自分だけの世界へ没入していった。中津が用意していた心理学的なアプローチも、完璧なクロージングの言葉も、すべては肉を咀嚼する音と、「……牛……牛が……」という独白に打ち消された。
中津は、自分が「マドンナを支配する男」ではなく、単に「彼女に肉を供給するための装置」に成り下がっていることを、突きつけられていた。
帰り道。
「中津さん、今日はありがとうございました。……熟成の深淵を、改めて知ることができました。……中津さんも、いつかこのお肉のように、中身が詰まった熟成をされるといいですね。今はまだ……少し新鮮すぎますから」
みさきは、満足げに微笑んで去っていった。
中津には、その言葉が「お前はまだ、血抜きも済んでいない未熟な生肉だ」という宣告にしか聞こえなかった。
翌朝。
中津は魂を抜かれたような顔で、本田の元を訪れた。
「……本田さん。……あいつは、女じゃない。……あいつは、肉の審判官だ。……俺はただの、肉を注文するための前座に過ぎなかったよ……」
社内の噂は、もはや神話に近いものへと変わっていった。
『あの論理の塊、中津ですら、久我さんの肉欲の前ではただの背景だったのか……』
久我みさきは、今日も涼やかな顔で、電話を取っている。
「はい、総務部です。……ええ、昨夜はとっても密度の高い夜でした」




