名実99 {127単独}(303~304 道内へと再び戻る)
「そしていよいよ、再び北海道の地を踏んだということですか。そのまますぐに小樽へ?」
西田に質され、
「北海道へと向かう前に一度綾里に立ち寄った。その時には、もうここへは二度と戻ってくることはないだろうという覚悟を決めた瞬間でもあった。事実、私はあれ以来綾里には一度も行っていない。無論、故郷に津波以外の悪い思い出は一切無く、本気で忘れ去りたいとも思ったことはないがね。そもそもあの津波被害を考えれば、戻ることがあっても、誰かにバレるという点においては、おそらく大丈夫だったのだろうが、そう自分に言い聞かせることで、故郷に対してではなく、過去の自分自身に対する決別の意味も強くあったと記憶している」
そう語った時の大島の表情は非常に硬いものだった。その上で、
「そしてそれから、釜石の復興具合を見届けて再び内陸に戻り、国鉄で青森駅に着いた。すると、米俵を担いだ農家らしき女達多数が連絡船に乗ろうとするので、何だと尋ねると、函館に米などの物資を持って行くと儲かると言う話だった。その帰りには、函館から魚介を購入して青森で捌いて儲けると口々に言う。そして私も函館まで連絡船に乗船して駅に降り立つと、そこには仙台以上に闇市が広がっていた。私も含め、皆生きるのに必死な時代だったからな……。ただ、悲壮感もあったが妙な高揚感というか、活気に満ちた時代でもあったように、今となってはだが、そんな風に思える」
と続けて当時を思い返していた。
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終戦当時の函館は、道内各地からの農作物や函館近海で取れた魚介類、青森からの農産物と、様々な物資が戦後の食糧不足の中で集まる集積地に自然となっていた。青森からは、戦後しばらくの間は米は勿論、リンゴ、酒が持ち込まれ、道内からは小豆やデンプン、雑穀などが入ってきた。
青森から物資を持って来た人々は、荷が空になった帰りは、函館からの魚介などを儲けた金で持ち帰って、今度は青森側で売り捌くというシステムを採用していた。
そのような物資の運び屋のことを、全国共通で初期には「ヤミ屋」と呼び、後に「担ぎ屋」と呼ぶことになる。
このような闇市や担ぎ屋の活躍は、函館では昭和30年頃まで続いたが、闇物資とは無縁の担ぎ屋も、昭和40年代までは連絡船に普通に見られたという
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終戦直後の混乱期、多くの人が困窮に喘いだのも事実なら、この混乱期に成り上がった人間も多い。戦国時代の下克上よろしく、良くも悪くも頭の働く人間にとっては、身分制が実質色濃かった戦前と比較し、成り上がることが容易に出来る時代だったとも言える。その空気を大島も感じ取っていたのだろうと西田は思っていた。
「それはいいんですが、肝心の小樽での話をしてもらいたいんですがね」
吉村が痺れを切らしたように催促すると、
「ああ、それは申し訳ないな。少し当時が懐かしくなってしまってな……」
と、大物政治家らしからず、若造相手に素直に謝罪した。そして、
「函館には、貰った餞別で余裕もあったから、今の様に悠長に観光という状況では到底なかったが、何となく2週間程滞在していた。はっきりとその滞在の理由を説明するのは今でも難しいが、小樽で砂金の在り処を聞き出せば、いよいよ生田原へと向かわなくてはならない。どうもその覚悟がはっきりと付いていなかったのかもしれんな……。とは言え、その後ようやく小樽へと向かった。早朝に出発したものの、小樽に着く頃には既に夜になっていたはずだ。小樽駅前にも闇市が出来ていて、腹が減っていたので、そこにあった屋台で腹ごしらえをすることにした訳だ。すると初老の店主が、岩手訛の喋りだったので、聞いてみると、岩手の久慈と言う所の出だという。元々漁師だったが、30年程前に何だかんだで小樽に流れ着き、15年程前から得意の料理で板前に鞍替えしていたが、今は闇市で店を出している方が儲かるので、屋台をやっているということだった。こっちとしても、距離こそ離れているとは言え、同じ岩手の出だから、思わず盛り上がって、2人で岩手訛丸出しで会話を続けていた。すると後ろの方から……、未だにはっきり憶えているが、『欣ちゃんでねえか?』と声が聞こえた。勿論、私は本当は小野寺道利なのだから、それに反応する必要はなかったのだが、『欣ちゃん』という呼び方に、思わず振り向いてしまったんだな。そしてそれがある意味運の尽きでもあった……」
