第18話 嘘じゃない
「突入!」
黒瀬の声が飛んだ。
その瞬間、時間が細く引き伸ばされた。
非常灯の赤。
灯油の匂い。
床に広がる黒い濡れ跡。
三枝蓮司の右手。
着火装置。
そこへ戻ろうとする親指。
伊吹透は、動かなかった。
逃げなかった。
蓮司だけを見ていた。
「許せるわけないだろ!」
蓮司が叫ぶ。
その声は怒りだった。
悲鳴だった。
そして、母を失った息子の最後の抵抗だった。
灰原ナギの声が鋭く走る。
『照明落とす!』
白羽美月の声が即座に重なる。
『承認!』
一階受付の非常灯が、一瞬だけ落ちた。
完全な暗闇。
黒瀬玲央は、その瞬間に踏み込んだ。
銃は使わない。
スタンバトンも使わない。
火花を出すものは使えない。
灯油がある。
一つ間違えれば、全て燃える。
黒瀬の右手から、救助ワイヤーが放たれた。
樹脂で覆われた重りが、低く飛ぶ。
蓮司の手首に絡む。
「ぐっ――」
蓮司の親指が、スイッチからずれた。
黒瀬は一気に引いた。
着火装置が蓮司の手から半分離れる。
だが、蓮司は離さない。
「離せ!」
蓮司が叫ぶ。
「お前らに、何が分かる!」
黒瀬は答えない。
答えるのは、自分の役目ではない。
今やるべきことは、一つ。
押させないこと。
黒瀬は灯油の広がる床を避け、倒れた机を蹴って足場にした。
体を低く滑らせる。
蓮司が着火装置を握り直そうとする。
その手首へ、黒瀬が飛び込んだ。
「離せ!」
蓮司の肘を押さえ、手首を床へ叩きつける。
着火装置が床を滑った。
黒瀬はすぐに左手でそれを押さえ込む。
スイッチ面を下にさせない。
コードを引かせない。
壊さない。
落とさない。
火を出させない。
灰原の声が飛ぶ。
『装置、生きてる! 強く潰すな!』
「分かってる!」
黒瀬は着火装置を手袋越しに固定した。
蓮司が暴れる。
伊吹の方へ手を伸ばす。
「伊吹透!」
獅堂鉄平が入口から飛び込んだ。
大型シールドを床に立て、伊吹と蓮司の間に入る。
「そこまでだ」
蓮司が獅堂を睨む。
「どけ!」
「どかねえ」
「そいつを殺させろ!」
獅堂はシールドを構えたまま、低く言った。
「殺させねえ」
蓮司の目が怒りで濁る。
「お前に関係ない!」
獅堂は一瞬だけ顔を歪めた。
「関係ある」
シールドの奥から、伊吹が蓮司を見ていた。
獅堂は続ける。
「そいつは、俺の部隊の人間だ」
伊吹の目がわずかに揺れた。
獅堂は蓮司から視線を外さない。
「それに、あんたもまだ人を殺してねえ」
蓮司の動きが止まる。
獅堂は低く言った。
「そこを越えるな」
同じ頃、真神アキラは若い共犯の男を床に伏せさせていた。
刃物は離れている。
男は抵抗しなかった。
震えたまま、床に額をつけている。
「殺すつもりじゃ、なかった」
男は掠れた声で言った。
真神はその手首を押さえたまま、短く返す。
「それを証明するのは、ここからだ」
男は何も言わなかった。
ただ、泣いていた。
灰原は外部端末から受付の映像を見ていた。
「着火装置、黒瀬が確保。回路は生きてる。まだ安全じゃない」
美月が即座に言う。
『灰原ナギ、着火装置の無力化手順を黒瀬へ送信。対象は現場装置のみ。周辺設備制御継続を承認します』
「了解」
灰原の指が走る。
着火装置の映像を拡大。
配線。
スイッチ。
簡易加熱線。
電池。
蓮司が作ったものではない。
誰かに教わったか、ネットで拾った作りだ。
雑だが、危険だった。
灰原は通信を開く。
『黒瀬、装置の下側。黒いテープの部分、電池ケース』
黒瀬は蓮司を押さえながら答える。
「見えてる」
『赤い線は切るな。火花が出る可能性がある』
「じゃあどうする」
