⒈ 目魂(4) 男に残された小さな家族
時刻は十五時二十分。病院帰りの悠人とそこで知り合った彼女の二人は、ゆったりとした足取りで心地良い漣の音が聞こえてくる海沿いの道を歩いていた。
「この服、本当に貰ってしまって良いのか?
その、悪いから……足りないだろうけど、せめてもの私金を渡しておきたいからさ。端末、持っているだろう?」
車に轢かれ、ズタボロになってしまった制服の代わりにと、彼女が渡してくれた替えの服を彼は着ている訳だが――、
お金にあまり余裕が無いとはいえ、ご好意で用意してくれた服の代金ぐらいは払っておくべきだと、電子財布にチャージされた手持ちのはした金を受け渡そうと、彼女に端末は無いか、何度か確認を取ろうとする。
だが、当の本人は気にしなくて良いと言って、びた一文も受け取ろうとはしないことへの申し訳なさに、彼なりに罪悪感を抱いていたという訳である………。
「何度も言わせないで。これは私が勝手に用意しただけのことだから、そういうのは良いのよ」
「……俺としてはあまり気は進まないけど、そこまで言うのなら分かった。
それであんたは………そういや病院では、色々と混乱してしまって聞きそびれてしまったが、名前はなんて言うんだ?」
「私?保呂草未予よ。未予でも何でも、好きに呼ぶと良いわ。そうそう、貴方のことは『君』か『貴方』で呼ばせてもらうわ。何しろ、人の名前を覚えるのは苦手なものでね」
「それって実年齢的に食っているって話?……あっ、そういうつもりで言った訳じゃあ…………すみません、冗談が過ぎました」
失礼なことを言われて、どこか不愉快そうにしている未予を必死に弁解しようとする悠人。
そんなことをしていると、前方から悠人と同じような髪色をしたポニーテールの少女が何やらこっちに迫って来たかと思うと、その人物は突然彼に声を掛けてきた。
「兄さん、一体こんな所で何をしているのですか?いくら私が路線バスの料金をケチって歩いてここまで来たとはいえ、早々に退院が降りただなんて言いませんよね?」
彼女の名は目崎紫乃。言うまでも無いが、こちらが悠人の妹である。
やはり共に大変な生活を送ってきた家族だからだろうか、もはや疑いようのない白髪に紫色の瞳をしたその少女は、布都部南中学校の指定制服という、悠人たちのものとはまた異なるデザイン性をされたNEMTDーPCに身を包んでいた。
「ほらよ、こいつが証拠だ」
悠人は紫乃に退院届を見せた。
「……冗談、だよね?」
「……そう言いたいのは分かる。俺自身、一番戸惑っているから。けど………確かに完治はしているんだよな。
それにしても――、見舞いの時ぐらいバスを使っても良かったんだぜ。
まあ、即日退院してちゃあ意味ないんだけど」
「そうだよ。もしバスに乗っていたらすれ違いになって、それこそお金の無駄遣いになっていたところだよ」
「分かった分かった。お前の判断は正しかった。これで良いんだろう」
「よろしい。……それはそうと兄さん、こちらの女の人は一体誰なんですか?」
そう言って、紫乃が指を指したのは紛れもなく未予であった。
「彼女は保呂草未予さんと言ってな、なんでも俺が事故に遭って救急車を呼んできてくれたのが彼女らしいんだ」
「よろしくね、妹さん」
未予は紫乃の方へと視線を落とし、にこやかな表情をした。
「そ、そうとは知らず、先ほどは兄さんの命の恩人に対して指を指してしまい、すいませんでした」
勘違いをしてしまったと言わんばかりに、頭を下げる紫乃。
「何も頭を下げなくても良いのに。
けれど、年上を敬う気持ちがあるだなんて、貴方と違って妹さんは良い子ね」
そう言われ、紫乃は頭を下げるのをやめた。
「……でもまぁ、年上は年上でも紫乃には想像出来ないくらい年上………そう、なんたって彼女はおばさ……」
「何か言おうとしたかしら?」
ギロリとこちらを睨む未予。
「……いえ、何でもありません。えーっと………、あっ!そうだったっ!
すっかり制服が駄目になってしまったものだから、これじゃあ明日の通学に着ていけないなぁ……なんて。
――てな訳で俺は今から、学校の制服を仕立てている専門店の方にでも買いに行って来るとしますね~っと!」
未予の冷たい視線から遠ざかるように、退院したばかりとは思えない程のスピードで早足にお金を下ろしへと近くのATMへと走って行く。
高校生の身で電子財布にクレジットカード登録をしている筈も無く、手元操作で取引口座から直接入金というのも不正利用防止の観点から未成年者による口座振替登録がシステム上出来ず、その障害が彼をATMへと駆り立てていた。
そうして一人勝手に狼狽えながら、この場を後にして遠ざかって行く悠人の背中を未予と紫乃は見届けていると、彼の姿が見えなくなるなり、あまりにも格好の付かない突然の挙動と動揺っぷりに対して、思わず二人して笑ってしまっていた。
さきの事故騒動から転じて、実に平和で微笑ましい光景である。
思えば、時偶見せる悠人の――“兄さん”の《変な感応力》は、父さんと母さんが亡くなって以降ぐらいの時期から見られるようになった一面であった気がする。
それまで《しっかり者》という印象しか無かった兄さんだったが、掛け替えのない存在の喪失でぽっかりと心の穴が開いてしまった私の喪失感を紛らわしてやるかのように――
すっかり元気を無くしていた私を笑わせようとして打って出た、兄さんなりの気遣いが形となって出たものなのだろう。
たった一人、取り残された大切な存在を支える為に―――。
単なる生活面としての支えだけで無く、【紫乃】の『心のケア』になってやろうと――、必死に取り繕っていたところがあったのかもしれない。
それこそ意図せず、普段の会話の中で癖付いてしまう程に…………
「……ほんと、兄さんが生きててくれて良かった」
思わず、紫乃の口からそんな言葉が漏れ出る。
だが――、そんな幸せを感じる時間もいつまでと続くものでは無かった。
これから待っているのは、そう………地獄なのだから――――