第34話:道産子はスキーが上手いという嘘と、スパイクタイヤの女王
一九八三年の冬。札幌の街は、すっかり白一色に染まっていた。
マンションの居間にはこたつが据えられ、俺とガーベラは並んで足を突っ込み、みかんの皮を剥きながらぼんやりとテレビを眺めていた。ススキノでのバカ騒ぎから数日、さすがの俺たちも少しばかり大人しくしていたのだ。
ブラウン管の向こうでは、夕方の情報番組がスキー特集を組んでいた。カラフルなウェアに身を包んだ若者たちが、真っ白な斜面にきれいなシュプールを描きながら滑り降りていく。
「おお……!」
ガーベラが、みかんを口に入れたまま身を乗り出した。
「太、あれは何じゃ? 雪の上を、板に乗って滑っておるぞ!」
「ああ、スキーだな」
「すきー! 楽しそうではないか。我もやってみたいぞ!」
ガーベラは目をキラキラさせながら、こちらを振り向いた。
「太は道産子じゃから、すきーは上手いのじゃろ?」
その瞬間、俺の口が勝手に動いていた。
「お、おう、当たり前だろ。北海道じゃ学校の授業でもやるしな。俺なんか、指導員の資格だって持ってるぞ」
「おお、さすがじゃ! では、我に教えてくれるか?」
「任せとけって」
胸を張って答えながら、俺の背中には冷たい汗がつーっと流れていた。
……やってしまった。
東京にいた頃、北海道出身だと名乗ると、なぜか決まってこう聞かれたのだ。「スキーできる?」ではなく、「スキー上手いんでしょ?」と。できるかどうかではなく、上手いことが前提なのである。
最初の会社の同僚に聞かれた時、俺はつい「ああ、授業でもやるし、指導員の資格持ってるよ」と答えてしまった。それが妙にウケたので、それ以来ずっと同じ答えで通してきた。会社を辞めてバンドを始めてからは、すっかりナンパの持ちネタになっていた。
ちなみに当時の俺は、モヒカン頭で、唇とおでこに安全ピンをぶっ刺したパンクスである。そんな見た目の男が「スキーの指導員の資格持ってるんだ」と言うのだから、言われた方も、どこからツッコめばいいのか分からなかっただろう。
しかも周りにいるのはバンド仲間ばかりで、スキーに行こうなんて健全なことを言い出す奴は一人もいなかった。おかげで、この嘘は一度もバレたことがない。
そう、俺はスキーなんて、一度もやったことがないのだ。
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翌朝。俺たちは地下駐車場で、ランクル60のエンジンを温めていた。
隣には、マットブラックのLTDⅡと、ワインレッドのS30Zが並んでいる。どちらもシャコタンで極太タイヤを履いた、雪道では一ミリも役に立たない車だ。
「我の弁当箱なら、雪くらい魔法でどうにでもなるのじゃがのう」
ガーベラがLTDⅡのボンネットを撫でながら、未練がましく言った。
「目立つからやめろ。八〇〇馬力のアメ車が雪道を爆走してたら、明日の新聞に載るぞ」
「むう……」
口を尖らせるガーベラを助手席に押し込み、俺はランクルを発進させた。目指すは、札幌の街の西にある手稲のスキー場だ。
♦
地上に出た途端、車の外から賑やかな音が聞こえてきた。
チャリチャリ、ガリガリ、ジャリジャリ。
前を走る車も、すれ違う車も、どれもこれもが、鉄で地面を引っ掻くような音を立てている。ガーベラが窓に耳を寄せて、不思議そうに首をかしげた。
「太、なんでこの国の車は、みんな道路をガリガリ削りながら走っておるのじゃ?」
「ああ、あれはスパイクタイヤって言ってな。ゴムのタイヤに、鉄のピンが何十本も打ち込んであるんだよ。それが氷に食い込んで、滑らないようにしてるんだ」
「ほう。理にかなっておるな」
「しかも北海道のスパイクは、内地のとはピンの数が違うんだぞ。こっちの冬は本気だからな」
「なるほど。つまり、ドワーフの鍛冶屋が打った、滑り止めの鋲付きの靴底みたいなものじゃな」
「まあ、そんな感じだ」
ガーベラは、異世界の雪山で使われていた鉄の鋲付きブーツを思い出したらしく、うんうんと頷いていた。
だが、鉄のピンを打ち込んだところで、北海道の冬の道は甘くない。
交差点に差し掛かるたびに、車のタイヤで磨き上げられた、鏡のようなアイスバーンが待ち構えている。信号待ちの車がブレーキを踏むたびに、ずるずると前にずれていく。
「太、あそこの車、雪の山に頭から突っ込んでおるぞ」
「ああ、よくあるやつだ」
「あっちのは、溝に片輪を落としてチカチカ光っておる」
「それもよくあるやつだ」
