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第9章 立太子

 聖武天皇しょうむてんのうがタカノを連れて大慌てでやって来た。何と三十七歳になって初めて実の母親と対面するのである。白髪頭の、痩せた、幽鬼のような母親に、聖武天皇がおそるおそる声をかけた。

おびとです。わかりますか、母上?」

 宮子みやこは聖武天皇をチラッと見てこう言った。

「首? 首は小さくて、可愛くて、よく泣く赤ん坊だよ」

「申し訳ございません」頭を下げて聖武天皇は泣き崩れた。「母上の知らない間に、こんなにでかく、醜く、皺だらけになってしまって」

 宮子を意思疎通可能なまで回復させた功績により聖武天皇の信頼を勝ち取った玄昉げんぼうは、相談役として内裏に出入りするようになった。もともと玄昉には一介の僧侶として一生を終える気はさらさらなかった。政治の中枢に入り込み、自らの才覚で国を動かしてみたいという野心を抱いていた。

 藤原四兄弟の死により朝廷内の勢力図が様変わりし、藤原氏が弱体化した反面、皇親勢力が力を盛り返していた。皇親勢力の中心にいたのは橘諸兄たちばなのもろえである。このとき五十三歳。諸兄は、橘三千代たちばなのみちよ藤原不比等ふじわらのふひとと結婚する前、前夫の美努王みぬおうとの間にできた子で、最初は葛城王かつらぎおうと名乗っていたが、三千代の死後、橘姓を継ぐことが認められ、臣籍降下して橘諸兄となったのである。 

 野心家の玄昉はさっそく諸兄にすり寄っていった。こういう事が得意なのである、玄昉は。長屋王ながやおうの怨霊を恐れる光明皇后こうみょうこうごうにも近づいては、

「ご安心ください。誰の怨霊であろうとも拙僧の法力ではね返してみせますから」

 と調子の良いことを言って気に入られていたし、聖武天皇に対しては、

「唐の都・洛陽の郊外には龍門石窟りゅうもんせっくつという場所があり、石山を削って造った巨大な盧遮那仏るしゃなぶつ像が鎮座しておりますよ。あのような大仏を造らなければ、我が国は真の仏教国家とはいえません。それが出来るのは、歴代の天皇を見回してみても、陛下だけです」

 とおだてて露骨に媚びを売っていた。

 その聖武天皇は、もともと悩み多き気質の持ち主だったが、長屋王が死亡した頃からますますそれが顕著になり、このところずっと何かに悩んでいる様子だった。宮子が正気を取り戻した時は笑顔を見せたが、すぐにまた憂鬱な表情に逆戻りした。

「父上、大丈夫ですか? 悩みがあるのなら、わたしに相談してください」

 心配したタカノがそう声を掛けると、聖武天皇は厳しい表情で目の前の椅子を指さした。

「ちょうど良い。タカノ、話があるから、そこに座りなさい」

「どうしたんですか、父上? そんな怖い顔をして」

 タカノは戸惑いながらも言われた通り椅子に座った。

「実はな、タカノ、おまえを皇太子にすることに決めた」

「え? 皇太子?」タカノは仰天して叫んだ。「わたしは女ですよ、父上」

「わかっている」

「皇太子って男子がなるものでしょう?」

「普通はね」

「男の子供がいないのならともかく、父上には安積あさかという立派な息子がいるではありませんか」

 安積親王あさかしんのうは聖武天皇と広刀自ひろとじの間に生まれた子であり、タカノにとっては腹違いの弟になる。

「それもわかっている」

「わかっているなら、なぜ?」

 タカノにそう問われた聖武天皇はつらそうな表情でこう答えた。

「俺はなぁ、タカノ、おまえには女性として普通の幸せを掴んでもらいたいと思っていたんだ。本当にずーっとそう思っていたんだ、基王もといおうが亡くなるまでは」

「基王・・・」

「基王が生きていれば何の問題も無かった。基王が皇太子、そして天皇になり、タカノ、おまえは有力皇族の妻になっているはずだった。俺も太上天皇だいじょうてんのうさまも心からそれを願っていた」

 太上天皇というのは元正上皇げんしょうじょうこうのことである。

「太上天皇さまも・・・」

「基王が死んでも、そのあと再び皇后が男子を産んでくれれば問題なかったのだが、残念ながら皇后には子供ができなかった。藤原からは他に武智麻呂むちまろの娘と房前ふささきの娘が入内したが、やはり子供はできなかった」

「それでも安積がいるから問題ないじゃないの」

「確かにね。本音を言うと、俺は安積を天皇にするつもりでいる。何としても天皇にするつもりでいる。だが、安積の母方の実家には、藤原のような財力や政治力が無い。有力な後ろ盾の無いまま安積を天皇にしても破滅は目に見えている。それに安積は幼い」

「まだ十歳ですものね」

「そこで、タカノ、安積が天皇になれる充分な力を持つまで、おまえに中継ぎの天皇になってもらいたいのだ。太上天皇だいじょうてんのうさまが俺を天皇にするため即位したように、天皇になって安積を助けて欲しいのだ」

