名実101 {129単独}(307~309 大島が政治への道を駆け上がる過程)
「ただ、先程も話が出ましたが、故郷を捨てざるを得なかった一方、あなたは岩手出身ということ自体は、そう極端には隠していないですよね? 当時から。小柴さんも、出身について知っていたぐらいですから。そりゃ選挙に出てからは、公職選挙法なんかの絡みで、戸籍を辿ればわかる以上どうしても嘘を付けないってこともあったでしょうけど、そこは正直言って不思議なんですよ。ここまでの話を聞く限りですが」
吉村が西田も気になっていたことを聞くと、
「それはだね……。私が最も消したかった、そして隠したかったことは、私が戸籍上で桑野欣也と名乗っていたことであって、桑野欣也の存在や岩手出身であるということ、そのものではなかったからだ。岩手訛を捨てたのは、故郷の岩手を捨てたということではなく、先程も言った様に、成り済ましていることを知られる切っ掛けとなったというトラウマ故だ……。当然、地元にはもう戻らないという意志も同じだ。何とも伝わりにくい部分かもしれないが、その微妙なところを理解してもらえるなら助かるが」
と、複雑な心中を吐露した。
「そこは我々にとっては、明快に理解出来る代物ではないとしても、あり得ないとは思いません。あなたにとっての桑野さんは、間違いなく大きな存在だったことは確実ですから。桑野さんそのものを否定するつもりも、故郷を忘れ去るつもりもなかったってのは、何となくですが理解は出来ます」
西田はそう言って大島の話を受け止めた。これは自供させる為、大島の心情に阿ったのではなく、実際にそう感じていたことだった。
「そして、多田さんのところに下宿するようになってから、あなたは小柴さんとも出会い、色々人生が急変していく訳です。そこはかなり詳しくお願い致します」
西田が改めて頼み込む。
「下宿し始めて、他の下宿生と共に桜さんには大変よくしていただいた。元々お子さんがいなかった上に、ご主人を東京大空襲で亡くし、その当時疎開先にもしていた埼玉に居たご兄弟も戦後すぐに亡くしていたそうで、少なくとも直接的な家族という者がいなかったことも、我々に愛情を注いでくれた要因だったのだろう。そして、特に親族が皆死んだという私の身の上を知ってから、桜さんはより一層私に気を使ってくれたものだ……」
「なるほど、そうでしたか……」
西田と吉村も相槌を打った。
「そして、下宿をし始めてから初めての正月。……つまりあれは、昭和26(1951)年の正月だったと思うが、私は帰省する先もないから、他の下宿生が居なくなった後もそのまま下宿に残っていた。そんな私に、当時の食糧供給事情の中では考えられない程の豪勢なおせちを振る舞ってくれたんだな……。元々、東京の良い所の出の人だったから、私の故郷のおせちもまあまあ悪くはなかったが、大した下宿料も払っていない中で、びっくりするほど華やかでね……。感激した挙句、屠蘇で感情が高ぶっていた私は、あの爆発事故から砂金の横取りまで、自分が背負ってきた罪について、ついに桜さんに洗いざらい暴露してしまったという訳だ……。誰かに事実を白状して、抱えた重荷を下ろしておきたいという心情も、……間違いなく影響したんだろう」
当時の心境を思い出したか、大島は少し言葉に詰まっていた。
「多田さんは、自ら養子縁組を申し出たという話は小柴さんから聞いていましたが、それどころか小野寺さんの事情を全部知っていたということですか?」
吉村も西田同様驚きを隠せなかったようだが、
「そういうことだ」
と短く返された。更に
「そしてその時、私が欣ちゃんの形見として持っていた、君らが先日私に見せた半纏の切れっ端……、今日は持ってきてないのかね? ……まあそれならそれでいいが……。あれを桜さんに見せると、『これを持っている限り、あなたは『過去』から逃れることは出来ないのだから、私が預からせてもらいます。そしてあなたは、桑野という姓も変えてしまいなさい。桑野を名乗っている限り、その呪縛からは一生逃れられません。その為に私があなたの義母となりますから。どうせ私には子どもも居ませんし、相続で揉めることもないですからね。ただ、あなたがその砂金を横取りしてしまった償いも兼ねて、私から相続したものは必ず社会に役立つようなことに使いなさい。そして、名乗る名字は変わっても、あなたが負うべきものは、これからのあなたの生き方で償いなさい。これだけは約束してくださいね』と言われたんだ。正直、余りにもありがたすぎる提案に、私は飛びつくというよりはむしろ、これで良いのだろうかという逡巡の方が強くなってしまって、しばらくそれを受諾するか迷っていたぐらいだった……。桜さんとすれば、それが不満に思った故の迷いかと、少々悲しかったという話を後から聞いたぐらいでね。とにかく桜さんが亡くなった後、あれを探していたが、まさか小柴さんに託していたとはな……」
