⒈ 目魂(4) 男に残された小さな家族
時刻は十五時二十分。病院帰りの悠人とそこで知り合った彼女の二人は、ゆったりとした足取りで心地良い漣の音が聞こえてくる海沿いの道を歩いていた。
「なぁこの服、本当に貰ってしまって良いのか?その、悪いし………正直、全くもって足しにならないレベルの僅かな金額しか持っていないけれど、せめてもの気持ちとして俺が今出せる分のお金だけでも直接送っておきたいから、送金機能を使うのにQRコードを表示しては貰えませんでしょうか?」
車に轢かれ、ズタボロになってしまった制服の代わりにと彼女が適当に見繕った服に着た悠人はお金にあまり余裕が無いとはいえ、こうして用意してくれた服を無料で貰うのも気が引けてしまい、おちおち落ち着けもしなかった。
ほんの少ししかお金を返せないまでも一銭も払わないよりは幾分マシであることに違いまいと、自分に差し出せる最大限の金額として電子財布にチャージされた手持ちのはした金全てを送金する勢いで、彼は手っ取り早くアカウント間でQRコードを通じて残高に直接上乗せする形で行うことの出来る送金機能(口座情報の開示が必要無い個人間での手続きの為、送金可能な上限額が設けられている機能)を介して彼女に交渉を求めている状況にある。
だが、当の本人は端末を差し出す様子も無く、終始どうでも良いといった感じである。
「取り立てて貴方からお金を頂こうだなんて、はなっから考えていないから大丈夫。お金が無いなりに僅かだろうとお金を渡そうと変な気遣いなんて起こさなくたって結構よ。貴方自身の生活にだって関わることなんだから、自分で買ったものでも無い限りはお金なんて出すものじゃ無いわ。こんなのは私が勝手に用意しただけのことなのだから、いちいち気にする必要なんて無いのよ」
「……俺としてはあまり気は進まないけど、そ………そこまで言うのなら分かった。
それであんたは………そういや病院では、色々と混乱してしまって聞きそびれてしまったが、名前はなんて言うんだ?ちなみに俺は目崎悠人と言って………なんて、改まって名乗らずとも病室の前に名札が飾ってあっただろうし、既に存じ上げているか」
「言われてみれば……確かに、自己紹介がまだだったわね。私の名前は、保呂草未予よ。未予でも何でも好きに呼んで頂戴。ちなみに、貴方のことは適当に『君』か『貴方』で呼ぶことにするわ。………理由?単純に人の名前を覚えるのが苦手なだけよ。
そもそも、名前なんて覚える必要性があるのかしら?人を指す言葉なら個人の名前で無くても色々と言いようがあるのだから、親戚や血縁者でも無い一個人の固有名詞をちくいち覚えようとするのって非効率の極みだと思うの。呼び掛ける為だけに記憶を割くなんて、無駄の多いファイルを抱え込む記憶装置の浪費でしか無いわ。
忘却曲線を聞いたことはあるかしら?要は《時間と共に人の記憶がどれだけ失われてしまうか》一定の法則を示したグラフなのだけれども、その理屈でいくと、人間の脳は一度覚えたことの半分を僅か一時間後には忘れてしまい、翌日には内容の約七割を忘れてしまうそうよ。
つまり何が言いたいのかと言うと、ちょっとした情報一つに使ってしまう記憶力があったらその分――、汎用性のある情報を覚えた方が実に合理的だと思う訳。私、学びにならない内容以外、覚える意味を見出せない………と言うより、もう驚きも期待も抱かなくなったと言った方が早いかしら。個人の名前なんて、環境が変われば簡単に無意味になるでしょう?」
「えっ……と、自己紹介した手前そんなこと言われるとは思いもよらなかったんだけど、それって実年齢的に食っているって話?……あっ、そういうつもりで言った訳じゃあ………すみません、冗談が過ぎました」
失礼なことを言われ、不愉快そうにこちらを睨む未予を必死に弁解しようとする悠人。
そんなことをしていると、前方から悠人と同じような髪色をしたポニーテールの少女が何やらこっちに迫って来たかと思うと、その人物は突然彼に声を掛けてきた。
「兄さん、一体こんな所で何をしているのですか?いくら私が路線バスの料金をケチって歩いてここまで来たとはいえ、早々に退院が降りただなんて言いませんよね?」