『電池を抜く。ケースの爪を左にずらして』
「片手が塞がってる」
獅堂が即座に動いた。
シールドを片膝で支え、空いた手を伸ばす。
「俺がやる」
灰原が言う。
『手袋越しで。金属工具は使わないで』
「分かってる」
獅堂は大きな手で慎重に着火装置を押さえた。
その指先は、見た目に似合わず細かく動いた。
ケースの爪を探る。
蓮司が暴れる。
「触るな!」
黒瀬が蓮司の肩を床へ押さえ込む。
「動くな」
「離せ!」
「動くな」
黒瀬の声は低い。
怒鳴らない。
だが、動かせない重さがあった。
獅堂が歯を食いしばる。
「灰原、ここか」
『そこ。ゆっくり』
「……開いた」
『電池を抜いて』
獅堂が電池を引き抜く。
一瞬、全員の呼吸が止まった。
灰原の端末から警告表示が消える。
『加熱回路、停止』
WRISTに表示が走った。
《着火装置:電源遮断》
《即時着火リスク:低下》
《可燃物:残存》
《現場安全:未確保》
灰原は息を吐いた。
「まだ油は残ってる。火気厳禁」
黒瀬は短く答える。
「了解」
蓮司は床に押さえられたまま、荒く息をしていた。
着火装置はもう動かない。
人質もいない。
共犯も制圧された。
それでも、蓮司の目はまだ伊吹を探していた。
「伊吹透……」
伊吹は獅堂のシールドの後ろにいた。
だが、隠れてはいなかった。
ゆっくりと、一歩横へ出る。
獅堂が低く言う。
「出るな」
伊吹は小さく答えた。
「大丈夫」
獅堂の眉が動く。
「大丈夫って言うな」
伊吹は少しだけ目を伏せる。
「……そうだね」
そして、言い直した。
「逃げないだけ」
獅堂はしばらく伊吹を見た。
それから、シールドを少しだけずらした。
伊吹は蓮司の前に立つ。
蓮司は床に押さえられたまま、伊吹を睨んだ。
「何でだ」
伊吹は黙る。
蓮司の声は、もう怒鳴り声ではなかった。
「何で、止めた」
伊吹は答えた。
「あなたを、殺人犯にしたくなかった」
蓮司の顔が歪む。
「ふざけるな」
「ふざけていません」
「お前が言うな」
「はい」
蓮司は歯を食いしばる。
「お前が母さんを殺した」
「はい」
「お前が俺の人生を壊した」
「はい」
「なのに、何で」
蓮司の声が崩れる。
「何で、お前に止められなきゃいけないんだ」
伊吹は、すぐには答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
蓮司の怒りは正しい。
蓮司の恨みは正しい。
伊吹に、それを否定する権利はない。
だから伊吹は、正しい言葉を探さなかった。
ただ、本当のことだけを言った。
「俺が壊したからです」
蓮司の目が揺れる。
伊吹は続ける。
「俺が壊した人が、誰かを殺して終わるところを、見たくなかった」
蓮司の顔が苦痛に歪む。
「勝手なことを言うな」
「はい」
「お前のためか」
伊吹は首を横に振る。
「俺のためでもあります」
蓮司の目が鋭くなる。
伊吹は逃げなかった。
「でも、それだけじゃない」
「何がだ」
「久美子さんは」
蓮司が叫ぶ。
「母さんの名前を出すな!」
伊吹はすぐに頭を下げた。
「すみません」
「謝るな!」
「すみません」
蓮司が息を荒げる。
伊吹は言葉を選んだ。
今度は、騙すためではない。
蓮司を誘導するためでもない。
傷つけないために、嘘を混ぜるのでもない。
自分が聞いた事実だけを、置く。
「俺が聞いた限り、あの人はあなたに迷惑をかけたくないと言っていました」
蓮司の唇が震える。
「あなたを恨んでいたとは、俺は聞いていません」
蓮司の目が赤くなる。
「そんなの」
「でも」
伊吹は続ける。
「俺には、あの人の気持ちを語る資格はありません」
