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修正版 辺境の墓標  作者: メガスターダム
名実
174/223

名実97 {125単独}(299~300 持ち出された荷物の謎と戦時中のタコ部屋労働)

「丁度この場面で、是非聞いておきたいことがあるんですよ、小野寺さん!」

西田は、かねてから抱いていた疑問を大島相手に口にしていた。

「何だね?」

話の腰を折られたような形になり、大島は少々渋い顔をしたが、それに気遣う理由も時間もない。


「桑野さんは機雷事故のあった際、自分の持ち物を、鴻之舞の寮? から何故か持ち出していたのではないかと、当時の鴻之舞金山の機雷事故絡みの報告書に記載されていたようです。それが理由で、機雷事故の後で桑野さんが行方不明扱いされた時、元々どこかへ行くつもりだったのではないかとも推測された模様です。そしてそれこそが、事故の最中に行方不明になったにも拘らず、余り大事にならなかった理由にもなったとか。そもそも、あなたが証文を持っていたのは、まさにその桑野さんが持ち出していた持ち物に、それが入っていたからではないんですか?」

「……そうだな。まさしくあれは、言わば僥倖ぎょうこうだったと言えるかもしれん」

「ギョウコウ?」

吉村が聞きなれない言葉に、思わず聞き返す形になったが、大島は今度は何事もなかったかのように、

「わかりやすく言うなら、思いがけない幸運とでも言えば良いかな」

と諭すように説明した。


 それについて、吉村が礼を言う間も感想を言う間も与えず、西田は、

「あくまでたまたまだった、そういうことですか!? 余りにもタイミングが良過ぎですね、それは……。本当に幸運ですよそれは!」

と、信じられないと言う感情を、そのままダイレクトにぶつけていた。それに対し、

「うむ、君らが信じられないのも致し方無かろう。ただ、絶妙のタイミングという意味では、偶然が過ぎると言うのは事実かもしれんが、時勢を考慮すれば必然という側面も全く無い訳ではない」

と落ち着き払って言った。

「時勢?」

思いもしない表現に、西田は戸惑っていた。


「そうだ西田君! 言うまでもなく、当時欣ちゃんが信奉していた左翼思想は、治安維持法のある戦時体制下においては、まさに国家反逆思想に当たる。彼自体は特にどこかの組織に属していたというものではない、言わば野良左翼的ではあったが、同志たる知人はそれなりに居た訳で、当局にバレる危険性は常に認識し、そして覚悟していた。更に、警察……おそらく特高だろうが、鴻之舞金山にガサ入れに入るかもしれないという情報が、ちらほら我々の耳にも入っていたのだよ。そういう所に、左翼運動家が潜んでいるということが、たまにあったらしいので、そういう関係でだろうな……。そして我々の立場は、そこら辺の鉱夫よりは、職場の中枢から何となく情報が入ってくる立場でもあった。発破技士は技能集団として、こう言っちゃなんだが、鉱夫よりは高い扱いだったからな」


 大島の発言は、2人共も知識として持ってはいたが、そういう体験談をリアルに耳にするのは初めてだった。


「とは言え、比較的安定していた鴻之舞の職場から、積極的に去るつもりもなかったようだ。さすがの欣ちゃんと言えども、待遇の悪い所には、出来る限りそうは戻りたくはなかったのではないかな? 周囲の人間関係も良好だったということもあった。勿論、私を置いていくという訳にもいかなかったはずだ。ただ、自分の主義主張を捨て去るようなタイプでも無い。柔軟性と現実主義的なところがそうさせて、あくまで避難所という感覚だったんだろう……。そういう理由で、危機意識を持ちつつ暮らしていたせいか、ガサ入れで思想書やら何やらバレないようにすることと、すぐに逃げ出せるように、日々の仕事の現場にも必ず風呂敷に一式包んで、わずかな生活用品含め持ち出すことにしていたんだよ。だから彼は出来るだけモノは持たないようにする生活を心掛けていた。それに加えて、津波の経験がかなり大きかったこともあったようだな」

「津波の経験とは?」

吉村が素っ頓狂な顔で尋ねると、

「さっきも言ったように、欣ちゃんが二高に進学した際、彼にとって重要なモノは実家から仙台の下宿に持ち出していて、実家が津波で流された時も、かなり助かった経験が深く染み付いていたんだろう。だから2つの意図で、あの時は部屋にモノは残さないままで出掛けていたという訳だ。今の言葉で言うなら、彼なりの危機管理という奴だな」