と詳細を付け加えた。
小柴が聴取に訪れた竹下と黒須にしていた、95年11月当時の証言と、端布について多田桜が、「道を過ったら大島に渡してくれ」と小柴に託していた理由など、大島の回顧と完全に結びつき、西田と吉村はこの部分についてかなりスッキリしていた。
「戦時中にあなたが召集されなかったことについて、多田さんは、小柴さんには『病気が原因で』という話をしていた様ですが、これはあなたに気を使ったということなんでしょうね、事情を知っていたとなると」
西田にそう問われると、
「そういうことだろうな……。私もそれについて一々桜さんに聞いたことはなかったが」
と、大島も同意した。
「さて、その後あなたは小柴さんの紹介で、いよいよ海東匠議員のアルバイト秘書を在学中に始めたんですよね? あなたから小柴さんに頼み込んだとか」
「西田君、それで合っている。桜さんとは春に養子縁組をして、私も心機一転、人生を更に実りあるものにしようと考えていた。まさにそんな時、生前の欣ちゃんの志を改めて思い返していた。議員になって日本を変えたいという強い意志だ。そして桜さんに言われた『償い』についても考え始めてもいた。そうなると、実際に代議士になるかどうかまではともかく、政治に関わってみたいという思いが、私の中で急激に頭をもたげてきた訳だ。そして丁度都議会議員になったばかりの小柴さんに相談すると、国会議員に知り合いというか、古くからの先輩がいると言うので、一も二もなく紹介してくれるように頼んだ。小間使いとしてでいいからと!」
この時、当時の熱い気持ちを思い出したか、大島の喋りが心なしか能弁且つ雄弁になった印象を西田は受けていた。
「ところが肝心のその国会議員が、北海道の選挙区から選出されていた海東匠議員だと知って、当初あなたは余り良い顔をしなかったそうですね、小柴さんの回顧では。ここまで話を伺う限り、言うまでもなくあなたにとっては、出来るだけ避けたい、或いは思い出したくない場所に北海道はなっていたからでしょうから……」
吉村にズバリ指摘され、大島は苦笑いを浮かべつつ、
「そんな細かいところまでよく推察している……。そうだな。しかも網走や北見を中心とした道東の北海道5区(作者注・1947~1994年の公職選挙法改正までの中選挙区時代)だったのだから、その選挙区に含まれる湧別、鴻之舞、生田原、別海、中標津とくれば……な。故郷の岩手も帰りづらい場所になってしまったが、こちらはそのまま、本当に避けたい場所になっていたからね。特に北海道の東側は私にとって心理的に……。機雷事故、タコ部屋労働……。一度は断ろうとした上で悩んだが、そこの選出議員だとしても、私がそこに住む訳ではないと考え、そこは思い直して秘書として弟子入りした。勿論、海東匠という大変立派な政治家の下で修行出来たことは、私にとって大きな財産になる……、はずだったのだがね」
最後は、ここから始まったであろう、ある種の悲劇を恨む心情を隠さない様な、苛立った言い方になっていたが、伊坂大吉の脅迫が華々しい国会議員としての経歴になるはずだったものを、初っ端から汚しただろうことを考えれば、致し方ない感情だったのだろう。
「海東匠という名前は、それ以前には全く聞いたこともなかったんでしょうか?」
吉村が改めて問うと、
「恥ずかしながら、海東先生の名前はそれまで全く知らなかった。大政翼賛の選挙にも抗った硬骨漢の大物だとも知らずにな。だから北海道選出というだけで断ろうとした訳だ。その点は小柴さんにも、『あの海東匠議員の元で勉強出来るのに、何故断るのか? 普通なら喜んで感謝してもらう条件だ』とたしなめられたよ……。結局私は説得されて、最初は渋々師事することになったが、小柴さんの言う通りにして良かったと、その後深く反省した次第だ。勿論、海東さんの地元の問題については、全て解消されたとまでは言いがたかったがね……」
