第13章 天平の女帝
聖武天皇は天平十六(744)年二月二十六日に難波京への遷都を発表するものの、肝心の難波京にはおらず、その二日前から紫香楽宮に入って大仏造立工事の指揮を執っていた。安積親王薨去の悲しみを忘れようとして、聖武天皇は大仏の造立に没頭していたのである。同年十一月十三日、材木の骨組みの上に粘土で肉付けした大仏の原型となる塑像が完成した。年が明けて天平十七(745)年一月、聖武天皇は紫香楽を新都にすると宣言。昨年、新都と定めた難波京へは一度も戻らないままの遷都である。
(こいつ、息子を亡くした悲しみで、頭がおかしくなってんじゃないの?)
誰もがそう疑う聖武天皇の奇行に群臣たちは混乱した。人々の心は聖武天皇から離れ、同年四月に入ると紫香楽で不審火による山火事が相次いだ。明らかに大仏に対する破壊もしくは嫌がらせ行為である。聖武天皇は人々に見放されたばかりではなく、天にも見放されたようで、四月二十七日には近畿地方をマグニチュード8クラスの大地震が襲った。これにより多くの建造物が破壊され、大仏の塑像も見事に崩壊した。
「紫香楽はもうダメだ」
地震は五月に入っても続き、恐れおののいた聖武天皇は紫香楽から恭仁京へ移り、最後は平城京に辿り着いた。約五年かけて再び古巣の平城京へ舞い戻って来たわけである。
(また一からやり直しか。俺の過去五年間の挑戦は何だったんだ? 単なる徒労に過ぎなかったのか?)
平城京へ遷都し、虚しい思いに苛まれていた聖武天皇であったが、それでも大仏造りは諦めず、早くも八月には都の北東、基王の菩提を手厚く弔った金鐘寺が建つ、現在は東大寺になっている場所で、大仏造立事始めの儀が執り行われた。
地震はまだ断続的に続いている。そんな中、聖武天皇は所用で難波京へ向かったが、肉体的精神的疲労が限界に達し、とうとう倒れてしまった。難波宮で病床に臥した聖武天皇は二世王の皇族を招集し、もし自分が死んだら皆でタカノ皇太子を支えて欲しいと要請した。このように聖武天皇はタカノが後継者であると公言していたが、女性の後継者など認めないと考えている者も多く、左大臣・橘諸兄の息子・奈良麻呂は
「後継者を決めぬまま聖武天皇が亡くなれば、天下に争乱が起きる」
と憂慮し、長屋王が藤原不比等の娘・長娥子に産ませた黄文王を擁立しようと水面下で動いていた。幸い聖武天皇が快復したので、この企みが表に出ることは無かったが、政権に対する人々の不満が鬱積しているのは確かだった。
難波宮でタカノが聖武天皇の看護をしていると、そこに母親の光明皇后が後ろに藤原仲麻呂を従えて現れた。光明皇后と仲麻呂はこのところいつも一緒にいるので、二人の関係を怪しむ者が多かったし、タカノもそういう噂を耳にしていたが、努めて気にしないようにしていた。
「あら、タカノちゃん、ご苦労さま。陛下の病状はどう?」
長屋王の怨霊に怯えていた頃と違い、肌艶が良くなり、心持ち若返ったように見える光明皇后は、上機嫌でタカノにそう尋ねた。
「はい。快方に向かっています」
「それは重畳。わたしたちもお見舞いさせて頂くわね」
光明皇后と仲麻呂は仲良く聖武天皇の病室に入っていった。藤原一族の繁栄を何よりも大事と考える光明皇后は、この仲麻呂を藤原一族復活の立役者になり得る逸材と考え、早くから支援してきた。お陰で仲麻呂は順調に昇進し、現在は従四位上参議となり、朝廷内での影響力を強めている。聖武天皇も仲麻呂の能力を大いに認め、頼りにしていた。聖武天皇の療養中は、聖武天皇からの口頭での委任を楯に、光明皇后と仲麻呂が橘諸兄ら重臣を押しのけ、政務を取り仕切っていた。光明皇后は、国家財政が困窮しているにもかかわらず、聖武天皇の平癒祈願を名目に、新薬師寺の創建を始めている。
彷徨五年と呼ばれる恭仁京や紫香楽での無謀な新都建設は大失敗であり、国の財政を傾ける大損失であった。この責任は誰かがとらなければならない。聖武天皇の仏教国家政策を推進してきたのは玄昉である。光明皇后と仲麻呂は、良い機会だから邪魔な玄昉に責任を負わせ、政権の中枢から排除することに決めた。十一月二日、筑紫の観世音寺造営の責任者に任じられた玄昉は、九州に下向した。事実上の左遷である。翌年、玄昉は筑紫の地で何者かによって殺害された。藤原一族による暗殺、あるいは藤原広嗣の祟りだと噂されたが、真相は闇の中である。一方、光明皇后の後ろ盾のもと仲麻呂はさらに昇進を続け、やがてその権勢は左大臣・橘諸兄と拮抗するようになる。
