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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
名実
175/223

名実98 {126単独}(301~302 東北地区の空襲における惨状)

 この取り調べの冒頭辺りで、桑野が徴兵検査の為に故郷に戻ってきた話を大島が回顧していた。その際、当時の土木建築現場である、北海道の「飯場」の惨状についても、桑野から大島は聞いていた様だが、「当時の私にはよくわからなかった」という発言をしていた。その真意は、実際に体験してみたことと、頭の中で想像していたものとは違ったということを、暗に示唆していたのだろう。それに加え敗戦間際の状況は、おそらく桑野が体験していた状況より更に悪化していたことは、大島の発言通りほぼ間違いないはずだ。


 戦地も、ガダルカナルなどの南方戦線や沖縄の様な、まさに生き地獄もあれば、銃弾一発すら撃たないまま終戦を迎えた部隊や地域もある。そのような意味では、場合によっては大島の体験は、戦地よりも遥かに過酷だったということは、そう的外れではなかったろう。


※※※※※※※


「結局、終戦後はそのまま北海道に留まっていたんですか?」

大島の話を受けて吉村が尋ねると、

「戦争が終わったからと言って、すぐに動けるような状況にはなかったからね。風貌が変わる程まで痩せこけていたので、数週間は動けずそのまま留まるしかなかった。……地元の農家の納屋で泊まらせてもらい、雑穀の提供を受けながら、何とか体力の回復を図った。無論、余りにも嫌な思いをした地からは、すぐにでも離れたかったが……」

そう言って、当時の苦渋を振り返ったこともあり、大島は一瞬かなり険しい顔付きをした。しかし、

「ただ、そのタコ部屋の悪しき経験は、私が国会議員になった後……。君らは知らんだろうが、農林水産族や建設族という評判の悪い、こう言いたくはないが、族議員というだけではなく、労働族として労働者の権利の為にも働いたことだけは、今でも胸を張って主張出来る。むしろ議員としては、労働委員会……、今でいうところの厚生労働委員会(作者注・2001年1月に厚生省と労働省が統合された為の変化)で活動し、そちらに心血を注いでいたのだが、残念なことに世間様はそうは見てくれないのが、自ら招いた厄災だとすれば甘受するしかないのかな……。とにかく私達が経験した様な苦労を、戦後の労働者がせずに済む為に政治活動したのは確かだ。それが私の意志であり、亡き欣ちゃんの遺志でもあったから」

とも、最後には苦笑しながら付け加えた。


※※※※※※※


 族議員と言えば、特定の政策分野で利権をむさぼる国会議員という、悪いイメージが今ではすっかり付いてしまったが、元々は、その分野の政策に精通した議員(集団)という意味であった。


 各省庁の官僚とやり合い、影響力を与えられるだけの知識を、同僚議員や先輩議員と勉強する為の集団であり、それが拡張したものが、いわゆる派閥という組織に受け継がれていった場合が多かった。


 全国会議員は、各担当・専門とする分野の両院にそれぞれある委員会に所属(国会議員は最低でも1つの常任委員会に所属する義務がある)することが義務付けられている為、族議員は概ね、その派閥が得意とする専門分野の委員会に所属することになる。当然、複数の委員会所属経験のある議員も多く、派閥の得意不得意分野にとらわれず、複数分野の「族議員」として活動することも普通である。尚、常任委員会とは、基本的に各省の所管政策、問題などについて討議、審査、調査を行う場である。


※※※※※※※


 確かに大島海路と言えば、海東匠の後を継いだ農林水産族としての基本的立場や、後に自分で利権を切り開いた、建設族としての立場が有名ではあったが、本人は労働族としての立場を、本来は重視していたということなのだろう。


