名実93 {121単独}(291~292 桑野欣也と小野寺道利の生い立ち1)
「いや、俺は構わんが、大丈夫なのか?」
「かなり話が複雑ですから、どちらにせよ論点整理は別にしてやらないと、きちんとした調書は取れないと思います。今日のところは、全体の流れを聞くだけの形で」
「わかった。じゃあ今日の所は、完全に2人だけで大島の話を聞いてくれ」
馬場は、このやり取りで、西田に完全に任せた方が良いと判断したか、案外素直に提案を受け入れてくれた。
西田は取調室に戻ると、
「小野寺さん。申し訳ないが、供述調書はまた別日に取らせてもらいたいんですよ。今日はあくまであなたの話を聞くだけになりますが、問題ないですね?」
と立ったままで確認した。
「ああ。同じ話を何度しても構わん。むしろそういうことになると思っていた。そのぐらいのことは何とも思わんから、そっちの好きにしてもらって結構だ」
達観したように、大島がそう答えたのを確認すると、西田は静かに椅子に座り、
「では、その条件である、あなたの遺言について……」
と切り出した。
「それについては、是非最後にしてもらいたい。その方が、私としてもすっきりとした思いで、君らに遺言を託せるし、話がわかりやすくなるはずだ」
大島は、この時は若い刑事相手に言い聞かせるような言い方になっていた。
「こっちとしても、事件について話してもらえるなら、順番はどうでもいいんです」
西田がそう返すと、
「うむ、じゃあ事件について、まずは話すことにして」
と背筋を伸ばしながら喋ろうとした。
しかし西田としては、単なる一連の事件についてのみ事実関係を話されても、捜査の為には余り意味が無いと考えており、
「いきなりで大変申し訳無いんですが、この事件については、あなたと従兄弟である桑野欣也の出自から、時系列に沿って教えていただけないと、事件の全容もはっきりしないと思うんで、事件についてだけというよりは、あなたの、ある意味人生そのものについて、そして桑野欣也というあなたの従兄弟についても絡めて、今日はじっくり語っていただきたい。こちらがわかっていることは勿論、わからないことについては質問しますから、それについても答えてもらえたら」
と注文を付けた。
「うむ。それについては、私としてもそのつもりだったから丁度良い」
大島は頷きながらそう言うと、ゆっくりと喋り始めた。
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「既に調べてわかっているだろうが、私は岩手県の大船渡(市)の綾里(作者注・2001年、綾里地区のある三陸町が吸収合併されて、大船渡市・綾里地区になりました。その前は三陸町・綾里地区という行政区分でした)というところで、大正7(1918)年に生まれた。当時はまだ綾里村と言ったはずだ。後に他の村と合併して三陸町になったようだがね……。父は小野寺道夫、母は小野寺マチコ。父は婿養子として、母の実家である網元の小野寺家に入る形だった。小野寺家には、母とその妹しか居なかったので、そういう形になったそうだ。そして、妹の名前がトキコ。この妹は、岩手の田老町……、当時は田老村だったか、そこにあった桑野家という網元の家に嫁いだ。何でも、小野寺の所の船が沈没しかけた際に、桑野家所有の船に助けられて以来の、いわば盟友関係の様な付き合いだったらしい。結婚は私の母の方が早かったが、最初の子供が生まれたのはトキコの方が3年早く、それが桑野欣也……、私は親しみを込めて欣ちゃんやら、欣兄と呼んでいたが、その人だった訳だ。因みに欣ちゃんは、私のことを道利という名前から『みっちゃん』と呼んでいた」
言うまでも無く、桑野欣也が1915(大正4年)に生を受けたことは調査済みだったが、桑野家に欣也の母となる小野寺トキコが嫁いだ理由が、救命と言う縁に端を発するということは新情報だった。
「桑野欣也さんとは、大変仲が良かったんですか?」
西田の問いに、
