第二十八話:剥けとるんじゃあ! 〜阿寒湖のエゾシカと、知床の変態凄腕ハンター〜
ススキノの路地裏で赤い消火バケツと共に散った俺の尊厳を取り戻すため、俺とガーベラ、そして紗季の三人は、札幌を離れて道東の大自然へと足を伸ばしていた。
最初の目的地は、マリモと湖で有名な阿寒湖。
雄大な景色を楽しみながら湖畔を散歩していると、遊歩道のど真ん中に巨大な獣が立ち塞がっていた。
「……シカじゃな」
「鹿ですねぇ」
野生のエゾシカである。
北海道では野良猫の十倍は頻繁に見かける動物であり、人を恐れず道を塞いで堂々と草を食んでいる。
中々どこうとしない鹿に対し、ガーベラが「シッシッ」と手で追い払おうとした、その時だった。
「ブルルルルッ!!」
発情期が近く、気が立っていた立派な角を持つ牡鹿が、突如としてガーベラに向かって突進してきたのだ。
「おっと!」
俺は咄嗟に前に出て、その巨大な角を両手でガシッと受け止めた。
ズシンッ! という重い衝撃。オーガの腕力を持つ俺ですら、思わず足が数センチ後ろに滑った。
無理もない。本州にいるニホンジカと北海道のエゾシカは、単に「サイズが1.5倍」という数字上の違いだけではない。筋肉の付き方、骨格の太さ、そして角の破壊力が段違いなのだ。
車で撥ねようものなら一発でこちらが廃車になるのに、奴らは平然と走って逃げていく。人間や車に対する『脅威度』で言えば、体感で三倍から五倍の差があるバケモノなのだ。
俺とエゾシカは、互いの力をぶつけ合い、組んず解れつの激しい押し合いになった。
その時、至近距離で鹿の目とバッチリ合った。
野生の瞳が、『お前、人間にしてはなかなかやるな』と語りかけてきた気がした。
「……ふっ。お前こそ。なら、俺の本気を見せてやるよ!」
俺の心の中の熱い闘争心(男の意地)に火がついた。
鹿の角は、成長期には産毛の生えた柔らかい皮――通称『袋角』に覆われている。
俺は眼前の牡鹿を力でねじ伏せながら、周囲に響き渡る大声で叫んだ。
「毎年皮被りになるお前とは違う! お前と違って、俺は最初から剥けとるんじゃあぁぁぁぁっ!!」
ボコンッ!!
俺が渾身の力を込めると、鈍い音と共に両手に立派な角が残された。
オスとしての誇りと最大の武器をもぎ取られたエゾシカは、怯えたような声を出して群れを残し、一目散に森の奥へと逃げていった。
「……ふぅ……。勝ったぜ」
俺が角を片手に爽やかな汗を拭っていると、背後からヒソヒソと怯えた声が聞こえてきた。
『ねえ……あの人、シカを虐待してるわよ?』
『ていうか、野生のシカ相手に自分の下半身のマウントとって叫んでたぞ……?』
『警察……いや、病院に連絡したほうがいいのかな……』
「ち、違う! 俺はあいつと、正々堂々と男同士の……!」
「太! いいから逃げるぞい!!」
「太さん、早く!!」
野生動物への虐待以前に、「シカに自分の股間の状態を叫ぶヤバいおじさん」として通報されそうになった俺たちは、逃げるように阿寒を後にして知床へと向かった。
♦
その日の夜。
知床に到着した俺たちは、全然ゴジラに見えないゴジラ岩などを観光し、旅館で温泉と豪華な海の幸を堪能していた。
「でも、今日のシカさん、すごく大きい角でしたねぇ」
部屋に戻り、浴衣姿でくつろぎながら紗季がポツリとこぼした。
「そうじゃな。あれだけの立派な角で群れを守っておったのじゃ。あの辺りの主だったのかもしれんぞ」
「……なんか悪い事しちゃったよな。今年のあいつ、角突き合いのメス争いに参加できないとか、マズいよね」
俺が少し反省していると、ガーベラがニヤリと妖艶な笑みを浮かべ、俺の浴衣の胸元にスッと手を入れてきた。
「……なぁ、太。主の角がどれだけ固くて大きいか、我と紗季に見せてみんかの?」
「えっ」
「昼間、主に向かって『我は最初から剥けておる』と豪語しておったが……あれは真実か?」
下を見ると、布団に座る紗季が、俺の角を大きくすべく、とろけるような潤んだ瞳で見上げてきている。
……なるほど、そういうことか。
「……仕方ねえ。では存分に見てちょうだい!!」
バサッ!!