「わたしが太上天皇だいじょうてんのうさまと同じ役目を・・・」

「同世代の女友達が次々と嫁に行くのを見て、自分にはなぜ縁談が来ないのだろうと思って不満だったであろう。花嫁姿に憧れ、いつかは自分もと夢見ていたことであろう。俺はおまえのそんな夢を壊し、犠牲を強いなければならない。父親としては耐えられない苦しみだ、娘の幸せを踏みにじるのは。しかし、天皇として、皇統を守る者として、おまえを人身御供に捧げなければならない。頼む、タカノ、天皇家のため生贄になってくれ。おまえだけが頼りなのだ」

 天平十(738)年正月、二十一歳のタカノは皇太子になった、不承不承、父親の懇願に負けて、天皇家の為に。

 玄昉の推薦により下道真備しもつみちのまきびがタカノの教育係に任命された。将来の天皇に相応しい教養を身につけるべく、タカノは真備から『礼記らいき』や『漢書かんしょ』などの講義を受けた。なりたくもない皇太子にされたせいで、面白くもない漢詩文を学ばなくちゃならないなんて・・・と、最初のうちタカノはやる気が無かったが、次第に真備の誠実な人柄と深い教養に魅了され、真剣に取り組むようになった。

 橘諸兄は右大臣となり、玄昉と下道真備を側近にして、本格的に政権運営に乗り出した。諸兄の政策は反藤原である。藤原四兄弟の時代、彼らは新羅に侵攻しようと目論み、軍事拡張政策を採っていた。諸兄は直ちにそれをやめ、軍事費を削減し、浮いた分を天然痘によって疲弊した社会の復興に充てた。これに対して藤原側から不満が出ると、一番の軍拡派であり、玄昉と宮子は男女の関係にあると誹謗中傷していた藤原広嗣ふじわらのひろつぐ太宰少弐だざいのしょうにに任命し、九州へ飛ばした。広嗣は天然痘で亡くなった藤原四兄弟の三男・宇合うまかいの長男である。

 天平十二(740)年二月、難波宮なにわのみやへの行幸の途中、聖武天皇は河内国の智識寺ちしきじ光明皇后こうみょうこうごうと共に訪問し、初めて盧舎那仏座像るしゃなぶつざぞうを見た。

「これか、いつか玄昉が話していたのは・・・」

 知慧と慈悲の光明を遍く照らし出すという華厳経けごんきょうの仏に感銘を受けた聖武天皇は、いつか自分もこの像を造ってみせると心に誓った。東大寺大仏造立の契機である。

 九州に左遷されて憤慨した広嗣は、天平十二(740)年八月、「下道真備と玄昉を朝廷から追放すべきである」という内容の上奏文を朝廷に送った。これを諸兄政権に対する謀反と捉えた聖武天皇は、広嗣を都へ召喚しようとした。しかし、広嗣は応じず、挙兵した。藤原広嗣の乱である。

 都に残る藤原一族が呼応して挙兵しなかったので、乱そのものは朝廷が派遣した追討軍によってあっさり鎮圧され、広嗣も討ち取られたが、乱が終結する前に聖武天皇は平城京を出て東へ向かった。

「この都は呪われている。ここはもう嫌だ」

 聖武天皇は天災の続く平城京に見切りをつけ、山背国相楽郡の恭仁くに(現在の京都府木津川市加茂地区)に新しく都を作ろうと考えていたのである。長屋王ながやおうと藤原四兄弟という二つの重しが消えたことで、心のタガが外れたのか、この頃から聖武天皇は自分の考えを強引に実行するようになった。聖武天皇の構想はこうである。複数の都を持つ唐を模倣し、平城京を西の長安、恭仁京くにきょうを東の洛陽に見立て、その北東の鬼門に位置する紫香楽しがらきに盧舎那仏坐像のある寺を作る・・・そのため、藤原広嗣の乱を壬申じんしんの乱に擬制し、鈴鹿から不破、蒲生へと、かって天武天皇てんむてんのうが通った道を、聖武天皇は一ヶ月以上かけてぐるりと辿り、恭仁京へ入った。

「お金と時間を浪費して、なぜこんなしち面倒臭い事をするのですか、父上? 平城京から恭仁京まで普通に行けば半日で着くではありませんか」 

 同行しているタカノがそう尋ねると、聖武天皇は鷹揚に笑ってこう答えた。

「タカノはまだまだだね。政治には演出が必要なのだよ。新しい都の始まりを華やかに彩る演出が」

「それにしても無駄な出費のような」

「平凡な人間の発想ではそうだろうね。しかし、国を治める者は平凡であってはならないのだ。常人に無い美学が、視点が、芸術的感性がなくては。そう、私は芸術家なのだよ、タカノくん」

「はい?」

「これから私は紫香楽に大仏を造る。誰も見たことのない巨大な盧舎那仏坐像を。私の美的感性に貫かれた恭仁京は、御仏みほとけの加護を受け、あらゆる災難を寄せ付けない、真の仏教都市になるだろう」

「昔から思っていたけど、改めてつくづく思うわ、わたしの父上は変わってるって」

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