と言い出した。
この場面が、伊坂政光から聞いていた、大吉……、当時は改名前でまだ太助だったが、彼と大島海路の初めてのコンタクトだったことは自明だった。これまでは政光というワンクッションを置いた証言だったが、これ以降は、大島海路本人の一次的な話で答え合わせが始まるのだと、西田と吉村は更なる緊張感を持った。
「実はその時のことについて、こちらは既に息子の政光から聞いてまして、大吉としては、岩手訛に加え、あなたの後ろ姿が桑野欣也を想起させたと伝えていた模様です」
西田がそう告げると、
「特別私が欣ちゃんと容姿で似ているということはなかったが、私も割とこの年代としては大柄だったし、従兄弟ということもあって、何か思い当たる節があったのかもしれんな……。相手はすぐに欣ちゃんではないことはわかった様だったが、同時に、私がその名前に反応したことに思う所があったらしく、『俺は伊坂太助って言うんだが、桑野欣也って奴と一緒に働いていたことがあるんだ。ひょっとして、あんたはその桑野欣也の知り合いでねえのか?』としつこく問い詰めてきた。彼に成り済ましている以上は、そこでも何か言い訳して否定すれば良かったのだろうが、それ以上に、欣ちゃんの知人であり、証文に載っている人物と出会った奇跡に、ある意味心が動いてしまったのかもしれん……。思わず従兄弟であると認めてしまった。すると、『欣ちゃんは今どうしてるんだ?』と、これまたしつこく聞いてきたので、『事故で死んだ』とそのまま伝えた訳だ。その時の伊坂の落胆振りは、それまでの態度と急変したので、こっちとしては、他人がそこまで欣ちゃんの死を悼んでくれているのかと、ある意味申し訳がないと感じてしまったぐらいだ」
と答えた。
「しかしその落胆は、このままでは砂金の在り処を佐田の親から教えてもらえなくなるという絶望から生じたものだった訳ですな。まあ、政光から聴いた限りですが、桑野さんに対して、ある種の敬意も持っていたが故でもあったでしょうが……」
「そういうことだろうな、西田さん。こちらとしても、佐田徹が戦死していたことを伊坂から聞かされて、多少は残念に思っていたが、そもそもそんな状況に備えて、佐田徹は小樽の実家の情報を欣ちゃんや伊坂に伝えていたんだから、私の心はほとんど動かなかったがね……。しかし、私がその場では相続人・小野寺道利として、翌日にでも佐田家に在り処を聞きに行くと言うと、『頼むから、一緒に行った上で、桑野欣也として佐田の親の前で振る舞ってくれ』と懇願された。その時は、事実上戸籍でも私が桑野欣也に既になっていることは伝えていなかったから、私としてもギクッとしたがね……。ただ、伊坂自身の証文も確認していたし、私自身はどちらにせよ、証文を持っている上に砂金を正当に受け継ぐ資格があった訳だ。だから、私が佐田の親から聞いた上で、彼に私から伝えるという方法もあったのだろうが、彼としては、私に生田原の砂金の埋められている場所に土地鑑(勘)がないから、佐田徹の伝えてある情報をちゃんと理解出来ないかもしれないと危惧したらしい。だから、一緒に言って直接聞きたいということだった。という訳で、最終的に伊坂の提案を受け入れ、翌日に共に佐田の実家へと赴いた。まあ今考えると、そもそもが、私が桑野欣也の従兄弟である小野寺道利だと証明するのは、私自身が死んだことになっている以上、案外難しいことだったかもしれないがね。そうなると、結果的には欣ちゃんとして面会したのは正解だったんだろう」
政光の取り調べで聞いた限りでは、その点について父・大吉から政光は詳しい話を聞いておらず、情報を独り占めされてしまうことを恐れたが故、小野寺をそのまま桑野と偽り、佐田家に一緒に聞きに行ったのではないかと推測していた。だが「表向き」の真実は、大島の土地鑑の無さだったと判明した。言うまでもなく、大吉の真意としては、むしろ政光の推測の通りだったかもしれないが、かと言って土地鑑の面での可能性も完全に否定する必要はないはずだ。