彼女の名は目崎紫乃。言うまでも無いが、こちらが悠人の妹である。
やはり共に大変な生活を送ってきた家族だからだろうか、もはや疑いようのない白髪に紫色の瞳をしたその少女は、布都部南中学校の指定制服という、悠人たちのものとはまた異なるデザイン性をされたNEMTDーPCに身を包んでいた。
「ほらよ、こいつが証拠だ」
悠人は紫乃に退院届を見せた。
「……冗談、だよね?」
「……そう言いたいのは分かる。俺自身、一番戸惑っているから。けど………確かに完治はしているんだよな。
それにしても――、見舞いの時ぐらいバスを使っても良かったんだぜ。
まあ、即日退院してちゃあ意味ないんだけど」
「そうだよ。もしバスに乗っていたらすれ違いになって、それこそお金の無駄遣いになっていたところだよ」
「分かった分かった。お前の判断は正しかった。これで良いんだろう」
「よろしい。……それはそうと兄さん、こちらの女の人は一体誰なんですか?」
そう言って、紫乃が指を指したのは紛れもなく未予であった。
「彼女は保呂草未予さんと言ってな、なんでも俺が事故に遭って救急車を呼んできてくれたのが彼女らしいんだ」
「よろしくね、妹さん」
未予は紫乃の方へと視線を落とし、にこやかな表情をした。
「そ、そうとは知らず、先程は兄さんの命の恩人に対して指を指してしまい、すみませんでした」
勘違いをしてしまったと言わんばかりに、頭を下げる紫乃。
「何も頭を下げなくとも良いのに。けど、年上を敬う気持ちがあるだなんて貴方と違って妹さんは礼儀を弁えた良い子さんなのね」
そう言われ、紫乃は頭を下げるのをやめた。
「確かに紫乃が良い子なのはその通りなんだけど、俺との扱いの差が違い過ぎやしないか………やっぱりあれか?あの時、口にしそうになった言葉の遺恨が残っている的なあれなのか………?おばさ……」
「何か言おうとしたかしら?」
ギロリとこちらを睨む未予。
「……いえ、何でもありません。えーっと………、あっ!そうだったっ!
すっかり制服が駄目になってしまったものだから、これじゃあ明日の通学に着ていけないなぁ……なんて。
――てな訳で俺は今から、学校の制服を仕立てている専門店の方にでも買いに行って来るとしますね~っと!」
未予の冷たい視線から遠ざかるように、退院したばかりとは思えない程のスピードで早足にお金を下ろしへと近くのATMへと走って行く。
高校生の身で電子財布にクレジットカード登録をしている筈も無く、手元操作で取引口座から直接入金というのも不正利用防止の観点から未成年者による口座振替登録がシステム上出来ず、その障害が彼をATMへと駆り立てていた。
そうして一人勝手に狼狽えながら、この場を後にして遠ざかって行く悠人の背中を未予と紫乃は見届けていると、彼の姿が見えなくなるなり、あまりにも格好の付かない突然の挙動と動揺っぷりに対して、思わず二人して笑ってしまっていた。
さきの事故騒動から転じて、実に平和で微笑ましい光景である。
思えば、時偶見せる悠人の――“兄さん”の《変な感応力》は、父さんと母さんが亡くなって以降ぐらいの時期から見られるようになった一面であった気がする。
それまで《しっかり者》という印象しか無かった兄さんだったが、掛け替えのない存在の喪失でぽっかりと心の穴が開いてしまった私の喪失感を紛らわしてやるかのように――
すっかり元気を無くしていた私を笑わせようとして打って出た、兄さんなりの気遣いが形となって出たものなのだろう。
たった一人、取り残された大切な存在を支える為に―――。
単なる生活面としての支えだけで無く、【紫乃】の『心のケア』になってやろうと――、必死に取り繕っていたところがあったのかもしれない。
それこそ意図せず、普段の会話の中で癖付いてしまう程に…………
「……ほんと、兄さんが生きててくれて良かった」
思わず、紫乃の口からそんな言葉が漏れ出る。
だが――、そんな幸せを感じる時間もいつまでと続くものでは無かった。
これから待っているのは、そう……地獄なのだから―――