と、当時を懐かしむかの様に一言一言区切りながら喋った。
「鳴鳳大学時代から既に、夏休みなどで海東議員の地元である網走方面に行くことがあったとか、小柴さんが証言していたそうですが、あなたの奥さんともその時に知り合ったそうですね?」
今度は西田が尋ねる。
「まいったな……。ああそうだ。今でこそ家内は単なる老婆と成り果てたが、あれでなかなか当時は可愛い娘でな……。一応は家内とあちらの両親が先に気に入ってくれたようではあるが、私自身も悪い気はしていなかった。結局は卒業後婿入りすることになるが、私としても家内の家が裕福だったからという『政略結婚』という捉え方はせず、相思相愛とでも言うか、桜さんの養子になる時同様、こちらに何か邪な思いがあったという訳ではない」
妻との馴れ初めを語った際には、若干はにかんだ様にも見えたが、政略結婚ではないそう否定した時は、かなり真剣な表情にも見えた。
「そして嫌々ながらも、海東先生の地元でも大学の休みに季節的に活動していた私だったが、地元を先生と共に歩む内、色々と考えさせられることになった。無論、自分の戦時中の歩みを無理やり振り返ることになるのだが、避けるべきというよりは、むしろ正面から向かい合おうという思いが、徐々にだが目覚め始めていた。湧別周辺では、当時の機雷爆発事故の被害者や遺族の話を聞く機会があり、あの後どのような状況に地元の人々が置かれたかを聞いた。犠牲者の家庭では、働き手や大黒柱を失ったことで、相当困窮する者も多かったそうだ……。そして地元の人々と、対応を誤った警察との間の軋轢は、やはりしばらく続いたらしい」
西田と吉村が所属した遠軽署の当時の大いなる失態は、地元民からの信頼をかなり失っていた様だった。しかしそうだったとしても、機雷についての知識がない素人同然の警防団を、爆破作業の為によせ集め、一般の野次馬まで観客として呼び込む形となれば、強く批判されたことは当然の報いとも言えた。
「鴻之舞の方にも行ったのですか?」
吉村が尋ねると、
「一応、紋別は選挙区内だからね。風貌は完全に変わったという程でもなかったが、さすがに当時よりはふくよかになっていたこともあって、恐る恐るではあったが大丈夫だろうと先生に着いて行った。案ずるより産むが易しではないが、全くバレることもなく……。まあ戦時中の数ヶ月程度しか居なかったこともあって、事故に巻き込まれたことになっていたとは言え、余り記憶にはなかったのだろう。金鉱山のお偉方の中には、こちらの記憶に残っていた人間も数人居たが、あっちは私が誰なのかまで気付いている様子は微塵もなかった」
と答えた。
「しかし、あの機雷事故という騒ぎの中で、犠牲になった『はず』なんですから、それなりにインパクトがあったような気もしますがね」
西田は疑問を挟んだが、
「確かにインパクトのある事故ではあっただろうが、後から知ったこととは言え、国策で戦時中に金山が閉山していたことや、戦後10年近く経っていたのだから、敗戦ショックの大きさなどを考慮すれば、それ程おかしいことでもなかろう」
と、諭すように解説された。確かに日本にとって、細かいことを忘れさせる程、激動の10年を挟んでいたことは間違いなかろう。
「それで、例のタコ部屋労働の現場にも行ったのですか?」
ズバズバと吉村は聞きづらいことを西田に代わってぶつける。本人は別に汚れ役を引き受けているという訳でもなく、単に不躾なだけなのかもしれないが。
「直接、飛行場の建設現場跡地に行ったことはないが、海東先生の政治集会に来ていた地元の人の中には、世話になった農家の家族も居たな……。こちらでもあの時とは完全に風貌が違っているから全くバレなかったが、心の中で何度も礼を言って頭を下げたものだ……」
そう発言した時の大島は、深い感謝の念を抱いているのが2人にも判る程だった。
「そうなるとこの時には、小野寺さんとしては、この選挙区回りは割とトラウマを払拭する形になっていたのですね?」
西田は、後の伊坂による脅迫において、再び暗い影を落とすことになるだろう選挙区内での活動を念頭に置いて確認した。
