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第1話 残刑三十七日

黒瀬玲央の命には、残り三十七日という数字が付けられていた。

だが、その数字を黒瀬本人が毎朝確認できるわけではない。

死刑囚に、自分の残り時間を数える自由などない。

それは拘置施設の記録にあり、法務省の端末にあり、国家のどこか冷たい場所で管理されているだけの数字だった。

白い壁。

厚い扉。

監視カメラの黒いレンズ。

黒瀬は独房の中で、何も映らない壁を見ていた。

三十七日。

長いとも短いとも思わない。

死刑囚にとって未来とは、予定ではなく、執行日までの誤差でしかない。

「黒瀬玲央」

天井のスピーカーから、感情のない声が落ちてきた。

黒瀬は顔を上げない。

「面会だ」

その言葉にも、特に反応しなかった。

死刑囚への面会は珍しい。珍しいが、意味があるとは限らない。

家族か。弁護士か。記者か。あるいは、最後に善人ぶりたい誰かか。

どれでもよかった。

「誰だ」

黒瀬は短く聞いた。

数秒の沈黙のあと、スピーカーの向こうの看守が答えた。

「法務省だ」

そこでようやく、黒瀬の目がわずかに動いた。

法務省。

死刑囚にとって、その名は天気予報よりも正確に死を運んでくる。

黒瀬は立ち上がった。

足音が、独房の床に乾いた音を落とす。

扉の小窓が開き、看守の目が覗いた。

「両手を出せ」

黒瀬は黙って従った。

金属の手錠が手首にかかる。

冷たい。

だが、今さら冷たさに驚くほど、自分の身体に興味はなかった。

扉が開く。

廊下には看守が二人。その後ろに、武装した警備員が一人。

死刑囚ひとりを面会室に連れて行くだけにしては、少し多い。

黒瀬は笑った。

「人気者だな、俺」

誰も返事をしなかった。

廊下を歩く。

白い壁。白い天井。白い床。

清潔すぎる場所は、時々、死体置き場に似ている。

面会室の前で止まると、看守が扉を開けた。

中には男が一人座っていた。

年齢は四十代半ばほど。細身のスーツ。整えられた髪。感情を削ったような目。

机の上には薄い黒色の端末と、一冊の紙ファイルが置かれている。

男は立ち上がらなかった。

「黒瀬玲央さんですね」

「そう呼ばれてる」

黒瀬は椅子に座った。

手錠は外されない。机の下で固定具につながれる。

男はそれを確認してから、静かに名乗った。

「橘修司。法務省監査室の者です」

「法務省が死刑囚に何の用だ」

「確認です」

「執行日の?」

「それも含まれます」

橘はファイルを開いた。

紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。

「黒瀬玲央。元内閣危機管理局・特殊即応隊隊長。三年前、作戦中に部下四名を殺害。国家機密任務中の重大背信行為、および複数名殺害により死刑確定」

橘は淡々と読み上げる。

黒瀬は黙って聞いていた。

自分の人生を他人の声で読み上げられるのは、不思議な感覚だった。

紙の中の男は、ひどく分かりやすい悪人に見えた。

部下を殺した裏切り者。国家を裏切った元隊長。死刑になるべき男。

よくできた物語だと思う。

「死刑執行予定日まで、残り三十七日」

橘が言った。

そこでようやく、黒瀬は男の顔を見た。

「わざわざ数えに来たのか」

「いいえ」

橘はファイルを閉じる。

「その三十七日を、増やす方法があります」

黒瀬は数秒だけ黙った。

それから、鼻で笑った。

「宗教か?」

「違います」

「臓器提供なら、使えるところだけ持っていけ」

「そういう話でもありません」

「なら何だ。死刑囚の社会復帰講座か」

橘は表情を変えなかった。

「《LAST DAY》という制度をご存じですか」

黒瀬は答えない。

橘は続ける。

「公式には存在しない制度です。死刑確定者の中から、特定の能力を持つ者を選抜し、国家危機対応任務へ投入する」

「死刑囚を使い捨ての兵隊にする制度か」

「言い方を選ばなければ、そうです」

黒瀬は少しだけ目を細めた。

「法務省の人間が、それを認めるのか」

「私は監査室の人間です。制度を美しく言い換えるために来たわけではありません」

橘は机の端末を操作した。

面会室の壁に、映像が投影される。

市街地。夜。燃える車両。叫ぶ人々。黒い装備の部隊が、人質を抱えて走る。

映像はすぐに切り替わる。

地下鉄構内。煙。爆発物処理班。銃声。倒れた隊員の首元に、黒い輪のようなものが一瞬映った。

黒瀬はそれを見逃さなかった。

「首輪か」

「極刑囚制御機構《NOX》――ノクス」

橘は言った。

「ラストデイ隊員に装着される制御環です。位置、生体、武装、命令違反を管理する。無断離脱、反抗、重大違反があれば処分審査へ移行します」

