第53話:狂人の試練場③
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特訓とは名ばかりの一方的な殺戮作業を終えた君たちは、再び第八階層の探索へと戻った。
巨大な生物の体内を思わせる肉の回廊はどこへ繫がっているのだろうか。壁は不規則に脈打ち、天井から垂れ下がる血管のような管からは、粘り気のある液体がぽたぽたと滴り落ちる。一歩踏み出すごとにぬちゃりと響く不快な足音と、鼻腔を刺す腐臭は変わらない。
しかし、仲間たちの様子は以前とは明らかに異なっていた。
「……何かくるね」
キャリエルが短く呟く。その声に以前のような恐怖の色はない。ただ事実を告げるだけの乾いた響きがあった。大分感情が摩耗してしまっている。
ややあって彼女の視線の先、通路の曲がり角から新たな悪魔の群れが姿を現した。
今度の相手は全身が黒曜石のような甲殻で覆われた、蠍と人を混ぜ合わせたような異形の悪魔だ。その両腕は巨大な鋏となっており、尾の先には致死性の毒針が鈍く光っている。数は六体。一体一体がレッサーデーモンとは比較にならぬほどの圧を放っている。
君は腕を組み、壁に寄りかかった。介入するつもりはないという意思表示だ。三人はそれを見て、覚悟を決めたように頷き合う。
戦端を開いたのはモーブだった。風のように駆け出し、一体の悪魔の側面へと回り込む。狙うは関節の隙間。だが悪魔の反応は速い。巨大な鋏が横薙ぎに振るわれ、モーブの進路を塞いだ。甲高い金属音が響いてモーブの剣は弾かれる。
しかしそれは陽動だった。
「今!」
キャリエルの声が響く。モーブが悪魔の注意を引きつけている間に、彼女は壁を蹴って跳躍し、悪魔の頭上を取っていた。空中で身を捻り、落下速度を利用して短剣を突き立てる。狙いは甲殻の比較的薄い、首の後ろの付け根だ。
アヴァロンでは十把一絡げの斥候よりの前衛であった彼女も、いまや一端のキリングマシーンと化している。
だが、キィン、という硬質な音。短剣は甲殻を貫けず、僅かに傷を付けただけで弾かれた。
とはいえそれで十分だった。悪魔が一瞬、驚きで動きを止める。
「聖なる槌よ! 」
その隙をルクレツィアは見逃さない。彼女が掲げた杖の先から凝縮された光の塊が放たれ、悪魔の頭部に直撃した。物理的な衝撃を伴う神聖魔法だ。甲殻が砕ける鈍い音が響き、悪魔は脳を揺らさぶられてよろめいた。
そこへ体勢を立て直したモーブが再び踏み込む。今度は力任せではない。風を纏った剣がしなやかな軌跡を描き、先ほどキャリエルが傷つけた首の付け根を正確に抉った。
悪魔の巨体がぐらりと傾ぎ、絶命する。
一体を仕留めるのに要した時間は十数秒。その間、他の悪魔たちが仲間を助けようと殺到するが、三人は巧みな連携でそれを捌き切っていた。
キャリエルが本領を発揮し、敵の攻撃を引きつけては回避に専念する。彼女の危機察知能力はもはや予知の域に達しており、毒針の射線や鋏の振りかぶるタイミングを完璧に読み切っていた。命の危機を感じなくともある程度の予測──あるいは予知を発動させる事が可能となった彼女は、もしかしたら君の攻撃でもまばたき程度の間だけならしのげるかもしれない。
モーブはキャリエルが作り出した隙を突き、一撃離脱を繰り返す。その剣技は只管堅実だが、以前よりも格段に重く、鋭くなっている。
そして後方からルクレツィアが的確な援護を行う。攻撃魔法だけでなく、悪魔の視界を眩ませる閃光を放ったりと、戦況を冷静にコントロールしていた。
手傷を負う場面もあった。キャリエルが一体の悪魔の鋏をかわしきれず、脇腹を浅く裂かれた。モーブもまた毒針を剣で弾いた際に、飛び散った毒液が腕にかかり、皮膚が焼け爛れる。
だがその都度ルクレツィアの治癒の光が彼らを包み込み、傷は瞬く間に塞がっていく。彼女の神聖力はあの地獄の特訓を経て、その総量も質も飛躍的に向上していた。