「それにしても、伊坂大吉と小樽で会った時期を考えると、戦後すぐに小樽の佐田家に行ったということでもなかった様ですが?」

話の重さもあって、やや間を置いてから、終戦から伊坂大吉が沖縄から復員してきた時期を考慮し、西田は大島にその間の行動について質した。


「終戦時は、私は道東の飛行場建設現場に居たという話をしたが、具体的には中標津なかしべつ別海べつかいの辺りの飯場に居た訳で、まともに動けるようになってから、まずは佐田徹が勤務していたという北ノ王金鉱山まで訪ねて行ってみた。すると、大戦末期には金鉱山が全て閉山していたらしく、佐田徹は既にそこには居なかった。そのまま、欣ちゃんに生前に言われていた様に、小樽の実家へと行くことも考えたが、先に一度、地元の綾里へ戻ってみたくなった。……と言うより、出来れば北海道、特に道東を離れたかったという方が正確かもしれんな……。色々あったからな。……それで戦争で故郷がどうなったか、既に親族、知人が居なくなったとしても心残りだったこともあったので、一旦戻ることを決意した。正直、出来るだけ早く、佐田家を訪問した方が、砂金の確保の為には望ましいとは思ったが、精神的にも余裕がなかったのと、敗戦の混乱もあったので、社会が落ち着いてからの方が良いかという判断もあった」

「なるほど。確かに、色々肉体的にも精神的にもキツイ時期が長かったみたいですから、そういう感情が芽生えたのも不思議ではないですね」

この時の西田は、犯罪者を詰問するという感覚では既に無くなっていた。


「そして、生田原からまず札幌へと向かった。当然、遠軽や丸瀬布も通り過ぎる訳で、あの時のことが自ずと思い返され、そこでも複雑な心境ではあった。しかし、どうせまた来ることになるのだから、そこは忍の一字で耐えた……。札幌からは小樽をそのまま通過して函館まで着いた。実際のところ、函館まで来るだけでも、かなり時間が掛かったはずだ。敗戦の8月15日から1ヶ月も経っていないので、鉄道の運行もダイヤが乱れていたのと、酷い混み様でそちらでも大変なものだった……。更に(青函)連絡船も戦時中に相当やられた(作者注・青函連絡船の戦時被害については、以下参照 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-seikan.htm)らしく、就航している船自体の数も少ないので、こちらも青森まで行くのにも一苦労だったな……。それでやっと青森に着いてからは、今度は青森市内が焼け野原になっていることに驚いた。何でも7月の末に大規模に空襲を食らったらしい。北海道の飯場に居て、日本全体の状況は把握出来ていなかったが、青森や函館まで攻め込まれていたのだから、負けて当然だと、その時はため息しか出なかった。とは言っても、後から根室や釧路まで空襲を受けていたと知って、その近くの飯場に同時期に居たのだから、如何に情報が入ってこなかったかということもでもあったがな……。とにかくその時には欣ちゃんの予言を改めて思い返していた」


※※※※※※※


 青森空襲は、これまた終戦間際の昭和20(1945)年7月28日夜から明けて29日に掛け、B29・62機によって行われた。8万弾を超える焼夷弾による空襲である。1800名弱の死者を出し、市街地家屋の90%近くが消失するという、一地方都市の空襲としては甚大な被害を出した。


 尚、この空襲の前の青函航路爆撃で、既に市民に危機感が広がり、中には避難する者が出ていた。このことで混乱が広がるのを恐れた青森県並びに青森市が、家が無人になった場合には配給を停止するという警告を発したため、直前に市内に戻る市民が多かったとされる。


 その上、空襲直前の27日深夜に、数日内の空襲を予告するビラがB29によってばらまかれたものの、箝口令が敷かれたことで、市民に情報が行き渡らなかったことも、更に被害を広げることとなった。


 空襲を受けた他都市でも似たような事例があったが、行政側の統制重視の判断で、国民に被害が広がった典型例とされている。


 尚、広島市内にも原爆投下前に原爆投下予告ビラが撒かれたという説があるが、少なくとも原爆投下を示唆したものは、長崎に投下後とされている。おそらく通常の空襲予告と投下後のビラの話が混同されているものと思われる。