ただ、伊坂が佐田家から信用されていなかったことについて、大島が知っていたか確認しておこうと西田は思い、
「一方で、それより前に伊坂が単独で佐田の両親に会った時、徹からの生前の指示で、他の相続人と来ない限りは、砂金の在り処は教えないと拒否されていたことはご存知でしたか?」
と尋ねてみた。すると、
「否、それについては初めて聞いたが? 伊坂は佐田家に既に行ったことがあったのか?」
大島は少し驚いた様だった。
「ええ。佐田徹が死んだのもその時に聞いたそうです。とにかく、伊坂だけは単独で来ても教えるなと、徹は両親に手紙で指示していました。徹としては、伊坂に何やら人として信用出来ない部分があると察知していた様です。独り占めされる危険性を感じていたのかもしれません」
西田がそう答えると、
「信用の話はともかく、徹の死について言われてみれば、情報源は限られるのだから、そうだとしても不思議ではないな……。その時は深く考えることもなかったが」
と返した。後から大島自身が砂金を横取りすることになるのだから、信用の話については濁したのも当然のことだった。
「そうですか……。当然ですが、小野寺さんが単独で聞き出す方法もあったんですから、一緒に行かないとダメだということでもなかったんでしょうが、そうなると土地勘が原因で単独では生かせなかったのか、自分自身でも聞き出す為に小野寺さんを連れて行こうとしたのかは、尚更微妙ですね」
西田はそう答えたが、敢えて「大島に独り占めされる恐れ」については触れなかった。
「そこでは、無事に在り処を聞き出すことに成功したんですよね?」
吉村が念のため、当たり前のことを確認すると、
「証文があったからな。そこは疑われることもなかった。こっちとしては、証文の指紋と確認されるんじゃないかと、そこだけは冷や冷やしてたが、それもなかった。まあいざとなれば、桑野は死亡しており、その正当な相続人だと主張するつもりではあったがね」
と、当時の心情を吐露した。
「そして聞き出した後は、すぐに生田原へ?」
西田が質問を継ぐ。
「すぐにではなく、小樽の宿で一泊してからだったな。伊坂の宿代は私が持ってやった。その晩は欣ちゃんの思い出話を2人で深夜までしていた。またその後、伊坂が当時の生田原での生活を長々と振り返っていたのを思い出す。高村殺害についても、仕方ないと言いつつも、多少の後悔はしていた様だった。最初はさすがに言い出しづらかったようだが、こちらが欣ちゃんから事の顛末を聞いていたことを知ると、洗いざらい打ち明けてきたがね……。そして翌朝、生田原へ向けて出発し、今程鉄道事情も良くないから、旭川で更に一泊して翌日に生田原まで着いた。そこで宿に止まった上で、早朝からあの場所を目指したんだ」
今でこそ、小樽から生田原など5時間未満で着くが、当時の鉄道事情では、2日掛かりだったという。
「ところで、他の相続人の分の砂金を自分達で取ってしまおうと言う話になったのは、こちらで政光が父親から聞いている話では、生田原に向かう車中だったということですが、それで合ってますか?」
西田は一度を遮って詳細を求めると、
「間違いなく、それで合ってるはずだ。正確には、前日の旭川行きの車中と言うべきかな」
と自信ありげに発言し、
「旭川に行くまで色々と、昨晩話したこと以外の2人のこれまでの人生を、互いに話し合おうということに自然となって、小さい頃から色々と話していた。そして、戦時中の話を私から喋っていると、急に無口になって、かなりの時間黙り込んだんだな伊坂が。召集されたところまでの話は聞いていたが。その後、伊坂の話はこっちが『聞かせろ』と言っても一向に喋らない。私も少々苛立ったが、相手が黙ったので、戦争中のことだから言いたくないことがあるのだろうと、諦めて静かにしていた。私自身にも、そういう思いがわからない訳ではなかったからね……。ところが、急に『自分達で砂金を独り占めしよう』と言い出して、こちらとしても戸惑ったことが未だに記憶にある。私としても、欣ちゃんから相続しているとは言え、彼の生きていた頃の、他の相続した仲間への思いを考えれば、横取りすることはそりゃ飛んでもないことだという意識はあったわけだ」
と続けた。




