同気相求 似たもの同士は惹かれ合う
ハンスにベルヴェールの執務室に案内され、入るなり部屋の状態を小馬鹿にしてやった。次いで厭味ったらしく愛想の欠片も感じさせぬよう気を付けて言葉を選ぶ。
これは牽制だ。ベルヴェールをそこまで見下しているわけではなく、怒らせて本性を暴くためにやっている。人族というのは面倒くさい種族だ。決して本音を言わず、自分の気持ちは察してもらおうとする。だからあえて刺激するような言葉を使い続けたのだ。
さぁ、執事のハンスと同じように薄ら笑いを浮かべながら青筋を膨らますのか。それとも真っ直ぐに怒りを向けて襲ってくるか――。
「…………」
しかしベルヴェールの反応は想定していたものとは違い、私は完全に虚を突かれる。
ベルヴェールの表情は無。何の感情も感じさせない完全な無だった。その視界に私がいないような、それでいて私を真っ直ぐに見据えて確かに私を捉える黒い瞳。
達人の境地に到達した者は、敵を前にしても自身の気配を完全に消し去ることができるという。今のベルヴェールがその状態であると言うなら……。心がざわめくのを感じる。この感覚は久しい。これは強敵を前にした時のものだ。
一瞬呼吸が止まってしまい、言葉を失ってしまっていた。これがもし戦闘中だったら、生まれた一瞬の隙を突かれて負けていただろう。
一度ゆっくり目を瞑り呼吸を整える。そして再び瞼を開くと、完全な無だったベルヴェールの目は慈愛に満ちたものに変わっていた。それは幼き頃、戦いに敗れて地を這う私を父上が見下ろしていた時と同じ目。歴然とした力の差のある相手を見る目だ。
心を落ち着かせるために目を瞑った私と、欠片の隙も見せずに無の境地にいたベルヴェール。この数瞬の間にベルヴェールと私の格付けは完了してしまっていた。私は戦うこともなく敗北していたのだ。
私は魔族の王ゴゴムストリアスの娘。何もせずに敗走するなど許されるわけがない。
「な、何を――ぐむむむ!」
改めて文句をつけてやろうとしたが、マリーに口を押えられてしまい私の代わりとばかりにマリーが大袈裟に頭を下げている。
余計なことをと憤っているとベルヴェールの口がゆっくり動いた。
「ありがとう」
「はぁ?」
「私がハイルズ領主、ベルヴェール・ディオール辺境伯だ――」
ベルヴェールは私の暴言など気にした様子もなく、何事もなかったかのように挨拶を始めた。私はそれが気に入らない。無視をされ、挙句意味の分からない感謝の言葉が続いて、虚仮にされたような気がしたのだ。
ベルヴェールの顔色がさっきよりも悪くなっていることに気づく。血の気が引いたというか、血が全て抜かれてしまったような顔の白さ。それは何故かと考えるまでもなかった。答えは決まっている、あれはベルヴェールの魔力切れの症状なのである。
恐らくは先ほどベルヴェールが行った無の境地――あれは魔力を操作してのハッタリだったのだろう。
父上はベルヴェールは魔術が得意だと言っていたが、人族は魔力が非常に少ない。魔力が少なく弱いからこそハッタリの技を駆使して私を牽制しようとしたのだ。
その努力をあざ笑うつもりはない。先に牽制を仕掛けたのは私で、それに臆することなく欺いてみせたベルヴェールはむしろ褒められるべきだ。そしてまんまと小手先だけの術にハマった私は――。
「ルルアナスタシア殿、よくぞ遥々こんな遠方の地まで来てくれた。まずは長旅の疲れを癒すために――」
「御託は要らないわ」
ここで引き下がれるほど私はおしとやかでもなければ大人しい女でもない。私は力を尊きとする魔族の王女ルルアナスタシア。虚仮にされ、小手先の術でいなされたまま引き下がっては民に笑われてしまう。
