第二十七話:ススキノ残業と、赤い消火バケツの悲劇
【※読者の皆様へ:今回のエピソードは、1980年代という時代考証よりも「昔のススキノの雑多でカオスな雰囲気」を優先して執筆しております。年代のズレやオーパーツ的なパロディが含まれますが、ご愛嬌ということで笑って楽しんでいただければ幸いです!】
東名高速での熱き最高速バトルの後。
俺とガーベラ、そしてすっかり俺たち夫婦と打ち解けた紗季の三人は、平穏な日常を取り戻していた。
「それじゃあ太、わしらは定山渓温泉に行ってくるぞい。たまには女同士で、ゆっくり羽を伸ばしてくるからのう」
「太さん、お留守番よろしくお願いしますね」
「おう! 二人とも、ゆっくりしてこいよ。戸締まりはしっかりしておくからさ」
玄関先で、ボストンバッグを持った二人を爽やかな笑顔で見送る俺。
バタン、とドアが閉まった五秒後。
俺はクローゼットから一番お気に入りのジャケットを引っ張り出し、財布に分厚い札束をねじ込んでいた。
「ヒャッハー!! 鬼の居ぬ間の洗濯だァァァッ!!」
車で一時間弱かかる定山渓温泉に二人が向かったということは、今日の俺は完全にフリー。完全なる自由である。
俺はスキップを踏むような足取りでマンションを飛び出し、ネオンが毒々しく輝く北の歓楽街『ススキノ』へと転移した。
ススキノといえば、日本三大歓楽街の一つ。
当時のこの街は、ピンクサロン、ノーパン喫茶、キャバレーなどが入り乱れ、男の欲望とくだらないネーミングセンスが渦巻くカオスな空間だった。
ウキウキ気分で俺が最初に飛び込んだのは、雑居ビルの中にあるいかがわしい安店だった。
入り口に小さな段差があったため、田舎者の悲しい性で、つい靴を脱いでしまった。
「おじゃまします」
「あ、お客様、土足で大丈夫でーす」
「……あっ、はい」
少し恥ずかしい思いをしながら通されたのは、電話ボックスのような狭い個室。
壁の下の方に丸い穴が開いており、そこから己のナニを出す仕組みらしい。穴の位置が微妙に低いため、必然的に『ガニ股』にならざるを得ない。バランスを取るために、頭上には物干し竿のような鉄のバーが設置されていた。
俺がバーにぶら下がるようにして中腰になっていると、目の前のガラスの向こうに女の子が座った。
『お客様、これはマジックミラーです。お客様からは私が見えますが、私からはお客様が見えません。どうぞご安心くださいね』
(……ふーん。まあ、そういう設定なんだな)
俺は少し意地悪を起こし、中腰のままわざと大きくバランスを崩してみた。
すると、見えないはずの女の子がビクッ! と肩を揺らして『アッ』と小さく声を上げた。
「……見えてるの?」
『いえ、見えません』
「いや、今ビクッとしたよね?」
『……では、お拭きしますね♡』
明らかなごまかしである。
(こんな落ち着かないガニ股の体勢で、しかもバレバレのマジックミラー越しで、イケるわけないだろうが!)
ちなみに制限時間は十五分。客がイク時は、頭上のバーにあるスイッチを押すシステムらしい。
(絶対に無理だ。俺のオーガの精神力を舐めるなよ……)
――三分後。
俺はあっさりと、頭上のスイッチを連打していた。
すると、終了を知らせるブザーが鳴るのかと思いきや、まさかの女の子の横にある『パトランプ』がキュインキュインと真っ赤に回り始めたのだ。
(な、なんだこのくだらないギミックは!?)