蓮司が黙る。
「だから、これ以上は言いません」
伊吹は深く息を吸った。
「ただ、俺が利用したのは、あなたを大事に思っていた気持ちです」
蓮司の目から、涙が落ちた。
「だから、俺を恨んでください」
伊吹は言った。
「でも、自分を責めないでください」
蓮司は床に伏せたまま、肩を震わせた。
「俺が気づいてたら」
「俺が、気づかせませんでした」
「俺が電話してたら」
「俺が、電話させませんでした」
「俺が、止めてたら」
「俺が、止めさせませんでした」
蓮司の顔が崩れた。
「母さん……」
その声は、もう復讐者の声ではなかった。
母を失った息子の声だった。
伊吹は何も言わなかった。
許しを求めない。
慰めもしない。
ただ、その場に立っていた。
蓮司が泣く間、誰も動かなかった。
黒瀬も。
獅堂も。
真神も。
灰原も。
美月も、通信の向こうで沈黙していた。
やがて、蓮司は掠れた声で言った。
「許さない」
伊吹は頷く。
「はい」
「お前だけは、絶対に許さない」
「はい」
「一生、許さない」
「はい」
蓮司は顔を上げた。
涙で歪んだ目で、伊吹を睨む。
「母さんのことを、忘れるな」
伊吹は答えた。
「忘れません」
「嘘つくな」
「嘘じゃありません」
「信じない」
「信じなくていいです」
蓮司の唇が震える。
伊吹は静かに言った。
「それでも、忘れません」
蓮司は泣きながら、額を床につけた。
その肩から、ようやく力が抜けた。
黒瀬は蓮司の拘束を確認し、通常拘束具をかける。
「三枝蓮司、確保」
真神も共犯の男を立たせる。
「共犯者、確保」
男は抵抗しなかった。
目を伏せたまま、震えている。
「蓮司さん……」
蓮司は答えない。
黒瀬は通信を開いた。
「統括官。犯人二名確保。着火装置停止。民間人残存なし」
美月の声が返る。
『了解。全員、可燃物区域から撤退してください。警察および消防へ引き継ぎます』
「了解」
獅堂が伊吹を見る。
「歩けるか」
伊吹は少しだけ笑おうとして、やめた。
「歩ける」
「なら歩け」
「優しいね」
「優しくねえ」
獅堂はそっぽを向いた。
だが、その大きな手は、伊吹の背中のすぐ近くにあった。
倒れたら支える位置。
伊吹はそれに気づいた。
気づいて、何も言わなかった。
外へ出る。
朝の光が眩しかった。
赤色灯。
警察官。
救急隊員。
救出された人質たち。
誰もが、こちらを見ていた。
伊吹透を。
死刑囚を。
詐欺師を。
それでも、人質の一人、二階から救出された若い女性が小さく頭を下げた。
伊吹は立ち止まりかけた。
だが、すぐに目を伏せた。
その礼を受け取る資格が、自分にあるのか分からなかった。
獅堂が横で低く言う。
「受け取っとけ」
伊吹は獅堂を見る。
獅堂は前を向いたままだ。
「俺は、人のことを裁ける立場じゃねえ」
伊吹は黙る。
獅堂は続けた。
「だが、今日のお前は逃げなかった」
少し間を置く。
「それは見た」
伊吹は何も言えなかった。
ただ、小さく頷いた。
灰原が近づいてきた。
端末を抱えたまま、伊吹を見る。
「嘘じゃなかった」
伊吹は眉を上げる。
「何が?」
「最後」
灰原は短く言った。
「忘れないって言ったところ」
伊吹は少しだけ目を伏せた。
「うん」
灰原はそれ以上言わなかった。
それで十分だった。
真神は共犯者を警察へ引き渡して戻ってきた。
伊吹を見る。
「殺さずに済んだ」
「真神くんが止めたからね」
「お前が時間を作った」
伊吹は黙る。
真神は淡々と言った。
「今日は、それでいい」
伊吹は少しだけ笑った。
痛そうな笑みだった。
「みんな、黒瀬ちゃんみたいなこと言うね」