「む?」
「貴方、強いんですってね。そこのハンスとかいう男に聞いたわ。早速で悪いけど、私と手合わせを願うわ」
「ルル様ぁ堪忍してくださいよー」
「あの、伯。ロリ……子供の挑発にのったら駄目ですよ。自制してください」
外野の声を無視して数歩前へ進み、跳躍して一気に机の上に飛び乗る。
さぁ、どうするベルヴェール。ここまで距離を詰めればさっきみたいな小手先の術はもう使えないでしょ。加えて貴方は魔力が切れている。使用人の前で情けない面をさらして敗北を認めるの。それとも挑戦を受けて無様にも床を舐めるのかしら。
腕を伸ばせば蹴り折ってやるわ。立ち上がるなら顎を蹴り砕いてあげる。私は問題を起こしてシャラザードに帰ってもいいの。貧弱な人族などと付き合いたくはないのだから。
――ベルヴェールの動きを注意深く覗い、どう対応されても反撃をする準備はできていた。しかし、ベルヴェールの行動はまたも私の想定と違うものだった。
私が机に飛び乗った瞬間、ベルヴェールは椅子ごと前へ進み体を机の奥へ隠すように入り込む。続いて引き出しが飛び出した。
私の直下にあるはずのベルヴェールの顔が見えない。飛び出した引き出しと、私の穿いているスカートが飛んだ勢いで膨らんでいるせいで完全にベルヴェールの姿を隠してしまっているのだ。
「くッ、やるッ――なに!?」
瞬時にスカートを押えるが遅かった。板の割れるような音が鳴り、私は宙に飛ばされていた。
食らったのは魔力ではないのは確かだった。だが手や足による打撃でもない。机には穴が開いており、そこから何かしらの攻撃を行ったのはわかった。
ベルヴェールは一体なにをしたんだ――どうやって私を打ち上げた!
「ふぅふぅ……落ち着け愚息、落ち着くんだ、相手は子供だぞ……」
ブツブツと何かを呟くベルヴェール。魔術の詠唱かと身構えるが私は宙にいる。これでは何を撃たれても躱しようがない。腕を交差して防御態勢を取りながら着地を待った。これほどまでに地面が恋しいと思ったことはない。
「もうルル様いい加減にしてくださいよー!」
「あいたぁ!?」
着地と同時に引き寄せられ、マリーに頭をぽかりと殴られる。
音は軽いが的確につむじを一本拳で殴られたので見た目以上に痛い。
この地味な痛みは嫌いだ。うっすら涙が浮かんでしまうから。
「な、何するのよ!」
「それはこっちのセリフですよー! これからお世話になる人にいきなり襲い掛かるなんて、犬猫じゃないんだからやめてください。私はタチよりネコの方が好きですが、猫みたいな姫様は好きじゃありませんからね!」
タチとはイタチのことかな? 獅子である私を猫だなんてド失礼なことを。
なんにしろマリーが怒っているのはわかった。マリーは真剣になると眼鏡を外す。そして今、眼鏡を外しかけているのだ。
「伯、無事……じゃなさそうですね。伯は本当に人間ですか?」
「自分でも自分が人間か疑わしいと思っていたところだ……。下の頭に血が回り過ぎて上の頭に血が足りなくなってしまった」
「ちょっとした化け物ですね。同じ人間とは認めたくありません」
「そこまで大袈裟に愚息を褒められても、男相手だと複雑な気分になって素直に喜べんな……」
「褒めたわけではないですし、愚息って名付けてるんですね……。そっちの方が複雑な気にさせられますよ」
血が足りないってなに? あの青ざめた顔は魔力枯渇ではなくただの貧血だとでも言いたいの? ベルヴェールは凄い冷や汗をかいている。ということは本当に体調不良? 体調不良であるというのに、私が見切れぬ謎の技でいなしたと?