と答えた。

「なるほど。その2つの要因で、荷物を粗方持ち出すような状況にあったということですか」

この回答で西田は、抱いていた謎について十分に納得した。言うまでもなく、この場に竹下は居なかったが、彼もまた、桑野の持ち物が消えていた謎については、腑に落ちないところがあったので、もし居れば非常に明快な解に、素直に喜んだのではないかとも思った。


「話を戻しますが、成り済ましというかすり替わりというか、それを思い立った段階で、すぐに警官に、『自分』を含めた他の2名の職員が死んだと報告を入れたんですね?」

西田は話を本筋に戻すと、

「そうだな。思い立ったが吉日とばかりに、形見として持ち出す為、肉塊から半纏だけ剥ぎ取り、鮮血に染まり、怪我人や救助に入ってきた人で大騒ぎになっていた砂浜を一目散に戻った。そして欣ちゃんの風呂敷の荷物を取りに行ってから、今度はすぐに近くに居た警官に、鴻之舞組の誰が死んだか虚偽の内容を伝えた。ただ、当時は警官自体も多数犠牲になった上に、消防団(警防団)の多数の連中が巻き込まれたことで、警察が現場を主導していたこともあって、消防団の連中や地元の民衆ひとたちが生き残った警官に詰め寄ったり、殴りかからんばかりの状況で、相当の混乱状態だった……。こっちとしては、その状況が都合が良いと思う反面、こっちの伝えたことが、ちゃんと認識されるかどうかという不安もあった。しかし、悠長なことは言っていられない訳で、すぐに現場を後にして、最寄りの駅へと向かったんだ。あの時は必死だった」

と語った。


「その時は、その先どうするかという所までは、さすがに考えられなかったでしょ?」

「それは当然だな。とにかくその場を離れることで精一杯。後先考えずとは、まさにあのことだろう。私は持ち合わせが無かったから、欣ちゃんの風呂敷の中の財布にあった金がなかったら、厳しかったかもしれん……。そして何より、その緊急事態の中でも証文を受け継ぐことが出来、桑野欣也として生きる為の、身分を証明を出来るものも同時に手に入れられたのが大きかった。当時は身分証明に写真なぞ用いる必要もなかったからな」

西田にそう答えた時の大島は、自分自身の発言に心底納得したかのように頷いた。


 そしてこの時、湧泉の大将である相田泉の内縁の継父で、遠軽署所属・芭露ばろう駐在所員の警官でもあった浅井あさい稲造いなぞうもまた、機雷事故で命を落としていた。皮肉にも現場には、爆破処理の見学に来ていた、当時尋常小学校生徒だった相田泉も居たことを、西田はすっかり忘れていた。相田泉と大島海路という、何の接点もない、年齢も違うはずの2人の人生が、密かに交錯していたのである。


「機雷事故がその後一体どうなったかについては、その後も知らないままだったんですか?」

「吉村君。確かにその当日のその後の記憶は、正直ほとんど無いのだが、翌日に新聞を旭川駅で買って、事故が報じられていたのを確認してからは鮮明に憶えている。その場に居たのだから、かなりの惨劇だったことはよくわかっていたが、それでも100人以上死んだというのは正直驚いた……。さすがに翌日には、欣ちゃんの死を悲しむだけの余裕と言うか、心境の変化があった。記事を見ながら、いよいよ天涯孤独になったかと、涙ぐんだものだ……」

すぐに立ち去ったとは言え、現場と大島自身が如何に混乱していたか、この証言が物語っていた。


「その後は、結局どうしたんですか? 戦後に小樽の佐田家に、伊坂と共に現れたところまで、こっちの情報はすっぽり抜け落ちてますんで、是非聞いておきたい」

従兄弟の死を改めて強く認識したシーンを思い出し、感慨に浸っているだろう大島に、少しは遠慮するところがないこともないが、西田としても話を聞かない訳にはいかない。


「最初は郷里の綾里か、もしくは仙台の下宿先だった安積商店のどちらかに戻ろうと札幌まで出たのだが、そこで重要なことに気付かされた。……というよりは、それに気付かなかった自分が情けなかったというのが正直なところだな。幾ら津波で村ごと大きな被害を受けたとは言え、地元に戻れば、こちらが知らずとも私の顔を知っている人間がまだ居る可能性が、絶対に無いとは言い切れなかった。仙台には、間違いなく私や欣ちゃんを知っている人間が居るのだから、……というより、知っている人間の元へと戻ろうとしていたんだから当然だな。せっかく『桑野欣也』として生きる意味が無くなってしまう。それじゃあ、全く知らない場所で暮らそうとしても、そもそも私は、『指の障害』が原因で召集を免れることになる訳だから、戦争が長引き自分が召集されなければ、周囲に不審に思われる可能性もある。そうなると、出来る限り『胡散臭い』場所で生活していくのが、最も安全な方法だと考えざるを得なかった」