「そうかもしれない。ただ、私は選挙区内で様々な地元の有権者と接触するうちに、あのタコ部屋労働が、道内各地で戦時中以前から広く行われていた事を、欣ちゃんから聞いていた以上に知った。そしてその流れこそが、私が辛酸を嘗めたあの状況につながったのだと深く理解する様になってもいた。それが後に、議員としての労働問題に取り組んでいく上で、重要な基礎的見聞として培われたと確信している。つまりこの経験が、トラウマの克服以上に、より政治への熱意につながったということだ。そしてそのタコ部屋労働の本質が、開拓時代の囚人労働に端を発するという知識もまた、先生との選挙区回りの過程で得た。いわゆる囚人道路……。ところで君らは囚人道路という名前を知っているかね?」
話の途中で不意に2人に尋ねてきたので、2人は黙って頷いた。
その様子を見届けた後、徐に話を再開する大島。
「それにまつわる話をだ、その沿線の古くからの開拓民から色々聞く機会があったからな私は……。そして今でこそ、しっかりとした、犠牲になった囚人達の慰霊碑が多くの地区で立っているが、当時はまだ何もなく、鎖につながれたまま、ただ上から土を掛けられただけの土葬で処理された、いわゆる土饅頭があるだけだった……。幾ら相手が囚人とは言え、あのような極めて非人道的な扱いの責任を問うべき人物として、先生から話を伺い自分でも調べる内に、最終的に金子堅太郎という明治政府のエリート官僚に、私はたどり着くことになった訳だ」
「カネコケンタロウ?」
吉村が顔を前に突き出して眉間にシワを寄せ、如何にもその名前に見当が付かないという表情を浮かべた。
「そうだ。金子 堅太郎だ」
大島はそう忌々しそうに口にしたが、やがて金子について西田達に説明し始めた。
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金子堅太郎は、官僚出身で、後に司法大臣、農商務大臣などの要職を務めると共に、伊藤博文付きの内閣総理大臣秘書官時代には、大日本帝国憲法や当時の皇室典範起草に関わるなど、維新から間もない明治憲法下の日本で、超エリート街道を歩んだ人物である。
1853年福岡生まれで、藩校(現在の福岡県立・修猷館高校の前身である修猷館)において大変優秀だったことから、1871年の岩倉使節団の旧福岡藩主・黒田長知の随行員として渡米(この時の随行員には、後に三井財閥の総帥となる「団 琢磨」も居り、永く盟友関係であると共に、団が金子の妹を妻としたため姻戚関係でもあった)。その後そのまま留学という形で、最終的にハーバード大学の法学部を卒業する。
ハーバード時代には、不平等条約改正や関税自主権回復、ポーツマス条約締結に関わったことで有名な小村壽太郎(寿太郎)と共に、法律のみならず西洋文化などを学んだ。
帰国後は、初期においては自由民権運動に関わりながらも、後に元老院に仕えたり、青森県令(今の知事に該当)の娘と結婚したりする内に保守派へと変貌する。
さて、その金子が北海道開拓と関わることとなるのは、明治18(1885)年、太政官の大書記官時代に、当時3県(函館県・札幌県・根室県)体制だった北海道を視察してからである。
現在の北海道・月形町・月形刑務所の前身(長期に渡り間が空いた為、直接的に引き継がれたモノではない)である樺戸集治監の典獄(今の刑務所長に該当)・「月形 潔」より、開拓に囚人を用いることを提案されこれを了承。その後、北海道開拓に関する建白書(北海道三県巡視復命書)を政府に提出した。
この中で金子は、
「集治監ノ囚徒ヲ道路開鑿ノ事業二使役スル事
道路線既二定マリ、測量完ク成り、開墾費用ノ予算編成ヲ告グルニ至ラバ、速カニ之レニ着手スルヲ要ス。今此開鑿二着手スルニ方リ、線路中、或ハ10数里ノ密林ヲ伐採セザルベカラザルモノアリ。或ハ険岨ノ山嶺ヲ平坦ナラシメザルベカラザルモノアリ。或ハ、谷地ノ排水セザルベカラザルモノアラン。然ルニ、此等困難ノ役二充ルニ通常ノ工夫ヲ用ヰバ、一ハ其労役二堪へザルト、一ハ賃銭ノ割合非常二高キトノ情況アルガ故ニ、札幌及ビ根室二県下二在ル集治監ノ囚徒ヲシテ之レニ従事セシメントス。