第49話 一生忘れない
真琴ちゃんが学校を休んで、一週間ほど経った頃。
朝のホームルームで担任の先生が告げた。
――「水樹真琴は転校することになった」
その言葉に、私の心は強く揺さぶられた。胸の奥でドクンと音を立てる。
クラス中がざわめき、空気が一気に騒がしくなる。
その中でイジメっ子達はこそこそ笑い合いながら、「そこまでする?」「大袈裟、バカみたい」と、まるで他人事のように言葉を投げていた。
そこには、これっぽっちの罪悪感も見えなかった。
私は――どうしよう。心臓が早鐘のように打ち、頭の中でその言葉ばかりが繰り返された。
放課後、スマホが震えた。画面には、真琴ちゃんの名前。
……驚いた。
イジメが始まってからというもの、真琴ちゃんから連絡が来たことなんて一度もなかったから。
ドキドキしながらメールを開く。
『楓ちゃん。今日の十六時頃、時間ある?』
私は混乱しながらも、すぐに『いいよ』と返信した。
すぐに返事が届く。『じゃあ、近所の公園で待っているね』――と。
夕方。
胸を締め付けるような緊張を抱えながら、私は公園へ向かった。
十六時の公園は子供たちの姿もなく、遊具だけが西日に赤く照らされていた。
ブランコに腰かけていた一人の影。――真琴ちゃんだった。
彼女は私を見つけると、すぐにふわりと微笑んだ。
それだけで、私の体を覆っていた緊張は不思議と解け、自然に彼女の隣のブランコへ腰を下ろしていた。
最初、真琴ちゃんは口を開かなかった。
沈黙が続き、こぎ出されないブランコが軋む音だけが響く。
耐えきれなくなったのは私の方だった。
「真琴ちゃん……転校するって、本当?」
俯いた真琴ちゃんは、ほんの少し唇を震わせ、そして――「うん」と複雑に笑って頷いた。
「イジメのせい?」
「……うん」
胸が締め付けられる。思わず言葉がこぼれた。
「ごめんね、真琴ちゃん。イジメられていたのは、知っていたけど……私、その……」
謝罪の言葉を探して口ごもる私に、真琴ちゃんは静かに首を振り、穏やかな声を返した。
「気にしないで、楓ちゃん。楓ちゃんはなにも悪くない。……私も逆の立場だったら、きっと何も出来なかったと思う。友達がイジメられていたら、助けなきゃいけないっていうのは、傲慢だと思うから」
その言葉に責める色は一つもなかった。むしろ、いつものように優しい笑みを浮かべてくれた。
それから、半年近くまともに話せなかった分、私達はたくさん語り合った。
くだらない話、思い出話、未来の話……気づけば二時間以上が経っていて、公園の外灯が灯り始めていた。
「そろそろ帰ろっか」――そう切り出した時、私は思い出したように聞いた。
「ところで、今日は何の用だったの?」
真琴ちゃんは、ほんの少し寂しそうに微笑んで答えた。
「最後に、楓ちゃんと話したくて。……楓ちゃんは、本物の友達だと思っていたから」
その瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ――寂しさと、冷たさを帯びていたように見えた。
「当たり前じゃん。転校しても仲良くしようよ。また連絡するから」
私がそう言うと、真琴ちゃんは「うん」と微笑んで頷いてくれた。
……けれど、あの時。
私は重大なことを見落としていた。
真琴ちゃんが見せた、あの冷たい瞳の理由を考えるべきだったのに。
私は結局、ずっと真琴ちゃんの優しさに甘えて、彼女の気持ちを何一つ考えようとしていなかった。
何も知らない私は――帰り道、スキップを踏んで帰った。
ギターを壊した罪悪感を少しでも忘れられた気がして、前と変わらず真琴ちゃんと話せたことが、ただ嬉しくて、ただ安心で。
それが、どれほど残酷な勘違いだったのかも知らずに。
そして、家に帰ると――玄関でお母さんが出迎えてくれた。
「おかえり。さっき、真琴ちゃんから電話があったわよ」
開口一番、その言葉。思わず私は足を止める。
「……えっ? さっきまで、ずっと一緒に話してたんだよ」
怪訝そうに言うと、お母さんは一瞬きょとんとした顔をした後、何気ない調子で続けた。
「うん。でもね、楓ちゃんに一つだけ言い忘れたことがあったから、伝えておいてくださいって」
私の心臓が、嫌な予感で早鐘を打ち始める。
お母さんは何も知らない顔で、平然と告げた。
「ギターのこと、一生忘れないから……だって。なんの話かわかる?」
その瞬間。
――銃弾で脳を撃ち抜かれたような衝撃が走り、私の世界が暗転した。
空気が凍りつき、膝から力が抜けていく。
私は玄関の床に崩れ落ち、石のように動けなくなった。
「楓!? どうしたの!」
お母さんの慌てた声。肩に触れる手。でも、何も聞こえなかった。頭の中は真琴ちゃんの言葉で埋め尽くされていた。
――ギターのこと。一生忘れないから。
優しい笑顔で、最後まで責めることなく私に接してくれた真琴ちゃん。
けれど、その裏で……彼女は私が壊したことを、全部知っていた。
あの日の公園で、私に与えてくれた最後のチャンス。正直に打ち明けて欲しかったんだ。真琴ちゃんは。それが、本当に「友達」なのかどうか、試していたんだ。
なのに、私は――その手を掴まなかった。
私はただ、彼女の優しさに縋り、何も気づかず、何も言わず、笑って帰った。
真琴ちゃんの冷たい瞳の意味を、何も考えようとしなかった。
「ごめん……ごめんね、真琴ちゃん……」
声にならない声を漏らし、私は両手で頭を抱え、床に泣き崩れた。
その後、必死に電話をかけたが、もう繋がらなかった。
呼び出し音すら鳴らず、着信拒否。
メールも送れない。会いに行けばよかったのに――私にはもう、その気力すら残っていなかった。
最後の最後で、真琴ちゃんは私を拒絶した。優しすぎるあの子が、ようやく私に向けて放った拒絶の言葉。それに気づいた途端、私は壊れた。
翌日から、私は学校には行けなくなった。
――ギターを壊した犯人を知っているのは、イジメっ子達と、真琴ちゃんだけ。
イジメっ子達は口外するはずがない。自分達が私を脅したことまで暴かれるから。
真琴ちゃんも同じだ。最後の最後まで、私を庇ってくれた。
「犯人探しはしないでください」って先生に言ったのも、きっと最初から、犯人が私だと知っていたから。
そして、母に残した伝言も、私にしか意味のわからない言葉を選んだ。
だから、この事実を他の誰かが知ることはない。
――周囲の目に映る私は、真琴ちゃんの一番の友達。
転校にショックを受けた、可哀想な子。誰もがそう解釈してくれる。
そして私は――悲劇のヒロインとして守られた。
……でも本当は。
私こそが真琴ちゃんを追い詰め、最後に拒絶された加害者だったんだ。
その事実は、一生消えることはない。
今でもあの瞬間の衝撃が、胸を締め付け続けている。




