第55話:歌を聴く者たち
※第33話を見直すと分かりやすいかもです。
◇
歌が聴こえた。
それが全ての始まりだった。
第五層、血渇円堂。薄暗い石壁に囲まれた広間の片隅で、アヴァロン探索者ギルド所属の中級パーティ【ブルーソニアの隠し牙】は野営を張っていた。
斥候を三人も抱えるという偏った構成のパーティだ。その理由は明快で、罠を回避してトレジャーハントに特化する──要するに金目のものをかっぱらう事に全精力を注いでいる。
戦闘力よりも生存力。正面切って殴り合うのではなく、嗅ぎつけ、盗み、逃げ延びる。それが彼女たちの流儀であった。
そのリーダーであるブルーソニアは、焚き火が弾ける微かな音を聴きながら、その傍らで短剣の刃を磨いていた。手癖の悪さではギルドで右に出る者はいないと評判の女軽戦士だが、こうして黙々と刃を研ぐ姿は真面目そのものである。
「──聴こえるか?」
ブルーソニアが手を止めた。
磨いていた短剣を膝の上に置き、耳を澄ませる。
「え? 何が?」
ギンガナムが間の抜けた声を返す。
「歌だよ。歌が──……下の方から聞こえる」
ブルーソニアの目が虚空を見つめていた。焚き火の揺れる明かりに照らされたその横顔に、奇妙な恍惚の色が浮かび始めている。
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ケイセルカットがその異変の深刻さを悟ったのは、パーティが血渇円堂を発ち、第六層へ向かった翌日のことだった。
彼はつい先日まで病弱な妹の見舞いのためにアヴァロンを離れており、パーティに復帰して間がなかった。妹の薬代を稼ぐために探索者になった男だ。仲間には言っていないが、次の考査で上級に上がれたら、もうしばらくは妹のそばにいてやれるかもしれない。そんなことを考えていた矢先の異変だった。歌に晒された時間が短かったことだけが、ケイセルカットを正気の側に留めていた。
ブルーソニアの目が虚ろだ。
ギンガナムが歩きながら鼻歌を歌っている。聴いたことのない旋律。甘く、柔らかく、だが背筋が凍るような旋律。
ジギーも同じ旋律を口ずさんでいる。
神官の二人は何も言わずにただ歩いている。その目は開いているのに、どこも見ていない。
「おい、何かあったのか?」
ケイセルカットが問うた。返事はない。
「ブルーソニア。おい」
肩を掴む。ブルーソニアが振り向いた。
微笑んでいた。
「──ああ、ケイセルカット。おかえり。ねえ、聴こえない? 綺麗な歌」
「歌? 何の話だ」
「下から聴こえるの。ずっと呼んでる。優しくて、あたたかくて──行かなきゃ」
ブルーソニアの声は柔らかかった。だが、その瞳には光がなかった。
ケイセルカットの背筋を冷たいものが走り抜けた。
◇
ケイセルカットは仲間を止めようとした。何度も。何度でも。
だが、もう話が通じない。
正確には、話は通じている。言葉は理解している。だが受け取らない。まるで別の声だけを聴いているかのように、ケイセルカットの言葉は素通りしていく。
彼らは黙々と迷宮の深層を目指した。
第五層を抜け、第六層の沼地を越え──そして更に下った。
歌は近づいている。近づいているのではない。空間に染みていくのだ。壁から、天井から、足元の床から。石のひび割れから滲み出すように歌が広がっている。
逃げ場がなかった。
どこにでも歌はあった。
それがジャーヒル──暗黒の大母の恐ろしさだった。シェディムのように一つの領域に根を張る存在ではない。歌は迷宮のどこからでも聴こえ、壁の向こうからでも、足元の地面の下からでも、自分の背中からでも響いてくる。逃れる場所はどこにもなく、潜る場所もどこにもない。
大悪の腹心である二邪──もう一方のシェディムは、あの勇猛な冒険者たちの手で既に滅ぼされた。だがジャーヒルは健在だ。そしてシェディムが斃されたことで、大母の力は眷属から本体へと還流し、その歌はより深く、より遠くまで、迷宮の隅々にまで浸透するようになっていた。
◇
それは第六層の沼地を越えた先の、名もなき石の回廊で唐突に起こった。
神官の一人が立ち止まった。
「どうした?」とケイセルカットが声を掛けた瞬間。
神官の腹が膨れた。妊婦のように──いや、それよりもずっと速く、ずっと歪に。骨が軋む音がした。肋骨が内側から押し広げられ、肌の下を何かが蠢いた。もう一人の神官は背中から何かが突き出た。関節が逆に折れ曲がり、指の数が増え、爪が黒く伸びていく。