「……ベルヴェール、今日のところはこのへんにしておいてあげるわ」
「そうしてくれると助かるよ。ハハ」
「……」
手も足も使わずに私をいなしておいて何が助かるだ。どんな技を使ったか気になるが、一度失敗したのに猪の様に何度も突っ込むほど私は愚かじゃない。
「次を楽しみにしている、と言いたいところだがルルアナスタシア殿にはまだ早い。もう少し大きく――」
「馬鹿にしないでちょうだい。私だってまだ本気をだしていないわ」
「ほ、本気をだされるのは困るな。いや、私も戦うのは歓迎なのだが、いかんせんサイズがな」
「サイズ差や体重差を気にして戦わない臆病者だと思わないで。私は相手がどんなに大きくても戦うわ。それが魔族の誇り」
「魔族の誇りか……魔族は私が思うよりも素晴らしい種族なのだな。もっと荒っぽいだけの粗野な種族だと思っていたが、どうやらそれは勘違いだったようだ」
魔族の誇りを歓迎するようにベルヴェールが嬉しそうに笑った。
言葉だけを聞けば強がりのようにも思えたが、それが本心であるのは子供の様に笑うその表情を見ればわかる。
私は胸が躍った――。
何故私は喜んでしまったのだろう。多分、ベルヴェールは戦闘が好きなのだと知ったからだ。
強き者が戦い好む……まさか人族にもこれほど骨のある男がいるとは思わなかった。これは嬉しい誤算だ。人族には軟弱者しかいないというのは喜ばしい勘違いだった。
この胸の高鳴りにそれ以上の意味はない。
「しかしだな、ルルアナスタシア殿が気にせずとも私や世間が気にするのだよ」
「だから私は――」
「ハハ、やめよう。水掛け論の押し問答をしても険悪な空気になるだけだ。私は戦いは好きだが喧嘩はしたくない。ハンス、お二人を部屋に案内してくれ。もうすぐ昼食の用意もできる、気分を変えて別の話をしようルルアナスタシア殿」
椅子に座り直したベルヴェールは子供を諭すようにゆっくり喋る。
戦いを好むが喧嘩を嫌い、闘争において空気の善し悪しを気にする――か。まるで父上のような男だ。
「魔大陸の、シャラザードの話を聞きたいな。私が魔大陸に行ったのも随分と昔の話だ、今はもう様変わりしているんじゃないかな? ルルアナスタシア殿の話を聞いて、魔族と改めて触れ合いたいと思った」
声のトーンは落ち着いており、戦うことしか頭になかった私は毒気を抜かれてしまう。
「いいわ、話してあげる。食事ができるのを部屋で待つわ……」
「そうだ、ルルアナスタシア殿は苦手な食べ物はあるかな?」
上手い。苦手なものとは即ち弱点。穏やかな空気を醸し出しておいて、さらりと私の弱点を探ろうとするとは、この男やはり侮れない。
「ないわ。でも好きな物はお肉かしら」
マリーがオナラが臭くなりますよ? などと耳打ちをするので首を締めそうになった。しないって言ってんでしょ。
「そうかそうか、それは何よりだ。では肉料理を山ほど用意しておこう」
ベルヴェールの笑顔と私に向けられる優しそうな目。それらから逃げるように私は部屋を出る。
私の耳にはベルヴェールが唐突に言った「ありがとう」という言葉が何故か耳にこびりついていた。
この言葉の本当の意味に気づくのは、もう少し後になってからだった。
☆
伯はやっぱりイカれている。曲者揃いの屋敷においても、最高ぶっちぎりのイカれ具合だ。
俺は見た。ルルアナスタシアことロリガキが机に飛び乗ったところで、愚息を鬼勃起させて下から机を貫き女児を跳ね飛ばすのを。
急激に流れ込んだ血液がイチモツを膨らませ、その勢いで机を貫いた……。理屈はわかるが納得はできない。あそこまでくると人間であるかも怪しくなってきたな。普通イチモツで人は浮かないし、木製の机も貫かない。人の皮を被った生殖鬼か何かか。
「魔術で石を……? いや、人族が無詠唱で、それも魔力を発さずに撃てるはずもない……じゃああれは蹴り?」
まぁ第三の足だと思えば、あれはイチモツによる蹴りってことになるのかな。
ルルアナスタシアは自分の足裏を叩いたのが化物だとは気づいていない。当たり前だ、どこの世界の人間がイチモツで人をぶっ飛ばすと思う。
伯が特定の女を作らない理由がわかった気がする。あんなものぶち込まれたら普通の女なら死ぬからだ。