俺は浴衣を勢いよく脱ぎ捨て、昼間の阿寒湖畔と全く同じテンション、同じ大声で叫んだ。
「俺は、最初から剥けとるんじゃあぁぁぁぁぁっ!!」
――翌朝。
旅館の朝食バイキング会場。
従業員たちからの冷ややかな視線と、隣室に泊まっていたであろう客たちの「あ、あの人たちだ……」という生温かい視線を全身に浴びながら、俺たち三人はモリモリとイクラ丼をかき込んでいた。
昨夜の「剥けとるんじゃあ!」という俺の雄叫びが、夜の旅館の廊下にどれだけ響き渡っていたかは想像に難くない。
だが、最強の魔女と異世界を救った俺たちの鋼のメンタルは、そんなことでは微塵も揺るがない。
我々は完全なる『勇者』であった。
♦
そして今日は、知床半島での大自然観察ツアーだ。
俺たち三人は一般のツアー客に混ざり、ヒグマが木につけた爪痕や、背中を擦り付けた跡などを見学しながら山道を進んでいた。
少し勾配のキツい道を登りきった先にある、雄大な自然が見渡せる展望デッキ。ここは強力な電気柵で守られており、安全に野生動物を観察できる……はずだった。
「あ、あそこにクマが……!」
ツアー客の一人が指を差した先。笹藪の中から、巨大なヒグマがのっそりと姿を現した。
「ヒッ……! で、電気柵の電源が落ちてる!! 皆さん、展望台の上のアンテナ鉄塔に上がってください!!」
ガイドの青ざめた絶叫に、ツアー客はパニックに陥った。
俺たち三人も指示に従い、狭いアンテナ鉄塔の上へと避難する。
ガーベラも俺も、その気になればクマなど指先一つで消し飛ばせるが、自分たちの自由(身バレ防止)を手放してまで、他人のために派手な魔法を使う気はないのだ。
小さな鉄塔は人で溢れんばかりになり、そのすぐ下までヒグマが迫ってきた。
ガイドが無線で救援を要請しているが、「到着まで一時間以上はかかる」という絶望的な返答が漏れ聞こえる。
覚悟を決めたガイドは、鉄塔を登ろうとするクマに対し、スキー用のポールにナイフをくくり付けた即席の槍で必死に突っついて阻止しようとしていた。大した度胸である。
「太。さすがにあのガイドが食われるのは寝覚めが悪い。少し手助けするぞい」
「おう。バレない程度の『嫌がらせ』だな」
俺とガーベラはコクリと頷き合い、こっそりと地味な魔法を行使し始めた。
クマが足を踏み出そうとする瞬間に足元を『氷結』させてズルッと滑らせたり、深呼吸したタイミングで鼻の穴の中に『水球』を突っ込んでむせさせたり、ガイドのポールの動きに合わせて『風の刃』でクマの鼻面にチクチクと切り傷を作ったり。
最強の魔法使いたちによる、あまりにもセコすぎる妨害工作である。
そんな奮闘を続けていると、ついに下から救世主が現れた。
「コヒュー……ッ、コヒュー……ッ、ウエッ、ゲホッゲホッ……!!」
オレンジ色のベストを着た、八十を優に超えているであろうヨボヨボの猟師だった。
急な山道を登ってきたせいで、完全に息が上がっている。顔色は土気色で、今にも心停止しそうだ。
「あー……く、熊が……いるって、どこだぁ……?」
鉄塔の上の全員が、心の中で同時にツッコミを入れた。
(((いやジジイ!! 死んじゃうから! 熊関係なく、そのままでも死んじゃうから!!)))
猟師の気配に気づいたヒグマが、ゆっくりと二本足で立ち上がった。三メートル近い、圧倒的な存在感と殺意。
対するジジイは、猟銃が重すぎるのか、プルプルと腕を震わせて銃口を落としかけている。
(((ジジイ! 前! 前!!)))
完全に某ドリフターズのコント状態である。全員の絶望がピークに達した、その次の瞬間だった。
ズドンッ!!!
空気を裂く凄まじい発砲音。
銃口から放たれた一撃は、立ち上がったヒグマの胸を正確に撃ち抜き、巨大な獣は糸が切れたようにパタリと倒れ伏した。
「…………えっ?」
一撃必殺。あのヨボヨボの爺さんの、完全なる圧勝であった。
「いやー、デカい図体で立ち上がってくれたから、的がデカくて楽なもんだったわい。うわはははw」
俺たちが「爺さんがヒグマに食い殺される(あるいは寿命で死ぬ)」と予感して震えていた時、このジジイ改め救世主は、ヒグマのことなど『楽な獲物』としか思っていなかったのだ。なんという歴戦の強者。脱帽である。
鉄塔の上の全員が、ジジイの圧倒的な実力に畏敬の念を抱きかけた、その時だった。
「ビクンッ!! ……ビクンビクンッ……!!」
銃を下ろしたジジイの体が、突如として奇妙に跳ねた。
「ふぅぅ……ッ。くくっ、やはり大物を仕留めた時のこの感触……これがたまらんわい……♡」
あろうことかこのジジイ。
ヒグマを撃ち殺した興奮と、大型ライフルを撃ち放った反動のショックで、そのまま気持ちよくなって『達して』しまったのだ。
ジジイは恍惚とした表情を浮かべ、周囲にムワァッと漂い始めた『栗の花の匂い』を誤魔化すように股間を押さえながら、内股気味に山を下りていった。
「…………」
「…………」
「…………最低じゃな」
「うん、過去最高に最低なモンを見た気がする」
ヒグマの恐怖から解放されたツアー客たちも、俺たちも。
命を救われたはずなのに、誰一人として歓声を上げることなく、ただドン引きして静まり返っていた。
――その後。
俺たちは無言のまま山を下り、ジジイの残した強烈なトラウマ(と栗の匂い)を脳裏から消し去るために、斜里町で海鮮丼をこれでもかと腹に詰め込むのであった。