二人の神官の顔に苦悶はなかった。穏やかな笑みすら浮かんでいた。痛みはないのだ。ただ、もう人間ではない。
ケイセルカットは立ち竦んでいた。
目の前で仲間が──人間でなくなっていく。
ギンガナムの四肢が膨張した。筋肉が異常に発達し、骨格が歪み、腕が二本から四本に増えた。人間の五指は獣の鉤爪に変わり、顔が前方に突き出て犬歯が伸びる。
ジギーの下半身が溶けた。溶けたのではない──鱗に覆われた蛇体へと変貌したのだ。腰から下が長い蛇体となり、床の上をずるりと這いずる。
「やめろ……やめてくれ……」
ケイセルカットの声は届かない。届いたとしても、もう意味をなさない。
四体の怪物がケイセルカットを見つめた。
赤い目が光っている。人間の知性はそこにない。だが──殺意だけがある。
ケイセルカットは剣を抜いた。手が震えていた。
その時だった。
「──ケイセルカット」
人間の声が聴こえた。
ブルーソニアがまだ立っていた。
彼女だけが──最後まで人の形を保っていた。
いや、保てていない。右半身が既に変じ始めている。右腕が異様に太くなり、肩胛骨の辺りから何か──翼の原形のようなものが突き出し始めていた。右脚の膝が逆に折れ曲がっている。
だが左半身はまだ人間だった。左目はまだ、あのブルーソニアの目だった。
右目は既に、赤く光る魔の眼に変わっている。
「逃げな」
ブルーソニアの声がした。左目だけがケイセルカットを見つめていた。
「妹に──よろしく」
その瞬間、ブルーソニアの体が完全に変貌した。
皮膚が裂け、翼が展開する。牙が二列に並ぶ口が、顔の下半分に縦に裂けるようにして現れた。人間の面影は消え、そこには翼を持つ二つ口の異形だけが残った。
五体の怪物が、低い唸り声を上げる。
ケイセルカットは走った。
泣いていた。叫んでいた。何を叫んでいたのか自分でも分からない。
背後から咆哮が追いかけてくる。元仲間だったものたちの、人間には発声できない周波数の絶叫が石の回廊を震わせる。
走りながら剣を振った。行く手を塞ぐ小鬼の群れを斬り裂き、体当たりし、転がりながら走り続けた。涙で視界が滲む。足がもつれる。何度も壁に肩をぶつけた。
だが走った。
走って、走って、走り続けて──。
そして。
◆
一方その頃。
アヴァロン大迷宮の第一層を抜け、第二層の荒野を踏破し、第三層へと進軍する一団があった。
純白の鎧が暗い回廊に白い列を成している。法皇レダ率いるカナン聖騎士団と探索者ギルドの混成部隊。その数はおよそ百七十──第一層の戦闘で既に三十名近い負傷者を後方に送っている。
先頭を歩くのは豚鬼の巨体。サー・イェリコ・グロッケンが「大猪牙」を肩に担ぎ、その小さな目で前方の闇を睨みつけていた。
第三層は広い。天つ風寂原と呼ばれるこの階層は、迷宮の中にありながら屋外のような景色が広がり、乾いた風が吹き抜ける荒野が延々と続く。見通しが良い分、大軍にとっては動きやすいが──奇襲を受けた場合の退避が難しい。
「ブフゥ……荷物番をやっていた頃が懐かしいですな」
グロッケンが独りごちた。
その隣を歩くのは、不思議な鞄を肩にかけた痩身の老人──ザンクードだ。喉に矢傷の痕がある。普段は荷物を預かる商売をしている名物老探索者だが、今は腰に長剣を帯びている。
「何を言いやがる、ギルドマスター殿。あんたが荷物番だった時代なんざ、とうの昔だろうが」
ザンクードが枯れた声でそう返す。しかしその目は鋭く、足運びには隙がない。相当な実力者であることが窺える。
「ブフゥ……違いない」
グロッケンが低く笑う。
その二人の前方を、レダが静かに歩いていた。濡れ鴉の黒髪が風に靡く。その背中は細く小さいが、纏っている気配は軍勢の誰よりも大きい。
レダは温存に徹していた。ここで力を使う訳にはいかない。本命は遥か深層にある。
「まだ先は長い。ここで消耗するわけにはいかないですわ」
レダは前を向いたまま呟いた。
その言葉に、グロッケンとザンクードが無言で頷く。
三つの影が、迷宮の闇の奥へと進んでいく。その背後に白い鎧の列が長く長く続いている。
彼らは知らない。
この先に待つものが何であるかを。
そして──この軍勢のほとんどが、二度と地上の光を見ることはないということを。