※※※※※※※


「そして今度は東北本線に乗り継ぎ、岩手の花巻まで出て釜石へと向かった。ところが釜石に向かう途中で、敗戦間際の7月と8月に、釜石市街が海上から連合国艦隊に大規模な艦砲射撃を食らったという話を地元の人から伝え聞いた。青森で見た光景が思い浮かんだが、釜石にたどり着くと、やはり街中は変わり果てた焦土になっていた……。まさか地元の、しかもそれ程規模の大きくない市である釜石が、そんな目に合うとは思っても居なかったが、よく考えれば、東北地方唯一の製鉄所があったもんだから、そりゃ攻撃対象になって当然と言えば当然だった。更に、仙台でも敗戦間際にかなりの空襲があったと聞き、私と欣ちゃんが世話になった安積商店の皆のことが気になった。結局、故郷の綾里はちょっと寄っただけで、何も変わっていないことを確認すると、そのまますぐに仙台へと向かったんだ」


※※※※※※※


 西田達がこの年の春に、綾里地区や宮古の天井老人を訪ねた際に通過した釜石は、三陸沿岸特有のリアス式海岸地形の都市である。有史以来、津波の被害を受け続けてきた街であると共に、古くからの漁業と製鉄の街でもある。


 一見、先の戦争被害とは無縁の地理条件だが、事実として、大戦末期には大きな被害を受けている。1945年の7月14日、アメリカ海軍による製鉄所に向けた艦砲射撃で、一般市民400名以上が死亡。更に長崎に原爆が投下された8月9日、アメリカ海軍とイギリス海軍の連合部隊が艦砲射撃を実施すると共に、艦載機による機銃掃射が加えられ、300名弱の一般市民の犠牲者を出していた。


※※※※※※※


「仙台も相当の被害を受けていたそうですね。我々の捜査でも、桑野さんの足取りを追った際にそれが足かせとなって、旧制二高の段階でほぼ途切れましたから」

西田がそう応じると、

「ああ。実際に仙台にたどり着いたのは9月の初旬だったと思うが、それより2ヶ月前(正確には7月10日)の空襲だったにも拘らず、まだ中心部は焼け野原のままの状況でな……。当然、そのど真ん中にあった安積商店は跡形も無かった……。周辺住民もほとんどやられたらしく、詳しい情報はわからなかったが、数ヶ月仙台に留まり、色々聞き回った情報を総括する限り、やはり世話になった店主の安積さんやその家族、店の従業員も亡くなった模様だった。そもそも、店の周りの知り合いにすら会えなかったのだから、当然の結論でもあった。私にとっては、あの津波以降は家族同様の存在だったのだから、強い虚脱感と喪失感に襲われたのを憶えているよ。……既に唯一の血縁者である欣ちゃんまで亡くしていた上にこれではな……。信仰心などない一方、特段無神論者でもなかったが、この世に神など確実に存在しないと思えたな、その時は」

と訥々と喋った。


 事実として、天涯孤独の身で、戦時中はタコ部屋労働で心身共にやつれたであろう、焼け野原の仙台に立った小野寺道利青年の心中は、西田と竹下という、平和な現代いまに生きる男達にも容易に察することが出来た。


「しかし、あの機雷が爆発した時と同じ心境が訪れるのに、絶望からそれほど時間は掛からなかったのだよ」

「同じ心境ってことは……。もしかして、それをメリットに変えようという感じですかね?」

大島の発言に対して、吉村は1つの推測を提示した。

「良い読みをしているね。全く君の考えている通りだ。絶望がある種の希望に変わった。私はあの爆発から、桑野欣也として生きていく必要があったが、幾ら日本が負けてご破産になったとは言え、他人の名を騙っていたとなると、これからの人生において大きな問題となりかねなかった訳だ。しかし、欣ちゃんや私を知る人物がことごとく消えたとなると、その心配はかなり減ることになる。後はバレないように、名前を改名でもしておけば、何とか人並みに生きていけるのではないかという希望だな」