そして最後の悪魔がモーブの剣によって心臓を貫かれ、痙攣しながら崩れ落ちる。
君は壁から背を離し、ゆっくりと拍手をした。
賞賛の意を示すと、三人は疲労困憊の様子ながらもどこか誇らしげな表情を浮かべるが──実のところ、君の賞賛は本音100%というわけではない。
君はその透徹した視線──“心眼”で、彼らの内なる力の変容を見つめていたのだ。戦闘経験という名の血肉を喰らい、彼らの魂はより強靭なものへと変貌を遂げている。その階梯は君の故郷ライカードの基準で言えば、新米と呼んで差し支えない領域にまで達していた。
もっとも、新米という称号は、かつては比類なき達人を示す言葉として畏敬を集めていたが、現在のライカードではその価値が著しく下落している。もはや初心者を卒業した程度の意味合いでしか使われてはいないのだが。ライカードの冒険者たちは、国家存亡の危機という名の日常に身を置き、年がら年中死闘を強いられている。その結果、全体の戦闘力は凄まじいインフレを引き起こしていた。
高位の悪魔や古竜はもはや経験値稼ぎのそこそこ強い雑魚として扱われ、中には地上に降臨した神の化身を徒党を組んで狩り殺し、その骸から剥ぎ取った素材で装備を作ることを趣味とする者さえいる始末だ。戦えば戦うほど、死ねば死ぬほど際限なく強くなっていく──それがライカードの民が周辺諸国から人ならざるものとして恐れられる所以の一つでもあった。ちなみに、ライカードの武具屋では神族に特効を持つ武器が普通に店売りされているが、汎用性に欠けるという理由であまり人気はない。
しかし、と君は内心で首を傾げた。あれだけの数のグレーターデーモンを殺させて、この程度の成長か、と。君の想定ではもう三回りくらいは強くなっている計算だった。 だがすぐに君はここが異世界であることを思い出す。恐らくはこの世界にはライカードとは異なる法則、魂の成長を律する別の理が存在するのだろう──そう結論付けた。
君個人としてはより多くの時間を費やして、更にハードでデンジャラスな鍛錬を彼らに課したいところであったが、迷宮の異変と王国の状況を鑑みるに、あまり時間をかけるのも得策ではないのかもしれない。
君がそんな思案に耽りながら歩いていると。
空間が音もなく裂けた。いや、裂けたのではない。元よりそこにあった“隙間”から、にゅっと、筋骨隆々とした漆黒の腕が伸びてきたのだ。
気配はない。殺気もない。音も、匂いもない。
それはギルドでもその存在を認知されていない、魔界の殺し屋である。勘の鋭いキャリエルですらその存在を全く察知できていない。それほどまでに研ぎ澄まされた隠形は、君の感知能力をも潜り抜ける──事はできなかった。
君の脳内には周囲の空間が立体的な地図として常に描画されている。そして、そこには敵性存在が赤い光点として表示される。これは君だけの特殊能力ではない。ライカードの冒険者であれば、程度の差こそあれ誰もが有している感覚だ。敵の姿を見ればその名前とおおよその階梯が分かる“心眼”と同様に、この世界の人間とは一線を画する、ライカードの民の個性とでも言うべきものであった。
暗殺者の鋭い爪が、君の首筋に触れるか触れないかの刹那。
君の体はコマのように鋭く回転した。それは予測や反応ではない。ただ、そこにある脅威を排除するための機械的で最適化された動作。
そして閃く手刀。
君の腕は一本の硬質な刃と化し、暗殺者の首を正確に捉えた。
ごとり、と鈍い音が響き、暗殺者の頭部が肉の床に転がる。首を失った胴体は数瞬痙攣したのち、力なく崩れ落ちた。三人は今しがた背後で起こった一瞬の出来事に全く気付いていないようだ
五体そのものを武器と為す、NINJAと呼ばれる者たちの業の一端──半端ではあるが君はそれも一応は修めている。
まあ、これもライカードの冒険者にとっては珍しいことではない。彼らのほとんどは、生き残るために複数の役務の経験を積んでいるのだから。