「ああ勿論だ。仲が良いというよりは、むしろ実の兄弟のような間柄だった……。特に私が一人っ子だったからな……。欣ちゃんは、3つ下の私にも、彼の実の弟にも大変優しく面倒見が良くてね……。それだけではなく、地域の子ども達にとっても、良いガキ大将として子供なりに人望も厚かったようだ。そして何より、大変利発な少年で、当時の尋常小学校では神童扱いだったはずだ。叔父さんや叔母さんにとっても、自慢の息子という訳だ。とは言え、彼自身は決して驕り高ぶるようなところもなく、得意の水泳始め運動もとてもよく出来たので、親族以外からも将来を嘱望されていたのは間違いない。容姿も私同様、特に良くもないが、そこそこで悪くもなく、背は当時としてはかなり高い、今で言う170後半ぐらいはあったし、欠点と言える欠点と言えば、当時は周りも同じだから気付かなかったが、岩手訛が強いことぐらいだったか……。私も岩手を出てから気付かされて、結果的にはかなり努力して直すことになったがね……。欣ちゃんの父親も、母親であるマチコ叔母さんも、将来的には家を継ぐことよりも、お大臣として出世することを望んでいた様だ。跡取りなら、弟も居たからね」
と答えた。
大島が、出身である岩手訛を全く感じさせないのは、自身の努力の賜物であると初めて知ったが、これについては更に意味があることを、西田達はすぐ後に知ることとなるものの、この時点ではまだ知る由もなかった。
「桑野さんについては、その後の話でも、常に人から尊敬されるような人物だったことしか出ておらず、正直な話我々も、『本当か?』と思うところもあったんですが、間違いなかった様ですね」
西田が、聖人扱いの桑野について触れると、
「ああ間違いない! あれほどの人物が、戦中に志半ばで倒れたのは、日本国にとっても大変な損失だったと言っても、そう過言ではなかろうよ!」
そう言って、桑野は太鼓判を押すと共に、如何にも悔しそうに唇を噛んだ。勿論、「志半ばで倒れた」とは、湧別機雷事故のことなのだろうが、この件はどうせ後からも語られるだろう。西田も吉村も、この時点ではそれ以上の深入りは止めた。
「問題はその後ですね。桑野さんは旧制釜石二中へと進学し、その後飛び級で5年制だった旧制中学を4年で卒業して、仙台の旧制二高へと進学したという話が出てます。一方で、小野寺さんはその頃どうしていたんですか?」
「西田さんとか言ったかな? 欣ちゃんについては調べた通りだ。彼はトントン拍子に進学し、仙台まで出た。一方の私は、到底天才肌ではなかったが、何だかんだ言っても、標準以上には学業も出来たので、(旧制)大船渡中学へと進学していた。と言っても、私の場合は、将来的には家を継ごうかと、漠然と考えていた程度で、(旧制)中学を卒業した後にどうするかまでは、明確に進路は決めていなかったがね……。欣ちゃんは順調なら、東京帝大か東北帝大のどちらかには行っただろうな……。とは言え、丁度我々が多感な時期に、東北は大変な状況になっていたんだ……。いわゆる大飢饉って奴でね……。やませが吹き荒れ、食うに食えない農民が東北に溢れた。いわゆる『娘の身売り』……、勿論知っているな? それもこの頃多発した。実際、まだ子供と言えた年齢の当時の私ですら、そういう話を良く聞いたものだ……。但し、三陸沿岸は稲作は余り活発じゃなかったことや、漁業が中心産業だったから、私の周囲ではそれほど深刻化はしとらんかったがね……。いずれにしてもこの状況に、心優しく頭の良い欣ちゃんは、大変心を痛めていた訳だ。そして、彼は共産主義や社会主義に傾倒していくことになる」
この点については、宮古の天井老人が、ある程度解説してくれていた通りだったようだ。
「実は、それについても我々は、桑野さんの中学時代の後輩の方から話を聞いておりまして」
西田が補足すると、
「ほう。君達は昔のことを本当に丁寧に調べているな。事件と直接関係ないことまで」
と、相変わらず心底感心しているようだった。
「正直、本当に大変でしたよ、あなたのことを調べるのは……。ただ、事件そのものより、周辺事実から洗わないとならない程、あなたの人生は複雑過ぎた」
吉村は、如何にも苦労させられたという言い方をすると、