 

 尋問している2人にとって、聞いた直後には、「胡散臭い」の意味がよくわからなかったので確認しようとしたが、それを察したか、大島の方から喋り始めた。


「欣ちゃんからは、道内の飯場について色々聞いていたから、ロクな環境ではないが、潜伏生活を送るには格好の場所でもあるという知識があった。つまり、戦争が終わるまで、道内の飯場を渡り歩いて潜伏生活をする覚悟を決めたということだ」

「つまり、それを昭和17年の初夏から終戦までの3年続けていたんですか?」

吉村がそれを聞いてすかさず反応したが、大島はにわかに苦々しい表情になり、

「しかしその選択は、そう時間も経たない内に、せっかく桑野欣也となって戦地へ赴く必要がなくなったことを、ほぼ無にするようなことだったと気付くことになる」

と押し殺すように言った。

「無にする?」

西田はまわりくどい表現の意味がわからず、それについて質したが、

「文字通り、そのままだ……」

と言葉少なに言い切られた。それでも2人がそれでもピンと来ない様子であることを見ると、詳しく説明する必要性を感じたか、大島は勝手に話をし始めた。


「欣ちゃんから、当時の北海道の飯場や炭鉱労働の過酷さについては、鴻之舞に居た時のみならず、手紙や仙台に来た時にも聞いていたが、あくまでこちらは、情報として聞いていただけだった。だから自分で実際にそれを体験するようになると、『飛んでもない所に来てしまった」と、後悔することになった。そして、その状況は、戦地でもない国内でも、戦況が悪化……、と言っても、当時は既にまともな情報を得られるような場所にも居なかったし、報道自体が管制下にあったのだから、それ以前の問題でそう推測していただけだったが……。その戦況悪化に加えて、働き手の日本人の若い男がドンドン戦地へ送られるようになると、更に困窮を極めた。物資や食料は減るわ、人夫は減るわで、過酷な北海道の自然環境もあって、まさに過重労働の生き地獄だ。欣ちゃんの頃より状況は間違いなく酷かっただろう……。そして、足りない人夫を補充するために、支那人……、まあ今で言う中国人の捕虜や、朝鮮から色々言いくるめて連れてきた朝鮮人に加え、日本に既に居た、今で言う在日の朝鮮人が労務に当てられてやって来る。朝鮮人も当時は一応日本人扱いとは言え、言わば二級国民という扱いだから、タコ部屋にぶち込まれた日本人より更に待遇が悪い訳で、栄養失調に働きが悪ければ、棒頭ぼうがしらや飯場頭に殴られたりと、中国人同様バタバタと倒れていったな……。まあ、我ら日本人も、年がいった者や、今で言う中学生の年齢のような、身体も出来ていない若者が相当倒れていったが……。その頃には、さすがに、『戦地へ素直に行った方がまだ良かったのではないか?』と、ほうほうの体でたどり着いた飯場の寝床で、夜な夜な自問自答する日々が続いたものだ……。終戦は道東の陸軍の飛行場建設現場で迎えた。解放されると知った直後は、嬉しいというより、何とか生き残ったという思いだけだったな……」


※※※※※※※※※※※※※※


 戦時中、兵士として多数の日本人の働き盛りの男性が召集されたため、土木建築現場や鉱山などの肉体労働現場では、華人労務者(ほとんどが日中戦争での捕虜と見られる)や日本国内に既に居た、或いは朝鮮半島からの朝鮮人労務者が動員されることとなった。


 特に北海道では、過酷な自然環境や冬期間の低温や豪雪により、労働者が圧倒的に不足していたこともあり、日本人労務者の他、このような労働者が相当多数動員されていた。


 朝鮮人労務者においては、いわゆる「強制連行」とは言えないまでも、かなり強引な勧誘や詐欺的な待遇に釣られてやって来た事例も多く、日本人労務者以上に、華人労務者や朝鮮人労務者の中には、酷い待遇の末、死亡したり逃亡したりする例が頻発したとされる(いわゆる強制連行性についての議論はあるが、華人労務者の長期逃亡例としては劉連仁・氏の逃亡劇が有名 。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%80%A3%E4%BB%81)