「犬より扱いが悪いな」

「犬は死刑判決を受けません」

橘の返答に、黒瀬は少し笑った。

「正論だ」

映像が止まる。

橘は端末を閉じた。

「《LAST DAY》に選ばれる死刑囚は、ごく一部です。全員に与えられる機会ではありません」

「ありがたい話だな」

「救済ではありません」

橘は黒瀬を見た。

「利用価値があると判断された。それだけです」

面会室の空気が、少しだけ重くなった。

黒瀬は椅子にもたれた。

「俺に何をさせる」

「救助任務です」

黒瀬は眉を動かした。

「殺しじゃなくてか」

「第6部隊リコード。新設される救助型ラストデイ部隊です。人質救出、爆発物処理、民間人保護、特殊救命任務。あなたには、その隊長として移管申請が出ています」

「死刑囚に人を救わせるのか」

「死刑囚だからです」

橘は静かに言った。

「死が確定している者だから、投入できる場所がある。正規部隊では間に合わない現場がある。政治判断を待っている間に、死ぬ人間がいる」

黒瀬は目を伏せた。

その言葉だけは、少しだけ耳に残った。

政治判断を待っている間に、人は死ぬ。

それは、黒瀬がよく知っている現実だった。

「任務に成功すれば、残刑日数が加算されます」

橘は説明を続ける。

「通常任務で一日。高危険任務で三日。特別救助で七日。功績によっては、それ以上もあります」

「命のポイントカードか」

「否定はしません」

「悪趣味だな」

「制度とは、たいてい悪趣味です」

黒瀬は橘を見た。

この男は、制度を正しいとは言わない。だが、止めるとも言わない。

それが妙に気に入らなかった。

「断ったら?」

「予定通り、刑は執行されます」

「受けたら?」

「首にNOXを装着し、戦術端末《WRIST》を支給。特務公安庁の管理下で第6部隊リコードに配属されます」

「自由は?」

「ありません」

「待遇は?」

「拘置施設よりは広い檻です」

黒瀬は笑った。

「正直だな」

「嘘をついても、あなたは信じないでしょう」

橘は端末をもう一度操作した。

新しい映像が出る。

今度は、保育施設だった。

小さな門。黄色い帽子。泣き声。窓ガラスに貼られた折り紙。

その平和な映像の端に、銃を持った男たちが映っていた。

黒瀬の目から、薄い笑みが消えた。

「ひばりの森こども園」

橘が言った。

「本日午前八時四十二分、武装集団が侵入。園児二十六名、職員六名が人質。犯人側はライブ配信の準備を進めています」

「警察は」

「突入判断待ちです」

「特殊部隊は」

「周辺に展開済み。ただし、爆発物の存在が確認されています」

「つまり、誰も動けない」

「はい」

映像の中で、小さな子どもが泣いていた。

黒瀬はその画面を見ていた。

見ているだけだった。

だが、目だけはもう死刑囚のものではなかった。

橘は言った。

「第6部隊リコードの初任務です」

「まだ部隊もできてないだろ」

「だから、あなたを迎えに来ました」

沈黙が落ちた。

面会室の時計の針が、小さく動く。

黒瀬は手錠につながれた自分の手を見た。

人を殺した手。

そう記録された手。

部下を殺したと、国家に決められた手。

その手が、今度は子どもを救いに行けと言われている。

くだらない。

あまりにも悪趣味で、笑えるほど残酷だ。

それでも。

黒瀬は顔を上げた。

「ひとつ聞く」

「何でしょう」

「その子どもたちは、俺が死刑囚だと知ってるのか」

「知りません」

「なら、ちょうどいい」

橘は黙って続きを待った。

黒瀬は静かに言った。

「助けた相手にまで、余計なものを背負わせなくて済む」

橘の目が、わずかに細くなった。

黒瀬は椅子から立ち上がろうとした。手錠が固定具に引っかかり、金属音が鳴る。

「外せ」

看守が扉の向こうで動いた。

橘は端末を閉じる。

「参加する、ということでよろしいですか」

黒瀬は面倒くさそうに答えた。

「三十七日も壁を見るよりは、マシだ」

橘は初めて、ほんのわずかに息を吐いた。

「では、移送手続きに入ります」

「橘」

「はい」

「俺は部下殺しだ」

橘は答えない。

黒瀬は続けた。

「そんな男を隊長にする部隊は、長くないぞ」

橘は静かに言った。

「長くなくて結構です」

黒瀬が目を細める。

橘はファイルを閉じた。

「《LAST DAY》ですから」

扉が開く。

看守が入ってくる。固定具が外される。

黒瀬は立ち上がった。

白い部屋。白い壁。白い光。

その中で、橘の声だけが、妙にはっきり聞こえた。

「黒瀬玲央さん」

黒瀬は振り返らない。

「ようこそ」

橘は言った。

「死刑囚特別任務制度《LAST DAY》へ」



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