とある夜のおまじない
目を覚ます。まだ頭がぼんやりと重たい。魔力が回復しきっていないのか。
熱い息を吐き、体を起こす。寝台が微かに軋む。そこで自分が建物の中で寝かされていることに気づいた。
カイが運んでくれたのか。目を開けてすぐに飛び込んできたのは、サフィリアの冒険者の店とほとんど変わらない内装の部屋だ。きっとここも冒険者の店なのだろう。
明日の朝、礼を言わなければな。心の中のやることリストにカイへの礼を付け足す。
それにしても喉が渇いた。何か飲めるものはないだろうか。
辺りを見回したく。そこでこの部屋がふたり部屋だと気づいた。ということは、隣のベッドで寝ているのはカイか。
特に気にはならない。姐さんの店でも相部屋だったし、カイは信用できる奴だ。隣は安心する。それに万が一…いや、億が一の間違いも起きないだろう。
それよりも飲み水だ。足をひやりとする床に下ろしたところで、隣のベッドがもぞりと動いた。
「う…」
小さく呻くカイの声が夜のしじまを乱す。
なんだ?夢見でも悪いのか。
気になって覗きこむ。あ、今日は鎧を着てないのか。当たり前か。さすがにベッドの中でも鎧を着込んでいたらさすがに引く。
覗き込んだカイの寝顔は、少し苦しそうに歪めてられていた。心なしか額に汗をかいている気がする。
暑いのか?いや、しかし気温は少し低いくらいだ。いくら暑がりでもここまで寝苦しそうにするほとじゃない。
ならばやはり夢見が悪いのか。
思い当たり、少し考える。ここは起こした方がいいのか。だが、魘されてはいないし、起こすほどでもないような気もする。ならば寝かせておいてやった方がいいのか。
あれこれ考えた結果。起こすのはやめておこうという結論に至った。俺だったら多少夢見が悪くても寝ていたい。睡眠は正義だ。
…だが。チラリと眉を顰めて眠るカイを見下ろす。このまま放っておくというのも忍びない。
…良い夢が見られるおまじないでもしておくか。
それはおまじないというより母親が子どもにするおやすみの挨拶の延長線なのだが。残念ながらソラはそのことを知らなかった。
浅黒い手を握る。やはり硬くて逞しい手だ。以前と違うのはその温度が高いことか。寝ているときは多少体温が上がるものだから気にはしない。
両手で包み込むようにして握ると魔力が流れ込んできた。なんだ、魔力が不安定になってるのか。まあよくあることだな。
魔力が不安定になることなんて普通はない。しかしそれもソラは知らなかった。何しろ彼女の育った国の人間は総じて魔力が多い。そのせいで魔法職でもない限り、自分の魔力を制御できない者はそれなりにいたのだ。
魔力が制御できないなら苦しいだろう。寝苦しそうなのもそのせいか。ならばその魔力を安定させてやるのも魔導師の務めだ。
ソラが思い起こしたのは魔力が不安定な時にいつも手を貸してくれた兄弟や姉妹同然の幼なじみたちだった。あいつらはよく手を握って、優しい額へのキスで魔力をなだめてくれた。
そうじゃなくても友人や近しい人、それに子どもの魔力コントロールを手伝うためにその体に触れることはままある。握手と額へのキスは特にポピュラーだ。そんな魔導師の感覚がソラの根底には横たわっていた。
カイならいいだろう。子どもではないが、こいつは俺の恩人で友人だ。手っ取り早く終わる方がカイも早く楽になる。
額に唇を落とす。その瞬間、カイの魔力が穏やかになるのを感じた。これでいい。
「…良い夢を見ろよ」
呟き立ち上がる。握った手は布団の中に戻した。そして当初の目的通り飲み水を求めて鞄を漁った。
その背後ではカイの穏やかな寝息がすうすうと聞こえていた。
翌朝、軽く打ち合わせをして俺は国立図書館に、カイは依頼で街中へと向かった。どうやらカイは読書は苦手らしい。
「必要な金は稼ぐ。あんたは調べ物を頼む」
とのことだ。男らしいことである。
調べて欲しい内容は聞いてある。竜の生態だ。詳しくは知らないが、竜と姫君を探す上で必要なことなのだろう。
自分の目的…母の魔道書の解読と呪いを解く方法も調べるため、紙とペンも持っていく。メモに残しておけば後で調べなおす時に便利だ。