黒瀬が近づいてくる。
「何の話だ」
「褒めてた」
「褒めてない」
「知ってる」
黒瀬は伊吹の顔を見る。
伊吹は疲れ切っていた。
目の下に濃い影。
唇は乾いている。
手はまだ震えている。
だが、あの軽い笑みで逃げてはいない。
黒瀬は言った。
「お前は、犯人を騙さなかった」
伊吹は黙る。
「人質を救った」
「みんなでね」
「ああ」
黒瀬は頷いた。
「蓮司も、殺人犯にしなかった」
伊吹の表情が動いた。
「……救えたのかな」
黒瀬はすぐには答えなかった。
それから言った。
「殺人犯にはしなかった」
伊吹は目を伏せる。
「そっか」
「それは、事実だ」
伊吹は小さく息を吐いた。
「本当のことって、便利じゃないね」
黒瀬は答える。
「便利なものじゃない」
「痛いだけだった」
「それでも、人は動いた」
伊吹は黒瀬を見る。
「蓮司くんも?」
黒瀬は短く答えた。
「ああ」
伊吹は少しだけ空を見上げた。
朝の光が、古い街の看板を照らしていた。
「じゃあ」
伊吹は静かに言った。
「今日は、それでいいか」
黒瀬は頷いた。
「ああ」
美月の声がWRISTから入る。
『任務結果を表示します』
白い文字が浮かぶ。
《任務完了》
《作戦区域:旧都心第三区・民間金融相談センター》
《任務種別:人質保護/交渉支援/立てこもり対応》
《人質十三名:全員救出》
《民間人死亡:確認なし》
《犯人二名:確保》
《可燃物着火:阻止》
《交渉支援:成功》
《伊吹透:虚偽誘導なし》
《伊吹透:犯人殺人行為阻止に寄与》
《副隊長代理適性:再評価》
《残刑日数加算:+3》
伊吹はその表示を見た。
残刑日数が増える。
命が三日延びる。
だが、その数字は、今は遠かった。
三日分の命よりも、三枝蓮司の涙の方が重かった。
美月の声が続く。
『伊吹透』
「はい」
『今回の交渉ログは、中央管制および法務省監査ログへ転送されます』
「いつも通りだね」
『はい』
美月は少しだけ間を置いた。
『ただし、記録には残ります』
伊吹は目を伏せる。
『あなたが、嘘で逃げなかったことも』
伊吹は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく答えた。
「それは」
言葉が詰まる。
伊吹は笑おうとして、やめた。
「少し、困るね」
美月は静かに言った。
『記録とは、そういうものです』
通信が切れる。
伊吹はWRISTの表示を見た。
《現在残刑日数:50》
死刑日は遠ざかる。
罪は遠ざからない。
忘れたことはない。
忘れられたこともない。
三枝久美子。
青い傘。
雨の日の玄関。
仏壇の線香。
判を押した手。
銀行の前で立ち止まった背中。
全部、そこにある。
伊吹は目を閉じた。
今まで、その記憶は自分を責めるだけのものだった。
でも今日は、その記憶で人を救った。
嘘ではなく。
忘れたふりでもなく。
本当の言葉で。
黒瀬が歩き出す。
「戻るぞ」
伊吹は目を開けた。
「了解、隊長」
その声に、いつもの軽さは少しだけ戻っていた。
だが、前とは違う。
逃げるための軽さではない。
立っているための軽さだった。
第6部隊は、現場を後にする。
背後で、警察車両に乗せられる蓮司が一度だけ振り返った。
伊吹と目が合う。
蓮司は何も言わない。
ただ、唇だけが動いた。
忘れるな。
伊吹は小さく頷いた。
忘れない。
嘘じゃない。
その日、伊吹透は許されなかった。
救われたわけでもない。
けれど、初めて、自分の言葉で誰かを救った。
そしてその記録は、第6部隊の中に刻まれた。
副隊長代理、伊吹透。
嘘つきだった男の、本当の最初の記録として。