俺は中腰のガニ股で、赤く回転するパトランプを見つめながら果てた。
こんな珍妙な状況でアッサリとイッてしまった自分に、猛烈な自己嫌悪を感じる。俺の男としてのプライドはズタズタだ。
『お客様、まだお時間少しありますが、もう一度プレイしますか?』
「……お願いします」
残り七分で、俺はちゃっかりとおかわり(二回目)を満喫して店を出た。
♦
二軒目を探し、ススキノのネオン街をフラフラと歩く。
それにしても、ススキノの風俗店の看板はくだらない。
『ウルトラま〇ぞく♡』
『テコキ〇グ』
『ヌレ〇ンちんちゃん』
『マット〇イッテスマッター(ミハ〇ル・シューマッハ)』
「おいおい、原形留めてねえじゃねえか……」
俺は思わずツッコミを入れた。
特に『マット〇イッテスマッター』の看板には、ご丁寧に真っ赤なフ〇ラーリのF1マシンまで描かれている。プレイを人の名前風にするな。そしてF1の看板を描くな。色んな方面から怒られるぞ。
だが、『ヌレ〇ンちんちゃん』のネーミングセンスは上手すぎる。天才の所業だ。
そして『ウルトラま〇ぞく』という、プレイ後の圧倒的な満足感への自信。ここなら間違いないと思わせる説得力がある。
そんなくだらない考察をしていると、俺の目に一つの看板が飛び込んできた。
『赤べこ』。あの首を振る、福島の民芸品の牛である。
「赤べこだと……!? いったいどんなプレイが待っているんだ……?」
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
上下に頭を激しく振るのか? それとも全身を赤く塗られるのか?
エロに支配された脳みそでフラフラと近づき、店の前に立つ。
『焼肉居酒屋 赤べこ』
「いや、風俗じゃないんかーい!!」
俺はずっこけた。
ススキノという街は、風俗ビルの中に普通に飲食店が混ざっている。全てが風俗店に見えてしまう、恐ろしいトラップ都市なのだ。
♦
気を取り直して、さらに探索を続ける。
やがて、ひっそりと営業するオーセンティックバーのような店を見つけた。
ポツンと置かれたライトアップされたメニュースタンド。だが、そこにはカクテルの名前ではなく、明らかにプレイコースが書かれている。
地下へ降りる階段。広くとられたエントランスに、重厚なドア。
看板には『secretary(秘書)』とだけ刻まれていた。
ドアを開けると、風俗特有の雑多な匂いやピンク色の照明はなく、ただピシッとした黒服の男が静かに待っていた。
「ようこそ、セクレタリーへ」
九十度の完璧なお辞儀の後、多人数用の待合室ではなく、完全な個室の控室へと案内される。
座り心地の良いウィングバックチェアに身を沈め、黒服が持ってきたペリエを舐める。
「お客様、当店は初めてのご利用でございますか?」
「ああ。表のメニューに惹かれてね」
俺は足を組み、いかにも慣れたダンディな雰囲気を醸し出したが、内心はこんな高級店は初めてでバクバクだった。
「ご希望のコースはございますか?」
「君のおすすめを、教えてくれるかな?」
「当店の一番人気は『専務コース』でございます」
「ほう、どんなコースだね?」
黒服は右膝をついたまま、魔法のように革張りのメニューを差し出した。
「専務コースは、この中にあるプレイから三つを選んでいただき、秘書と『勤務』していただくコースでございます。全身リップとキスは、基本に含まれております」
メニューには『ローション、ジャム、バター、菊、夜這い、逆夜這い、パンスト、乳首、口内、素股』の十項目が並んでいた。
「……なるほど。ローションは、いわゆるローションプレイかな?」
「そうでございます」
「ジャムというのは?」
「そちらは、専務様が秘書のお好きな場所にジャムを塗って、味わっていただくプレイでございます。バターも同様ですが、その後に滑りも楽しめます」