足裏に受けた謎の衝撃がよほど気になるようで、あれだけ拒んでいた先導もすんなり受け入れてマリーとともについてきている。これからルルアナスタシアが言うことを聞かないときは伯のバナナでシュートしてもらって黙らせよう。
ルルアナスタシアの部屋の前に着くと、そこには嫌な先客がいた。
「うわっタチバナさん」
なぜここにいるのか――というのはわかっている。ここれからルルアナスタシアにピューア流の行儀を教えるのがタチバナさんだからである。
「うわって何? あとで詳しく聞かせてもらうからね。それよりも、はじめましてルルアナスタシア様。私は当屋敷のメイドを務めさせてもらっておりますタチバナと申します。今後私がルルアナスタシア様の世話役兼行儀礼儀作法の――」
「世話になるつもりはないわ。私の前に立たないで、そこを退きなさい」
箒を持ったまま廊下の中央に立つタチバナさん。礼儀を教える担当が、掃除ついでに予め来るとわかっていた客人に挨拶をする――本当に担当はこの人でよかったのだろうか。不適材不適所の極みのように思えてならない。こんなの猿に暖炉の火の始末をさせるような、伯や俺に湯番を任せるようなものだ。絶対問題が起こるに決まっている。
「もっと大きな方だと聞いていたのですが、随分とお可愛いこと。背も心も小さくて、本当に可愛い」
「……」
ほら、客に喧嘩売って早速問題を起こそうとしてる。今からでも遅くないから別の人に変えるべきだ。
「何が言いたいの。ハッキリ言いなさいよ」
「参りましたねぇ、そんな小さいお体では子供用の椅子を用意しなければなりません」
「――ッ」
先に動いたのはルルアナスタシアだった。
放たれた矢のように真っ直ぐに飛び、タチバナさんに殴りかかる。
「あらあら腕白」
「ウッ」
タチバナさんはそれをひらりと躱し余裕の笑みをみせつつ、何故か俺の腹を箒の柄先で突く。
多分さっきの「うわっ」を怒っているんだ。
「チッ!」
躱されたルルアナスタシアは着地点を音がするほど強く踏み込み、勢いを殺しながら反転する。踏み込まれた青い絨毯は捩じられめくれ上がっているが、破れたら弁償してくれるのだろうか。
小さな体からは想像もできないメリハリのある動き。身長差のあるタチバナさんの顎に鋭い蹴りが放たれる。箒の柄でルルアナスタシアの脚をなぞるように払い軽くいなす。そしてついでとばかりに箒の柄先が俺の右胸を捉えた。タチバナさんはどうしても俺を殴りたいらしい。
それからしばらく二人の格闘が続く。
俺は巻き込まれないように離れるが巧みに場所を移動させながら俺をついでに殴るタチバナさん。心なしか俺を打つ時だけ箒の振りが鋭い気がする。
マリーは止めようとはするが二人の間に割って入ることはできずおろおろしていた。
「やるわね……貴女。名はタチバナと言ったわね」
「はい、ルルアナスタシア様も中々のお手前で。あんまりお転婆なら足の一本でも折って静かにさせようと思っていたのですが、捌くので手一杯でしたよ」
お互い一息つき、不敵な笑みを浮かべ合っている。
タチバナさんは強い。俺も子供の頃は、伯を守るのが俺たちの仕事だからとボコボコのボコにされたものだ。お陰で俺も自分の特異体質を良い方向に伸ばすことができたので、一応感謝はしているが。
「その辺で終わりにしてもらっていいですか。俺も仕事があるんでさっさと部屋へ案内したいんですよ」
「ええ、だいたい掴めたからもう大丈夫」
「ウンッ」
そう言って、これで最後とばかりに箒の柄先で俺の股間のハンスくんを叩く。
客の前ですることじゃないし、客がいなくてもやめてほしかった。
「良い動きね。貴女が私に行儀や作法を教えてくれるなら不満はないわ」
いきなり挑発して殴り合いに発展するようなメイドを捕まえて不満がないって、ルルアナスタシアも大概だったか。普通なら不満しかないだろ。俺なら即刻クビを要求するか変えてもらうぞ。
「でも、今のが私の本気だとは思わないで」
「勿論です。ですが私もまだ箒しか使っていないことを忘れないでくださいね?」
また互いに笑いあっている。なんだこいつら、笑いのツボおかしいんじゃねーの。
「もうルル様!」
「あいたぁ!?」
マリーが拳骨を落とし、タチバナさんに何度も頭を下げる。