聖武天皇が病床に臥している間も、大仏の造立は着々と進んでいた。造立の指揮を執るのは国中公麻呂という百済系渡来人の技術者である。地震という自然災害によるとはいえ、紫香楽で失敗した大仏造りを、今度こそ成功させると意気込んでいた。
行基とその弟子たちの活躍もあって、国じゅうから大仏に対する寄進が集まり、財政的な目処が立った。また陸奥国で黄金が発見され、大仏の表面を覆う金めっきの用意もできた。
天平十八(746)年十月六日、完成した塑像の前で盛大な法会が執り行われ、天平十九(747)年九月二十九日には鋳造が開始された。死傷者や水銀中毒者が続出した危険で困難な大工事である。聖武天皇は病み衰えた体に力を込め、再び地震や火災が起きて大仏が壊れないようにと祈り続けた。公麻呂は無数の犠牲者を出しながらも、何とかこの難工事をやり遂げた。
だが、その一方で聖武天皇を意気消沈させる出来事もあった。天平二十(748)年四月二十一日、元正上皇が崩御したのである。享年六十九歳だった。母親代わりであった元正上皇の死は、聖武天皇を悲しみのどん底に突き落とし、いつものようにタカノと二人でしばらく泣き暮らした。
翌天平二十一(749)年二月二日には行基が遷化した。享年八十二歳。大仏の完成を目前にしての死であった。聖武天皇は大僧正の死を深く悲しむと共に、大仏造立への多大なる貢献に心から感謝した。
大仏は未完成だが、顔の部分だけは金めっきを終えていた天平二十一(749)年四月一日、この段階で聖武天皇は、光明皇后とタカノ皇太子、それに左大臣・橘諸兄ら重臣と共に北面して大仏に礼拝した。大仏殿はまだ無いので野外である。主君である天皇は南面して臣下を見下ろす場所にいるのが通常なのに、北面して大仏に礼拝したというのは、自分は盧舎那仏の臣下であると聖武天皇が表明したことを意味する。事実、この際に聖武天皇は自身を「三宝の奴」と称している。三宝とは本来、仏、法、僧を表す言葉だったが、やがて仏法そのものを象徴するようになった。奴は奴隷の意味である。すなわち、聖武天皇は仏弟子として仕えると宣言したのである。人生を変える決意をした聖武天皇は、それに合わせて元号も変えるべきだと考え、四月十四日、天平感宝に改元した。
(いよいよタカノに譲位する時が来たようだ)
機が熟したと考えた聖武天皇はタカノを自室へ呼んだ。
「前々から予告していた通り、天皇の地位をおまえに譲るから、後はよろしく頼むな」
「ええ? もうですか?」
聖武天皇に頼まれたタカノは露骨に嫌な顔をした。
「だって仕方ないだろうが、俺は出家するんだから」
「もう少し先に延ばせないの、出家を?」
「大仏もほぼ完成したことだし、今がいちばん良い時期なんだよ」
「そうかなぁ?」
「そうなんです。それに俺は嫌われている。さんざん国の金を無駄遣いして、皆に迷惑をかけたからな」
「ま、それは確かにその通りだけど・・・」
「消えろ、早くいなくなれ、くたばっちまえ・・・そういう怨嗟の声が巷に満ち溢れているのだ」
「そんな状況下で天皇職を譲られても・・・わたしばかりがいつも損な役目を押し付けられるわ・・・」
「心配ないって。当面は俺とアスカが後見するからさ」
「後見すると言われても・・・」
「以前説明したように、タカノは正統な血統を有する最後の天皇だ。普通の天皇とは違う特別な天皇だ」
「はぁ・・・」
「それゆえ、王であった者を奴隷にするのも、奴隷であった者を王にするのも、タカノの自由だ。タカノの後に天皇になった者であっても、タカノに対して無礼をはたらいたり、タカノの命令に従わない不埒者がいたら、容赦なくクビにして構わない。君臣の道理に従い、清く正しい心を持ってタカノに仕える者しか、天皇の位に留まることは許されないのだ」
「随分と御大層なこって」
「そういうわけだから頼んだぞ。タカノは良い子だから聞き分けてくれるよね?」
「良い子はいつだって苦労させられっぱなしだわ」
天平感宝元(749)年七月二日、タカノは即位して孝謙天皇となった。このとき三十二歳。新天皇誕生を祝して元号が天平勝宝に改元された。




