第52話:The most powerful saint in Canaan③
◆
一方その頃、君たちが血と臓腑の海で修練に励んでいる間、地上では新たな動きがあった。
迷宮都市アヴァロンの城門に、純白の鎧を纏った大部隊が到着したのだ。
その数およそ二百。整然と並ぶ騎士たちの先頭で、濡れ鴉の如き黒髪を持つ凛とした女──法皇レダが馬上から街を見据えていた。
率いるはカナン神聖国の切り札、法皇直属の聖騎士を含む二百名の聖騎士隊。
衛兵たちはいない。王家が機能不全に陥っている今、街を守る兵は誰一人としていなかった。
レダは馬上から、アヴァロンを覆う不気味な霧を鋭い目で見据えていた。
「……なるほど。これがかの魔の瘴気ですわね」
レダの瞳は、常人には視えぬはずの魔力の流れを捉えていた。霧に混じり、人々の精神を蝕む邪悪な波動。街全体を緩やかに狂気へと誘っている魔の霧。
「法皇猊下、ギルドへ」
側近のアーク・ロードが短く進言する。
レダは静かに頷いた。
「ええ。王家が機能していない今、冒険者たちと力を合わせる必要があるでしょう」
二百の聖騎士団が探索者ギルドへ向かうと、その報は瞬く間にギルド内を駆け巡った。
──カナンの最高指導者が何故この地に
ギルドに詰めていた数少ない理性を保った探索者たちが、固唾を飲んでその動向を見守っていた。
■
ギルドマスターの執務室。重厚な扉が開き、レダがアーク・ロード数名を伴って入室する。ハノンが緊張した面持ちで茶を運んでいた。
デスクの向こうには、サー・イェリコ・グロッケンがその巨体を椅子に沈めている。彼の顔に浮かぶのは、深い疲労と憂慮の色だ。
「これはこれは、カナン神聖国の法皇猊下自らのお成りとは。この非常時に、これほど頼もしい援軍は御座いません」
グロッケンの声は低く重いが、そこには敵意や威圧はなく、切迫した状況下で現れた有力な協力者への敬意があった。
探索者ギルドはこの数日、王家の不可解な布告と、それに踊らされるように死地へ向かう者たちを前に有効な手を打てずにいたのだ。
レダはそんなグロッケンの様子を冷静に観察し、優雅に微笑んだ。
「貴殿が豚鬼の英雄、サー・イェリコ・グロッケンですわね。単刀直入に申し上げます。王国は堕ちました。元凶は大迷宮の底に」
その一言で、執務室の空気がさらに重くなった。グロッケンはレダからオルセイン王国の惨状、宰相ジャハムの反乱について聞き、ソーセージのような太い指でこめかみを押さえる。
レダはそこで言葉を続け、探るような視線をグロッケンに向けた。
「弟オームの話では、脱出の際、貴殿のギルド所属と思われる斥候部隊に助けられたとか。ジャハムの手中から王を奪還するとは、見事な手際ですわね」
グロッケンの大きな体が微かに揺れた。彼はしばし黙考した後、重々しく口を開いた。
「ブフゥ……猟犬のことですな。王宮の不穏は我々も掴んでおりました。まさか国王陛下自らが追われる事態とは想定外でしたが……。手遅れになる前に、打てる手は打っておくべきかと」
猟犬。それはギルドマスター直属の実働部隊の名である。上級斥候を中心に編成されており、汚れ仕事も厭わずに任務をこなすプロフェッショナルたちだ。
「なるほど。貴殿もただ手をこまねいていた訳ではなかった、と。頼もしい限りですわ」
レダの言葉にグロッケンは苦々しげに息を吐いた。
「ブフゥ……ですが、焼け石に水。王宮からのお触れで腕の立つ探索者の多くが既に迷宮の肥やしとなりに行きました。この霧に当てられ、正気を失ったままに」
「全ては大悪の仕業です。ゆえにわたくしたちが参りました。このアヴァロン大迷宮は、かつて災厄を封じるために作られた巨大な封印装置。その最下層に眠る"大悪"が目覚めようとしています。これはアヴァロンだけの問題ではない。世界全体の危機ですわ」
レダの言葉には、紛れもない真実の響きがあった。
グロッケンはしばし瞑目し、やがて顔を上げる。
「法皇猊下、感謝いたします。これほどの事態となっては打てる手が限られておりました。貴殿ら聖騎士団の武力は、この街にとって何よりの光明。我ら探索者ギルド、全面的に協力させていただきましょう」
「それは頼もしい。目的は一つ、"大悪"の討滅。迷宮深層への案内と、斥候の支援を要請いたします」
「承知した。我がギルドが持つ最新の地図情報、そして信頼できるベテランを付けましょう。報酬については……今は語るまい。この街が、我々の世界が存続してこその話ですからな」
二人の指導者の間で固い協力体制が結ばれた。それは政治的な取引ではない。ただ、眼前に迫る破滅に対する、現実的で唯一の活路であった。
◆
すぐにギルドの掲示板に、ギルドマスター直々の緊急依頼が張り出された。
『等級不問。迷宮深層、魔性討滅作戦。参加資格:己の腕に絶対の自信を持つ者。報酬:ギルドが保証する破格の対価、及びカナン神聖国からの特別恩賞。生きて帰れる保証はない』
その報は霧の中でもなお理性を保っていた腕利きの探索者たちの心を揺さぶった。王家の胡散臭い布告とは違う。ギルドマスター自らが発した、覚悟の呼びかけだ。
一人、また一人と、歴戦の探索者たちが依頼を受けていく。
そこには荷物番のザンクード(第25話:王家 参照)の姿もあったとかなかったとか。