「それは申し訳ない。しかし、そうであればある程、私が最後に話す相手を、君達にして良かったとも思う」
と、自らの「条件」と絡めて言いながら頷いた。
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1930(昭和5)年から1934(昭和9)年に掛けて、東北地方は度重なる大飢饉に襲われた。まとめて、「昭和東北大飢饉」や「昭和東北大凶作」などと呼ばれることが多い。
原因は「やませ」の発生である。オホーツク海高気圧がもたらす、太平洋からの冷涼で湿潤な夏季の季節風が、東北地方の太平洋岸中心に低温や濃霧などをもたらす。これが長期間続くと冷害を発生させる。
この時代も、そのやませが吹き荒れ、農業が壊滅的な被害を受けたことで大飢饉が起きた。但し、通常レベルのやませの場合、東北地方の日本海側では、山地を風が越えていくことで、いわゆるフェーン現象が発生するので、むしろ豊作の要因となることもあり、やませ=冷害という図式は、東北地方全体に言えるものではない。
昭和東北大飢饉では、東北地方や北海道はもちろん、長野などでも飢饉が発生し、娘を遊郭などに売り飛ばさざるを得なくなる、いわゆる「娘の身売り」が多発し、いわゆる「人買い」も大量に東北地方に集まったとされる。飢えた人々は、場合によっては木の皮やどんぐりなどまで食して飢えを凌いだ。
また、タイミングの悪いことに、1929年に発生した世界恐慌(日本の農村の主力産業であった養蚕業が、アメリカの生糸の需要減で壊滅的な打撃を受けた)や、その後日本で起きた1930年の昭和恐慌、同じ年の米の豊作による豊作飢饉、1933年の昭和三陸津波と重なったことで、被害が更に深刻になったという側面があり、東北地方出身の将校を中心とした、1936年の「皇道派」のクーデター事件である「226事件」の遠因になったともされている。これらの点については、詳しく後述する。
そのことが軍部の力を結果的に強め、政治を無力化したことで、1931年の満州事変からの流れと共に、日本は軍国主義への傾倒を強めていくことになる。
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「その後、昭和の三陸大津波が襲ったんですよね?」
吉村が少々焦ったように聞くと
「それはそうだが、その前に重要なことを忘れていた。昭和7(1932)年の年末だったそうだが、欣ちゃんは冬休みで、仙台の下宿先……、ああ、安積商店という乾物なんかの卸問屋で、小野寺家も桑野家も取引があって世話になってた縁で、彼がそこに下宿していたんだが、そこから実家に戻っていたんだ。そして船に乗って久しぶりに漁を手伝っていたところ、網に小さなフカ、つまりサメが掛かったそうだ。その時、大して大きくないのと、弱っていたらしいので、欣ちゃんは油断したんだな……。網から外そうとした時に、サメに両手の親指の大半の部分を食いちぎられてしまったんだ。田舎の村で、まして沿岸とは言え海に出ていたもんだから、そのまま止血するのが精一杯で、残念ながらそのまま指を失い、障害を負うことになってしまった」
と、自分のことのように苦痛に顔を歪めながら、大島が証言した。
「なるほど! それこそが、桑野欣也の両親指が欠損していた理由だったんですか……。人夫をしていた時代に、労災のような形で負ったモノだという可能性も考慮していたんですが……」
西田は想像もしていなかった展開に、そのような言葉を漏らしたが、吉村もかなりの驚きを隠せない様子だった。
「ほう。その点についても調べていたんだな!」
大島は改めて驚いたが、
「桑野欣也が手にし、あなたが受け継いだであろう証文のことから、色々とわかってきまして……。鴻之舞金山を経営していた、今の三友金属鉱業の雇用契約書まで、東京でわざわざ調べましたよ」
と、西田が教えると、
「さっきからずっと思っているが、君達の調査力は大したものだ。そうなると、わざわざ私に聞かなくても良いんじゃないのか?」
と、2人をジロジロと見つめた。