 やはり、95年の竹下と黒須の捜査通り、大島は戸籍のロンダリングを狙って、「靖」と改名をしていたのだ。更にその後、多田家に養子として入って多田靖となり、婿入りで田所靖という最終形態になる流れだった。西田はそこまで納得すると、

「その後はどうしたんですか?」

と話の更なる展開を求めた。


「私は砂金の在り処を知る為に、小樽の佐田家を目指すことを再度考え始めたが、何分冬の厳しさを考えると、春先になってからでも良いと判断して、そのまま仙台で年を越して春になるまで待った。それと、おそらく砂金があるであろう生田原の近くには、それこそ湧別のあの現場があるのだから、潜在意識にやはり忌避感もあったのかもしれないな、今思えばだが……。それで、それこそブラブラしている時に知り合ったチンピラみたいな男と、仙台で駐留軍の物資横流しに関わることになったが、当時の私の不安定な立場からすると、むしろ居心地は良かったとさえ思う。仙台も言うまでもなく、当時絶望的に物資が不足していたせいで、それなりに儲かって、飯場のような過酷な労働に耐える必要もなかったので、十分天国のようなものだった……。駐留軍は、今の東北大学がある川内かわうちという所に居たんだが、下っ端の兵隊連中とつたない英語で話して、色々分けてもらえた。まあその点は、ちょっとは旧制中学での勉強が役に立ったかもしれん……。チンピラは城山と言う奴だったが、私が仙台を出るつもりだと告げた時には、かなり引き留めようとしたのを思い出す。ただ、『お前も簡単な英語ぐらい出来るようになってるから大丈夫だ』と言って、何とか納得してもらった。それでも私が実際に発つ時には、かなりの餞別を渡してくれたもんだ……。今生きているのか、どこに居るのかも定かではないがね……」

大島はそう言うと、しばし遠い目をした。


※※※※※※※


 元は伊達藩・仙台城(青葉城)二の丸のあった場所(川内かわうち地区)は、戊辰戦争後に帝国陸軍第2師団の駐屯地となった。しかし、仙台空襲により焼け野原になった挙句、敗戦後はGHQに接収され、そのまま「キャンプ・センダイ」としてGHQの駐屯地となっていた。


 そのGHQの撤退(昭和32・1957年)後は、東北大学の川内キャンパスとして今に至っている。川内キャンパスでは、GHQとしての米軍が使用していた施設の一部が、サークル活動の部室などとしてそのまま再利用されていた。


 尚、仙台名物とされる牛タンは、当時のGHQの食料物資としての牛肉から、要らない部位としてタンが捨てられていたので、それを再利用する形で普及したとする俗説がある。


 ただ、食料物資の牛肉は、アメリカで牛を解体したものが冷凍で送られて来たとされており、牛タンがゴミとして捨てられたということは、まず考えられていないこと。そして牛タン自体が、フランス料理などの洋食の食材として、元来普通に使用されていたことを考えれば、少なくともゴミとして捨てられていたということは、まずあり得ないというのが現在の通説である。


 仙台牛タン発祥の店とされる「太助」(作者注・伊坂大吉の改名前の「太助」とは、何の関係も伏線でもありません)に伝わる話では、宮城県内や隣接する山形県内の牛を飼育している裕福な農家から、解体時に何とか食材のタンを手に入れていたとしており、普及初期においては、地元でタンを細々と調達していたというのが実情の様だ。


 現在では、ほとんどの牛タンの原料は、海外からの輸入食材を用いており、食材としてではなく、あくまで料理としての仙台名物に過ぎなくなってしまった様である(米沢牛や仙台牛などを用いた、地元産の牛タンもあるにはあるが、ある種高級食材で一般的ではない)。


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