タチバナさんも一度深くお辞儀をしてから満足気に去っていった。
「本当にすみません。うちのルル様が――」
まるで飼い猫の不始末を謝る主人だな。胸元が緩いのでお辞儀されると中がチラ見えして気まずい。
「いえいえ、うちのメイドも大概というか、あの人はメイドの中でも特にアホなのでッ――」
いなくなったはずのタチバナさんが曲がり角から顔だけ出して微笑んでいた。
しばらくはタチバナさんから逃げ回る日々が続きそうだ。
「ベルヴェールといい、さっきのメイドのタチバナといい、人族にこれほどの手練れがいるとは驚きね」
「驚いてないでいきなり襲い掛かる人間性を直してください。挨拶より先に手を出すなんて、獣じゃないんですから」
「うっ……」
マリーは結構言うな。
いいぞ、もっと言ってやれ。
「だってタチバナは最初から闘う気だったわ。あのままじっとしていたら先手を取られていたはずよ」
「開口一番に退けとか言うからです。そんなの誰だって怒るに決まってます」
マリーは従者というよりは保護者だな。しかしこのまま言い合いをされていると俺が気まずい。適当に仲裁してやるか。
「いや今回はタチバナさんの口が過ぎました。代わりに詫びさせてもらいます」
「いらない。最初は迂遠な言い回しに腹が立ったけど、あれほど気持ちの良い戦い方をする者はシャラザードでも珍しいわ。ここで謝罪を受け取れば、タチバナの品格を下げてしまうことになるでしょ。だからその謝罪は受け取らないわ」
品格ってなんだっけ。初対面の相手を煽り散らして喧嘩を売る事だったのかな。
だったらタチバナさんはシャラザードに生まれるべきだったな。
☆
ルルアナスタシアを部屋へと案内し次はマリーを別の部屋に案内しようとしたところ、しばらく落ち着くまでここでルルアナスタシアと話させてくれと頼まれた。
昼食の時間にはまだあるので俺は一旦執事長のところへ報告に向かった。
伝えるのは伯が襲われたこと。タチバナさんが交戦したこと。マリーの胸元が緩くて視点が固定されてしまうこと。
伯がルルアナスタシアをイチモツで撃退したことは説明しない方がよさそうだな――と、執事長への報告を頭の中でまとめていると強烈な衝撃を背中に受ける。
虎か、魔物か、大砲か。吹き飛ばされた俺は受け身をとって転がり、衝撃を受けた方を見上げる。そこには満面の笑みのタチバナさんが立っていた。
「痛いじゃないですか」
「痛くしたのよ。ハンスはちょっとやそっとじゃ死なないでしょ?」
「……殺そうと思ってたんですか」
口角は上がっているがタチバナさんの目は笑っていない。これは本気で殺意ってるぞ。
「お客様の前だから騒がないであげたけど、随分な言いようだったねハンス」
「言葉の綾ですよ。本音じゃありません」
「本音でなければ人が傷つかないとでも思ったの? 私の心は手負いの虎の様にズタズタに傷ついたわ」
手負いの虎という比喩はいまいちピンとこなかったが、自分が虎並であるという自覚はあるんだな。いっそのこと虎柄のビキニでもきて森で暮らせばいいのに。きっと似合うと思う。
「タチバナさんも傷つくんですね。手負いの虎と言うか、無敵の虎だと思っていたので」
「か弱い女子をつかまえて何を言っているの。失礼しちゃう、プンプン」
「うわ、きっつ。タチバナさんがか弱い女子なら、俺なんてカイワレの新芽ぐらい弱いですよ。それに女子と言える年齢じゃないのにプンプンとかはちょっと……。もう二十――っ! 痛だだだっ!」
自称か弱い女子ことタチバナさんに頭を掴んで持ち上げられた。
「うら若き乙女の私に何て言おうとしたのかは聞かないわ。さぁハンス、選ばせてあげる。死ぬか、殺されるかを」
「せ、選択肢の幅が狭い!」
まずい、年齢の話は調子に乗り過ぎた。
以前街へ買い物に二人で行ったとき、声をかけてきた行商に歳を尋ねられたタチバナさんが「十七歳です! きゃぴッ」と隣に立っているのも辛くなるきっつい台詞で返したところ「奥さん冗談が上手いなぁ、隣のお兄さんは弟くん? それとも息子――」と、最後まで言い切る前に路地裏に連れていかれたのを忘れていた。あのあと憔悴しきった行商人は捨て値同然であらゆる物を売ってくれたんだっけか……。