「夜這いプレイとは?」
「そちらは、目隠しをした秘書を、専務様が悪戯するプレイでございます」
「おお、いいねえ。まずそれを頼む」
「夜這いプレイですね。かしこまりました」
「……ちなみに、この『逆夜這いプレイ』とは?」
「そちらは、目隠しをした専務様を、悪戯な秘書が責めるプレイでございます」
「それもいいじゃないか! それも頼むよ」
「……お客様。それでは、お二人とも目隠しをした状態での暗闇プレイとなりますが、よろしいでしょうか?」
「……あっ。ああ、それじゃあ『夜這い、ローション、ジャム』にしよう」
「承知いたしました」
こうして俺は『専務』として、ススキノでたっぷりと濃厚な残業をこなすことになった。
♦
二時間後。
ツヤツヤの顔をして店から出てきた俺は、すっかり大人の男の顔になっていた。
(次は『会長コース』にしよう。間違いない)
完全なリピーターになる決意を固め、夜空を見上げて独り言を漏らす。
「うん! 最高だね!」
「――たのしそうじゃのう、太」
背後から、がっしりと万力のような力で頭蓋骨を掴まれた。
ギギギ……と、錆びたブリキのおもちゃのような音を立てながら、俺はゆっくりと首を後ろに向けた。
そこには、般若のようなオーラを放つ最強の嫁・ガーベラと、「あちゃー……」と額を押さえている紗季の姿があった。
「どどど、どうして!? あれっ? 帰ってくるの明日じゃ……!」
「紗季の旦那が、出張から予定より早く帰ってきてのう。泊まりじゃなくて、ただの飲みに予定を変えて早めに帰ってきたんじゃ。……そうしたら、どこかのバカ亭主がHな店から満面の笑みで出てきての。なぁ、どうすればええと思う? ん?」
「あわわわわわっ……!」
ギリギリと頭蓋骨が軋む。
俺は必死に、生存のための言い訳を脳内でフル回転させた。
その時だった。
――ゴロゴロゴロ……ッ!!
俺の腹の底から、雷鳴のような不吉な音が響き渡り、同時に視界が明滅するほどの激痛が走った。
「ぐおぉぉぉぉぉぉぉっ!!??」
俺は頭を掴まれたまま、その場にうずくまって腹を抱えた。
「ふん。仮病で逃げようとは、情けな……お、おい! 大丈夫か太!?」
尋常ではない量の脂汗を流し、土気色になった俺の顔を見て、さすがのガーベラも慌てて手を離した。
「いったい何があった!? 昼飯に毒でも盛られたか!?」
違う。違うのである。
『ローション』でたっぷりプレイした後、『ジャム』プレイを嗜んだ俺。
……そう、これは『食い合わせ』である。
実はこの高級店も気付いていない盲点なのだが、ローションとジャムの成分は、程度に差はあれど、確実に腹を下すのだ。
俺はもともと胃腸が弱い上に、ガーベラに見つかったという『極度のストレス』が引き金となり、腸内の爆弾が一気に爆発したのである。
「トイレ……ト、イレ……ッ!!」
腹を抱えて悶え苦しむ俺を置いて、ガーベラと紗季が慌てて周囲を見渡すが、ここは風俗街の路地裏。公衆トイレなどあるはずがない。
(も、もういっそ空間転移で、誰もいない森の奥へ……!)
だが、猛烈な便意と腹痛のせいで精神統一ができず、魔法が発動しない。
「太さん! これッ!!」
限界が近づく俺の前に、紗季がどこからか持ってきたものを差し出した。
それは、タバコの吸殻が無数に浮いた『赤い消火バケツ』だった。
「こ、こんなのにできるかァァァァァァァッ!!!」
俺の悲痛な叫びが、ススキノの夜空に響き渡った。
だが、無慈悲にも臨界点は突破された。
ブリッブッリイイイイィィィィィ……ッ!!!
俺はビルの陰で、異世界を救った最強のオーガとしての誇りと、一人の男としての尊厳を、赤い消火バケツの中へと勢い良く放り出したのだった。