 また、このような状況下での労務管理においては、常紋トンネル工事でも行われた「タコ部屋労働」の手法が相変わらず採られ、この状況や、戦時中における食料などの物資の不足も相まって、労務者としての動員数が少なかった日本人含め、数多くの犠牲者を出すことにつながった。


 具体的(以下資料、朝鮮人労務・労働者につき「強制連行」云々という表記が出て来る場合がありますが、この点についての問題は、また別の話になってきますので、過酷労働・強制労働程度に置き換えておいてください)事例には、


道北・猿払さるふつ村の浅茅野あさじの飛行場工事(http://www.asajino.net/gaiyo.html)


道東・別海町の計根別けねべつ飛行場工事(http://betsukai.jp/blog/0001/index.php?ID=16)


道央・東川町の農業用遊水地・発電所工事(https://town.higashikawa.hokkaido.jp/living/press/pdf/2010-12/2010-12-06KYOUSEI_ROUDOU.pdf http://ouenkitanodaichi.web.fc2.com/douhokubunkazaihtml/kyousei.html)


朱鞠内湖として知られる、道央・幌加内ほろかない町の雨竜第一・第二ダム工事(http://hidenaokoh.sapolog.com/e383164.html)

が挙げられる。


 因みに、この手の戦時中の道内における大規模土木工事では珍しく、雨竜ダム工事では、圧倒的に日本人労働者の死亡率が高い工事である。おそらく日本人が動員された初期工事の過酷度、危険性が限りなく高く、結果的に後の朝鮮人大量動員につながったことで、朝鮮人犠牲者が少なくて済んだのではないかと推測される。


 また工事自体が、昭和14年着工・昭和18年完成であったことから、戦局が急激に悪化する手前で終わったことも、朝鮮人労務者の死亡率が低い要因であろう。森村誠一氏著「笹の墓標」はこのダム工事に絡んだ社会派推理作品。


 また道内における動員では、他にも各地炭鉱などでの従事が有名だが、現在の北方領土での工事でも多数の死者が出たという説もあり、はっきりとした犠牲者数はわからないのが実情である。尚、当時既に朝鮮半島では、北海道から何とか生きて戻った朝鮮人労務者から、「ホッカイドウ」という地名が、悪名として伝えられることもあったという。


 一方で、当時の日本人労務犠牲者の話は、左派からもほとんど出て来ず、また右派は、連合国・中国人捕虜含めた動員労務者の「強制労働」の類は、全体的に否定してしまっている傾向が強いので、残念ながらかなり埋没してしまっているのが現状である。


 戦争被害を語る際、「兵士」もしくは「軍属」、或いは銃後の「国民」の飢えや空襲被害のみが強調されてしまっている現状は、非常に残念としか言いようがない。


 実は戦時中、召集の対象だった年齢の男性でも、召集令状の特殊性(対象者を本籍地の戸籍で管理していたため、その後、寄留簿などでも所在地が掴めないことが案外あった模様。行方不明で徴兵検査すら受けないままの人間も居た様である)より、召集令状が届かず、入隊しなくて済んだ男性が思ったより多かったという話もあり(作者注・ネットでのソースが示せず残念ですが、北海道の場合、本籍地である地元を離れた後、いわば行方不明になる男性が結構居て、召集令状がよく届かなかったという話を、道内の歴史を扱った書籍で、数年前に読んだものの書籍名も失念)、このようなタイプの人間は、言わば日雇い人夫的な暮らしをしていた可能性が高いと考えると、モロに飯場暮らしの労務者とバッティングする可能性が高い。まさに歴史の闇に埋もれた人々が、人知れず犠牲になっていた可能性は、決して低くはない。


 また、日本の敗戦後、このような虐待状態から解放された華人労務者や朝鮮人労働者が、今度は暴動を起こして、言わば「お礼参り」のような形で、それまでの監視・使用側の日本人をリンチするという事例も炭鉱や鉱山で頻発したとされ、禍根を更に生み出すことになってしまった。特殊な水銀鉱山として有名だったイトムカ鉱山(国道39号線沿いにある、北見市・留辺蘂地区にある、閉山した鉱山 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%AB%E9%89%B1%E5%B1%B1)でも、終戦後に暴動があったとされている


 尚、資料中の「延べ人数」の類は、日あたりの重複含めた労働者数に工事期間日数を掛けたものもあると思われる(特に計根別飛行場)


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