国立図書館はよほどのことがない限り誰でも自由に出入りできる。もちろん外国人でもだ。これは国の誰にでも平等な教育をという方針のおかげだ。さすが知識の国である。
冒険者証を身分証がわりに踏み込んだ国立図書館は、やはり流石の一言につきた。
天井まで届くほど高い本棚に本がぎっしり敷き詰められている。図書館は二階まであり、高いところの本は二階のバルコニーから取ることもできるようだ。かと思えば梯子に登って本を撮る人の姿も見受けられる。
静かな空気にインクと埃の匂い。本の保存のため陽の光をなるべく入れないようにした室内はしかし、本を読むために魔法灯が揺れていて暗くはない。
この少し淀んだような静けさは落ち着く。誰にも干渉されずに本の世界に浸れる図書館は思えば昔から好きだった。
さて、何から調べるか。思い出から気分を入れ替えて、あらかじめ調べておきたいことを記したメモに目を落とす。
図書館での探し物は得意だ。何せ学園ではよく図書館に通っていた。そのおかげで本を探すのも慣れている。
「…竜の生態」
まずはこれだろうか。
魔法や古代文字関連の本はかなりある。偏見かもしれないが魔法の研究は進んでるのだ。だからかはわからないが『いかに林檎を綺麗に剥くか』という題材で魔法を研究している変わり者もいる。そんな状況が固定されている魔法、いつ使うのか。
だが竜の研究については少ない。そもそも現代において竜は絶滅危惧種のモンストロで、しかも知能がある竜は人を襲わない。大抵は人が住まないような秘境を生息地としているせいで研究者が少ないのだ。
旧竜の国である水の国の一部の地域では未だに竜と共存している民族もいるという噂だが、本当かどうかはわからない。数百年前までは各地で見られたという竜の里も今では見かけなくなって久しい。
そういう理由で竜に関する資料は少ないのだ。
調べるならさっさと調べてしまいたい。だらだらするのは好みではない。
竜に関する本はモンストロの方だろうか。それとも伝説や神話の方に行った方が見つかりやすいだろうか。
図書館をうろついていると、不意に背後から、
「おや」
と声がした。何気なしに振り返ると、昨日助けた子どもの保護者の女性が立っている。
「あんたは…」
「ああ、昨日助けてもらったマリーの母親のエメラルダさ。君は探し物かい?」
「あ、ああ」
「もしかして魔導書…いや、呪い関係かな?」
その言葉に目を見開く。
なぜわかった。エメラルダと名乗った女性から距離を取る。呪いのことは誰にも話していないはずだ。呪術師なら呪い持ちの人間がわかることがあるという。この人はわかる呪術師なのか。
エメラルダはんふふ、と怪しげに笑う。
「そんなに警戒しないでくれ。取って食ったりなんかしないよ。旦那が退魔師でね、そういうのに関わるのが多いだけさ」
あんたも呪われている人間特有の凝りがあるみたいだね。…魔力のことだよ?
言われて脱力する。ルナやステラのことがバレたわけじゃないのか。
それなら大丈夫だ。いや、最低限の警戒は緩めないが。この人は雰囲気が怪しすぎる。
「呪い関連の本が見たいなら家に来るかい?」
「いや、だが…」
流石に怪しすぎる。付いていくのは躊躇われた。
「私の旦那さんは風の国の《翠の御神刀》と呼ばれてるんだ」
「行きます」
即座に頷いた。
だって《翠の御神刀》シュタインと言ったら有名な退魔師であり、白魔導士なのだ。世界でも五本の指に入る。風の国の魔導師の一族のひとりで、過去に死霊王に取り憑かれた女性を助けただとか、悪魔に魅入られた少年を救い出しただとかいう伝説が月の国にまで届いていた。
さらに彼が書いた白魔導士のための魔道書はわかりやすく、より患者に負担の少ない方法で癒すための技術が記されていた。
白魔導士の中には彼を目指しているという者も珍しくない。俺も彼を魔導師として尊敬している。
「なら昼頃に図書館の受付で待ち合わせよう。それまでにお互いの目的の本を借りる。どうだい?」
「わかった」
「んふふ、じゃあまた後で」
エメラルダと別れ、思わぬ幸運に拳を握る。まさか退魔師シュタインに会える機会が来るとは思わなかった。昨日子どもを助けて良かった!
舞い上がりそうになる体を抑え、速攻で竜に関する本と古代文字に関する本を数冊ずつ借りるのだった。