「我儘な子。じゃあもう一つ選択肢をあげる。メイド服を着なさい。デッド・オア・ダイ・オア・キルよ」
着るとキルをかけているのだろうか。全く笑えないんだけど。
「着たら男の尊厳が死にます。絶対に着ませんし死にたくもありませんよ」
「まだ立場がわかっていないようねぇ」
片手で頭を掴まれて宙ぶらりんでいるんだ、立場も何も足が地についてないぞ。
「ハンスは今の三つの選択肢のどれかをハイかイエスで答えるしかないの。私だって弟のように可愛がってきたハンスをこんなところで終わらせたくはない。わかってちょうだい……ハンスなら絶対に似合うから」
もう脅迫されているのか諭されているのかわからなくなってきた。
今回の件は間違いなく俺が悪いのだが、それにしても悪口の仕返しに死ねって、仕返しのレートが高すぎるだろ。まるで質の悪い賭博場の支配人だ。
「今なら有事の際に備えて買っておいた犬耳カチューシャと尻尾プラグもつけてあげる」
「そのおまけには魅力も、お得感も感じませんね」
感じるのはただただ絶望だけだ。
備えていた有事の詳細も聞きたくない。行き遅れると色々こじらせるんだな。
「今、失礼なことを考えた?」
「滅相もございません」
もうやだ、誰か助けて――。
「おいおい、こんなところで何をしているタチバナ」
「あ……変態が来ちゃった」
「言ってタチバナさんも負けてないですよ。尻プラグとか――」
頭を掴む指に力が一層こもっている。まじで頭蓋骨割れるからやめて。
「ハンスを降ろしてやれ。執事衆の大事な人材だぞ」
「ぶぅ……」
そのぶりっ子をやめてくれ。口が勝手に動いて煽りたくなってしまうんだ。
「今度はどうした、またハンスが悪さでもしたのか」
「そうなの、ハンスったら私のことをアホだの美少女だのと馬鹿にしたの」
「アホは言いましたが美少女は口が裂けても言わないですね。少女じゃないですから」
「本当に裂いてあげようか?」
一度降ろしてはくれたが、今度は口を広げながら持ち上げられた。まじでやばい、これはまじでやばい。
「こらこら、やめろ。屋敷の者同士で反目し合ってどうする。今のお前たちを父上が見たら悲しむぞ。常日頃から仲良くするように言われているだろうに。私たちは血の繋がりはなくとも父上の子供なのだから」
「……」
タチバナさんは伯の名を出されると弱いのですんなり降ろしてくれた。
俺もさっさと出しておけばよかった。次襲われたら連呼してやろう。
「ハンスもハンスだ。詳しい経緯はしらんがタチバナを挑発すればこうなることぐらいわかっていただろ」
ツッコミを入れずにはいられない性質なんだ、仕方ないだろ。
「以後気をつけます」
「まったく……今回は私に免じて許してやってくれ。ハンスの汗の香りを嗅ぐ限り、成分は焦りと緊張に満ちている、もう十分に反省しているはずだ」
「キモ……」
「きっつ……」
擁護の仕方が気持ち悪い。なんだよ汗の成分って。この成分マニアめ。
「パラウドに免じてと言うより、お父様に迷惑はかけたくないから今回は見逃してあげる。でも次は絶対に着てもらうから」
目的が完全に変わってるな。まぁ怒りがおさまったんだから今は良しとしとこう。
「それじゃあ俺は執事長に報告を済ませてからマリーさんを部屋に案内してくるので」
「待てハンス」
一秒でも早くこの場から立ち去りたいと思っているのにパラウドに引き留められて振り返る。
「その前に足裏についている父上の毛髪を私にくれないか。それは最近のものに見えるのだ」
もうやだ、この変態屋敷。
ベルヴェール・ディオール
ステータス:ピューア王国ハイルズ領領主 四十六歳童貞 甲殻類
状態:見えた
マリーから見た姿:穏やかで優しい人
ハンス
ステータス:執事衆
状態:口が裂けそう
ルルアナスタシア・シャール(仮)
ステータス:魔王の娘 ロリビッチ(仮)
状態:九歳 困惑 愉悦 期待
マリー
ステータス:ルルアナスタシアの従者
状態:胸元の緩い服 怒り
タチバナ
ステータス:メイド 自称十七歳
状態:お父様に抱っこされながらメイド服を着た犬化ハンスに餌を投げつけたい
パラウド
ステータス:執事衆 成分分析家
状態:クンクン……この匂いは……