「……この街の住人は、毎日こんな危険な道を通っておるのか?」
「冬の北海道じゃ日常だよ」
俺はハンドルを両手でしっかり握りしめ、時速三十キロでそろそろとランクルを進めた。アメリカの荒野を時速三百キロで駆け抜けた男が、今は信号ひとつに冷や汗をかいている。冬の北海道の道は、それくらい怖いのだ。
そうやって慎重に走っていた、その時だった。
バックミラーに、一台の軽自動車がぐんぐん迫ってくるのが映った。
「ん?」
次の交差点。俺がブレーキを優しく踏んで、そろりと右折しようとしたその横を、軽自動車がスイッと抜けていった。
運転していたのは、パーマ頭のオバチャンだった。助手席には、スーパーの買い物袋がこんもりと積まれている。オバチャンは交差点の真ん中で軽くお尻を振ると、ちょいちょいとハンドルを逆に切ってカウンターを当て、何事もなかったかのように曲がっていった。
顔色ひとつ変えていない。たぶん、晩ご飯の献立でも考えていたのだと思う。
「…………」
「…………」
俺とガーベラが言葉を失っていると、今度は後ろから一台のタクシーがやってきた。
三菱のシグマ。屋根の行灯には「個人」の文字がある。運転席には、くわえタバコの運ちゃんがふんぞり返っていた。
シグマはランクルの横に並ぶと、FFなのにやはりお尻をくいっと流して、テールを振りながらすいーっと交差点の向こうへ消えていった。タバコの灰すら落とさなかった。
「太!」
ガーベラが、窓ガラスに張りつかんばかりの勢いでこちらを振り向いた。
「今のは何の魔法じゃ!? あの年増の女も、あの男も、氷の上を滑りながら自在に鉄の箱を操っておったぞ!」
「魔法じゃねえよ。あれが北海道のオバチャンとタクシーだ」
「あれが、普通なのか……?」
「普通だな」
俺は苦笑しながら、さっきのシグマが消えていった方を眺めた。
「あのタクシーな、出たばっかりのFFのシグマなんだよ。前の車輪で引っ張って走るから、雪道に強いんだ。しかもエンジンの力を後ろに送る棒、プロペラシャフトってのがないから、後ろの床が平らで広い。客を乗せるにはもってこいってわけだ。たぶん、この先何年もあの車が北海道を走り回るぞ」
「ふむ。では、四つの車輪すべてを回せば、もっと雪に強いのではないか? 我の弁当箱のように」
「乗用車の4駆なんて、今はスバルのレオーネくらいしかねえよ。この車みたいなのは、あくまで山や荒れ地用の車だからな」
俺はランクルのハンドルをぽんと叩いた。
「それにな、ガーベラ。雪道で一番速いのは、性能のいい車じゃねえんだ」
「どういうことじゃ?」
「これは、今から何年も先の話なんだけどな」
俺は、未来で聞いた噂話を思い出しながら話した。
「札幌に藻岩山って山があるんだけど、そこでスタッドレスタイヤってやつの宣伝のために、本物のラリードライバーが来て、雪の山道を走って見せたことがあるんだよ」
「らりーどらいばー?」
「舗装されてない道や雪道で、速さを競う競技の専門家だ。で、そのタイムを、同じタイヤを履いた地元のタクシーの運ちゃんが走ったら、あっさり抜いちまったって噂が立ってな」
「なんと……! 専門家に勝ったのか」
「当時はけっこう話題になったもんだよ。毎日その道で飯を食ってる奴らは、それくらい雪道に慣れてるってことだ」
俺はそこで、さっきのオバチャンの軽が消えていった方を顎でしゃくった。
「で、今のこの時代。北海道仕様のピン数の多いスパイクを履いたオバチャンには、そのタクシーの運ちゃんだって絶対に勝てねえ。なんせ、限界がどうのなんて考えず、夏道と同じように曲がってくるからな。カウンターだって理屈は知らないんだよ。『滑らさったら逆にハンドル切れば大丈夫~』くらいなんだよな」
「滑らさる?」
「ああ、滑るのは自分のせいじゃないってこと」
「……だって運転してるのは自分じゃろ?」
「『~さる』ってのは北海道の方言でな。本来は食べらさる、呑まさる、とにかく、いい意味で他責にして笑ってごまかす良い言葉なんだ。でもオバチャンは車ぶつけても『滑らさったから』『滑らさるから』で軽い事故なら済まそうとするんだ…」
ガーベラは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「北海道の雪道の頂点は、あの年増の女だというのか……」
「そういうことだ」
「恐ろしい土地じゃ……。我は、どんな魔物よりもあの女の方が恐ろしいかもしれん」
百年魔法を極めた最強の賢者が、買い物帰りのオバチャンに本気で恐れおののいていた。