彼等ハ、固ヨリ暴戻の悪徒ナレバ、其苦役二堪へズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野二埋ムルノ惨状卜異ナリ、又今日ノ如ク、重罪犯人多クシテ、徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ、是等必要ノ工事二服従セシメ、若シ之ニ堪へズ斃レ死シテ、其人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日二於テ、萬己ムヲ得ザル政略ナリ。又尋常ノ工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道二於テ、尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四拾銭ヨリ下ラズ。囚徒ハ、僅二一日金拾八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ則チ、囚徒ヲ使役スルトキニハ、此開築費用中、工夫ノ賃銭二於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ、一挙両全ノ策卜云フベキナリ……」
と述べている。
簡単に言えば(作者注・私の勝手なまとめで、多少意訳が入っていますが)、「北海道開拓の道路建設においては、測量も済み予算編成も出来、すぐにでも建設に着手する必要がある。しかし建設に着手する際、その道路の予定地は、森が深く、山が険しく、湿地帯の場所が多く、通常の作業員(工夫)では労務に耐えられず、また賃金も高くなるので、刑務所に居る受刑者(囚人)を用いるのが良い。連中は暴徒で重罪人なのだから、厳しい労働で野垂れ死んだところで、妻子の居る一般の作業員と違い、山谷にそのまま埋めたところで問題にはならない。また重罪人が多くなり、刑務所における税金の支出が増えるぐらいなら、重労働で死んでくれた方が財政的にも好ましい。一般の作業員を使用すると1日当たり40銭以上掛かるが、受刑者は18銭で済む。これで予算が半額以下で済むのだから、一挙両得であろう」というような文面である。
当時の世界最先端級の法学・文化をハーバードで学んだ上、帰国後には自由民権運動に関わった人物としては、当時と今の人権状況の差を考慮しても、かなり乱暴な意見である(特に受刑者が過酷な労働で死んだ方が、税金の無駄が省けるというのは、本音として有り得ても、公の文書で書くという意味において)と共に、当時の北海道の集治監に集められた囚人の多くに、凶悪犯よりもむしろ、いわゆる「国事犯」としての政治犯が多かった(金子がこれについての認識が乏しかったと言うのは、相当無理があるだろう)ことを考えると、かなり独善的な国家主義・選良主義的思想に傾倒しつつあった様が窺える。
そしてこの政治姿勢がそのまま中央政府にも採用され、網走・上川間の中央道路(通称・囚人道路)の過酷な建設や、後世の民間の土建業者にはびこった、タコ部屋労働へと引き継がれていくこととなる。
※※※※※※※参考資料
金子堅太郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E
囚人道路関連
http://www.kangoku.jp/kangoku_hiwa3.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/7248/album/kusarizuka.html
http://www.city.kitami.lg.jp/docs/7135/
http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/3673.htm
最後の月形町のサイトは本編では参考にしておらず、作中では触れませんでしたが、この岩村と安村ってのも相当の冷血ですな。
幕別町史 http://archive.fo/h5cU
尚、ご存知の方も多いかと思いますが、幕別町は平昌冬季五輪メダリストの高木姉妹と、日本女子陸上短距離界のレジェンド福島千里の出身地でもあります。
また、囚人道路における各公的組織管理のサイトが、「負の歴史遺産」についてもしっかりと言及しておりますが、昨今の「美しい歴史支持者」のおかげで、この手の言及についていつまで維持出来るか、ある意味今後見ものでしょう。
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